メイン > 朝日新聞日曜版『書評』 > 2008年3月30日~4月6日
| 完全恋愛 | |
![]() | 牧 薩次 マガジンハウス 2008-01-31 売り上げランキング : 808 おすすめ平均 ![]() ミステリの大ベテランが裏名義で放つ完全恋愛推理。Amazonで詳しく見る by G-Tools |
他者にその存在さえ知られない罪を/完全犯罪と呼ぶ/では/他者にその存在さえ知られない恋は/完全恋愛と呼ばれるべきか? ――こんな挑発文で始まる本書の著者は「牧薩次」。1970年代にジュブナイル・ミステリーを読みあさった者にとって、彼の名はいつまでも瑞々(みずみず)しい輝きに満ちている。『仮題・中学殺人事件』にはじまる名探偵コンビのひとり「ポテト」こと牧薩次はミステリー作家志望で、なんと自分の名前を入れ替えて「辻真先」なるペンネームまでつくってしまうほどの人物。そう、このシリーズは当時アニメ脚本家としても大活躍していた辻真先が、初めて本格的に放った才気煥発(かんぱつ)の傑作ミステリーだった。
本書の末尾に記されているように、これは辻真先が初めて牧薩次の名で著した長編である。辻は執筆しながら強い手応えを感じたに違いない。そこで持ち前の稚気で本書を長年の分身に贈ったのだろう。辻は本書と同時期にコンパクトな『ぼくたちのアニメ史』も刊行しており、そちらが辻にとってアニメ史の決算なら、本書はミステリー作家としてひとりの一生を振り返った壮大な犯罪叙事詩だ。
主人公の究(きわむ)は少年時代に画家の娘・朋音(ともね)と出会い、恋心を抱く。終戦後、朋音をかばって犯罪の隠蔽(いんぺい)をした究は、富豪のもとへ嫁いだ朋音とその娘を陰から慕い続ける。しかしやがて朋音は亡くなり、その娘も不可解な密室事件で命を落とす。画壇の巨匠へと上りつめた究は、愛する者を奪われた哀(かな)しみから復讐(ふくしゅう)の完全犯罪へと向かってゆく。
究は辻とほぼ同年齢であり、彼の生涯はそのまま辻の生きた昭和から平成の時代に重なってくる。前半は巧みな情景描写と大河小説的な展開で読者を惹(ひ)きつけるが、昭和40年代に入れば「夕刊サン」やスナック「蟻巣(ありす)」など辻ファンにはおなじみの固有名詞が登場し、究もマンガや映画を語るようになる。そして平成に入り、ついに牧薩次が現れる。
後半まで読み進んで、主人公は本当に完全恋愛を達成できるのか、と不安に駆られた。しかしラストシーンで鮮やかな完全恋愛が完遂された瞬間、快哉(かいさい)を叫んだ。恋愛の痛みとミステリーの歓(よろこ)びがぴたりと重なり合う。こんな感覚をいままで体験したことがあっただろうか? そしてこれほどの厚みを湛(たた)えた本格ミステリー・恋愛小説を、かつて中学生だったあの「ポテト」が書いたのだと思うと、年月の流れを実感して胸が熱くなってくる。
それにしても、辻真先は生涯をかけて完全恋愛ならぬ「完全娯楽」をもくろんでいるのではないか。11年前、「ぼくのミステリーにも、ぼつぼつ幕の下りる時間が近づいたような気がいたします」(『本格・結婚殺人事件』あとがき)と書いたことを払拭(ふっしょく)するこの力作を得て、ふたたび『あじあ号、吼(ほ)えろ!』などの近作を手に取ろうとする読者も増えることだろう。こうなると、辻は最後の最後までしかけてくるのでは、と思いたくなる。史上最高の「完全娯楽」を同時代の読者として目撃できることを心から歓びたい。そしていまなお辻真先は現役であり、歓びはまだ続くのだ。【評 瀬名秀明 作家、東北大学機械系特任教授】
| ボローニャ紀行 | |
![]() | 井上 ひさし 文藝春秋 2008-02 売り上げランキング : 47 おすすめ平均 ![]() ボローニャ 重層的に読み解いてみよう!Amazonで詳しく見る by G-Tools |
かつて「ローマの休日」という映画があった。オードリー・ヘプバーンを一躍銀幕の大スターにおしあげた名作であったが、それとはべつに、
――ローマの観光案内として関係者にはこたえられないだろうな――
と思った。あの映画によりローマ旅行の夢を膨らませた人は多かったろう。
『ボローニャ紀行』を十数ページ読んで同じ思いを抱いた。手法はもちろん映画と異なるが、とにかくおもしろい。
“長靴型の半島は男の脚か女の脚か”と問いかけたり、腕ききの泥棒に襲われたり、脚よりアタマに話題が集まるサッカーの名選手フランチェスコ・トッティについて秀逸なジョークを紹介したり、ついでに中田英寿選手への思いを伝えたり、まことに多彩で、技が冴(さ)えている。
著者は30年このかたボローニャへの敬愛を抱き続け、それだけに知識の深さは半端ではない。
なぜそんなに好きなのか。読み進むにつれ、この都市の歴史、特異性、演劇への関心の深さ、その背後に潜む“みんなで住みよい街を作っていく”という精神が例示されていく。ボローニャ方言で語られ歌われる笑劇が、いつのまにか“アメリカのグローバリゼーションに対抗するには地元の(小さな街々の)文化しかない”という主題を明らかにしていく。
ボローニャはナチスと戦い、市民の手で解放を勝ちえた、という輝かしい歴史を持つ都市だ。その後の民生にはボローニャ方式と呼ばれる筋金入りの理念が作用していたらしい。一に家族、二に友だち、三にわが街、なにかと言えば、志を持つ者が集まって協同組合を作り、みんなで難問を解決していく。それがなぜか、この都市ではしなやかに実現されていく。女性の役割を重んじ、保育所を充実させ、職人の技を誇り、街の歴史的景観を見捨てない。
地方の町づくりをどう考えるか、しかつめらしい理屈ではなく、著者のユーモアと確かな筆致が読む者を楽しませてくれる。つい、つい、ボローニャへ行きたくなってしまう。【評 阿刀田高(作家)】
| 3年で辞めた若者はどこへ行ったのか―アウトサイダーの時代 (ちくま新書 (708)) | |
![]() | 城 繁幸 筑摩書房 2008-03 売り上げランキング : 32 おすすめ平均 ![]() 答えのない問いにどうでるか? 既得権益の壊し方に疑問 昭和的価値観Amazonで詳しく見る by G-Tools |
組織の論理から独立した個人の行方
この本はある意味で“右からも左からも批判される”書物である。保守派からは「組織の秩序をこわす」、旧来型左派からは「競争主義的である」といった理由で。しかし本書はそうした批判を超えた内容を多く含む書物である。
本書はベストセラーとなった『若者はなぜ3年で辞めるのか?』の続編だが、タイトルは「3年で辞めた」若者がその後どういう道を歩むことになったかという文字通りの意味とともに、前作で著者が徹底して批判した「昭和的価値観」の先に開かれる、新たな展望を論じた内容であることを示すものだ。
全体を通じての著者の主張の基本線は、組織や集団の論理からの「個人の独立」といえるだろう。本書の前半では外資系やIT業界、MBA留学といった話題が取り上げられるので、ビジネス系の“サクセス・ストーリー”志向の内容かという印象を一瞬与えるが、中盤から「独立」の内容は大きく多様化し、バーテンダー、出家僧、フリーター雑誌、NPO等々といった事例が具体的な形で論じられるとともに、「スローワーク」的な価値観にも理解が示される。そして著者の結論は、「構造改革の本質とは、新たな利益の再分配モデルを作り出すこと」「『労働者が適正な報酬を得られるシステム』を確立し、次世代をにらんだ利益配分システムを作り出すこと」に収斂(しゅうれん)する。
「最近の若者」が、一般に論じられているよりもはるかに「優秀」であり、「それ以前の世代よりはずっと努力している」という指摘を含め、著者の議論には共鳴できる部分が多い。結局、日本社会にとっての課題は、(1)“ウチ”と“ソト”を明確に区分するような農村型の関係性や行動様式から脱却し、集団を超えたつながりや規範原理を築いていくこと、(2)制度改革のための具体的な政策やビジョンを提示していくこと、に集約されるだろう。一部の言及を除き、著者の視野の中にヨーロッパの社会モデルがほとんど入っていないのが残念だが、今後の日本社会のあり方をめぐる議論を喚起するに十分な内容をもった本である。【評 広井良典(千葉大学教授)】
| 世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書 | |
![]() | 神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史 山川出版社 2008-03 売り上げランキング : 468 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
世界史をどう教えるか 歴史学の進展と教科書
歴史像を変えるための良き指南書
戦後の日本においてごく最近まで、世界史は、大学などの歴史研究者よりも、高等学校などで世界史を教える現場の先生たちの地道な努力によって支えられてきたと言って、過言ではない。
その現場にいる神奈川県の先生たちの危機意識から本書は生まれている。「日進月歩の歴史学研究の進展」の中で、「私たちの認識は、ややもすると自分たちが習った時代のまま」なのではないかと。確かに、80年代以来、歴史研究の変化は著しいものがある。本書は、60~70年代の世界史教科書と比較しつつ「この三十年ほどの歴史研究の進展」をどのように把握して、それを生徒に教えるかを考える10本の論考からなっている。
以前の世界史教科書では、ヨーロッパを中心とした視点から、古代―中世―近代へと段階的に発展する各国史が集められて世界史とされていたが、現在はどうなのか。
まず、ヨーロッパ中心の歴史の見方や概念が各地域の歴史に即して修正されている。たとえば、インドのカースト制度もイギリスが作りあげたものであると。また、ヨーロッパなり中国なりを、輪郭の明確な歴史的単位としてではなく、まわりの世界との交流の中で展開するものと見るようになっている。そして、「海の道」や「イスラーム・ネットワーク」といった観点から、ヨーロッパ、アフリカ、中東、南アジア、東南アジア、東アジア、そして日本など諸地域を関連付けて考える方向が示されているのだと言う。
歴史研究の変化を大きく見た場合、確かにそうである。歴史の専門的研究者よりも、歴史教育者のほうが、大局的に世界史を理解しているのではなかろうか。表現上の工夫が欲しい点も見られるが、本書は全国の世界史教育者へのメッセージである。だがさらに、歴史研究者にたいしても、そのテーマを常に広い世界の中で考え直す必要があるというメッセージを発し、世界史研究者と教育者の交流の促進を訴えている。そしてなによりも、本書は、われわれ読者にとって、歴史像を変えるための良き指南書なのである。【評 南塚信吾(法政大学教授)】
| ミラノ朝のバールで | |
![]() | 宮本 映子 文藝春秋 2008-02 売り上げランキング : 182 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
著者は10歳の誕生日に贈られた写真集でイタリアに魅せられ、「ウエートレス募集」の広告に応じて、24歳で渡伊。ミラノの日本料理店で働いていたときにイタリア人のカメリエレ(給仕人)と結婚、2児を出産した。育児のかたわら、今では2軒のレストランを経営する夫を手伝う。
本書は、20年以上イタリアで暮らす著者初のエッセー。友人らとの印象的な触れあいもあるが、義父の豪快で温かいイタリア人気質が圧巻。スーパーに並ぶ食料品の袋を破り試食させる。驚きながらもほおばり、むせた著者に「息子の嫁になる人が、あんたのような人でよかった」の一言。また「人生なんてブリオッシュだよ」と、おいしくて、すぐに食べ終わってしまう甘いパンになぞらえて、俗事を達観するすべを暗に教える。
もっとも、イタリア人のいい加減さにあきれることもたびたびだ。テレビニュースさえ定刻に始まらず、駅員は電車の発車ホームを把握しない。著者は文句を言いながらも、生活を楽しむ天才らとの日々に「イタリアは私の期待を裏切らなかった」。今朝も著者は夫君と、バール(日本のカフェに近い食堂)での朝の1杯を味わっただろう。明るいのにどこか物悲しい不思議な余韻に魅了される。【評 多賀幹子(フリージャーナリスト)】
| ピタゴラスの定理―4000年の歴史 | |
![]() | E.マオール 伊理 由美 岩波書店 2008-02 売り上げランキング : 815 おすすめ平均 ![]() a^2+b^2=c^2からds^2=Σg_ij dx_i dy_jに至るまで、ピタゴラスの定理に関する数学を概観できるAmazonで詳しく見る by G-Tools |
2はピタゴラスよりえらい?
「2」の魔力に圧倒される。そんな一冊だ。
ただの2ではない。KYON(キョン)の右肩に乗れば小泉今日子に化ける「2乗」の2である。
直角三角形の斜辺の2乗はほかの2辺の2乗を足し合わせたものに等しい。このピタゴラスの定理が、古代から現代へ脈々と流れる数理の通奏低音であることがわかる。
自然数の世界をみると、このピタゴラスふうの関係は3乗や4乗などで成り立たない。2乗は格が違うのだ。そのことを示したのが、あのフェルマーの最終定理だった。
ピタゴラスの定理は、近現代の科学を支える土台となった。なんと言っても、二つの点の距離を求めるときのツールになる。アインシュタインの特殊相対論が描く時空でも、2乗したものを足し合わせる式がものを言う。
あえて弱みを探せば、球面の上などでは通用しないことだ。だから、これを宇宙に発信して地球外生物の返事を待つのは、必ずしも得策とはいえない。
小さな天体に住む生き物は、足もとの大地がまるく曲がっていて「その幾何にはピタゴラスの定理は出てこないかもしれない」。
だが、球面の幾何ですら、2乗は顔をのぞかせる。ピタゴラスがえらいのか、それとも「2」がえらいのか。【評 尾関章】
| ヘミングウェイの酒 | |
![]() | オキ シロー 河出書房新社 2007-12 売り上げランキング : 258 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
ANAで旅をすると、投宿してまず、ホテルのバーに飛び込んで一杯、という気分になることが多い。なぜだろうと思って考えてみたら、機内誌「翼の王国」に連載されていた「フライト・カクテル・ストーリー」という、酒にまつわる短編小説を読むからだと気がついた。オトナの恋の甘くほろにがい味を、カクテルに重ね合わせるしゃれた小品群である。
その作者による本書『ヘミングウェイの酒』は、著者が一途に憧憬(しょうけい)を捧(ささ)げるヘミングウェイの作品と、ゆかりの酒を語りつつ、男の生き方をそのグラス越しに考察してみたという作りのエッセーだ。
フローズン・ダイキリ、モヒート、ブラディ・メアリ、ビターズを垂らしたジン・トニック、椰子(やし)の果汁をソーダ代わりにするトム・コリンズ……個性ある酒の数々が、ヘミングウェイの人生の、その時々の状況にぴたりとはまる脇役、いや陰の主役となる。本当にそうなのか、著者の絶妙の語り口でそう思わされてしまうのか、酒場で洒脱(しゃだつ)な老紳士の話を聞くような気持ちで読んでみたい。決して重くないが、しかしさらりと人生の機微が語られる。時に同じ話が繰り返されたりするのもまた味である。厚み、印刷の色、おなじみ唐仁原教久の挿絵、ほろ酔いで読むことを想定した本の作りがまた憎い。【評 唐沢俊一(作家)】
| イスラームの人間観・世界観―宗教思想の深淵へ | |
![]() | 塩尻 和子 筑波大学出版会 2008-03 売り上げランキング : 1219 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
思想家の苦闘をたどり、共存を説く
イスラームは14世紀にわたる文明の歴史を持ち、その間に多様な宗教思想を展開してきた。昨今は、政治や紛争にかかわるニュースに関心が集まるが、言うまでもなく、それはイスラームのごく一部分の話題に過ぎない。
ところが、もっと基本的な人間観や世界観、自然観はどうなっているのだろうかと思うと、意外に手頃な入門書が少ない。本書は、やや専門性が高いものの、イスラーム神学を専門とする著者が、原典を読みながらイスラームの根本を論じてきた成果をまとめた好著となっている。
神学はアラビア語でカラームと呼ばれるが、これはもともと議論を意味する。思想家たちがあれこれ自説を立て、論争し、解釈を競う学問である。著者は、イスラーム神学の形成期であった西暦8~12世紀ごろの主要な学派について、重要な思想家たちを取り上げながら、イスラームの倫理観や世界観の構造を明らかにしていく。
たとえば、理性主義の学派がどのように厳しい倫理観を打ち立てたか、宿命的運命論と人間の自由意思という矛盾をめぐっていかなる論議があったか、神が不断に創造を更新し続けるという原子論的宇宙論など、イスラーム神学が格闘した難問が紹介されている。
その一方、イスラームがユダヤ教、キリスト教と兄弟宗教である点に着目して、3者の比較や相関からイスラームが論じられている。さらに、古典期のイスラーム神学者たちが、公正な目でキリスト教を理解していたことなどを紹介し、現代においても三つの宗教が協働すべきことを訴えている。
著者は古典を研究しながらも、現代の宗教状況に対して強い問題意識を持ち、宗教共存の立場から発言を続けてきた。夫の仕事のため30代の終わりになってからようやく学究生活に入ったというが、それまでに現代の中東社会をじっくり見る機会を得たことがプラスとなったと思われる。時代を超える議論には、本来危うさもつきまとうが、本書の立論は非常にバランスが取れている。【評 小杉泰(京都大学教授)】
| 日本語と日本思想―本居宣長・西田幾多郎・三上章・柄谷行人 | |
![]() | 浅利 誠 藤原書店 2008-02-29 売り上げランキング : 206 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
助詞「は」から見える巨大な問題領域
最近の話し言葉で、ふつう「である」と結ぶところをデハアル、「にある」をニハアル、「と思う」をトハ思ウと表現する言い方が広まったように感じるのは、書評子の僻耳(ひがみみ)であろうか。助詞ハのこの新奇な用法は、本書が《日本語と日本思想》という巨大な問題領域に向けているレーダーの画面で、何かを告げて点滅する輝点なのではないだろうか。
未踏の地の探索は、学校文法では係り助詞と教えられるハをもっと「怪物的な何ものか」ととらえる問題設定に始まる。
サブタイトルに並ぶ本居宣長・西田幾多郎・三上章・柄谷行人の名前は、一定の論理で配列されている。本書のテーマは、柄谷が提示した《「近代の超克」をいかに乗り越えるか》という課題を日本語文法論の切り口から徹底的に考え抜くことにある。
かつて和辻哲郎が、ドイツ語のザイン(sein)と日本語の「がある(存在)」と「である(繋辞〈けいじ〉)」との比較をこころみたのは記念碑的である。だが問題の焦点は動詞ではなく助詞にあるとするのが著者の着眼だ。
見据えられているのは《繋辞(コプラ)のbe動詞のない日本語は主語のはっきりしないアイマイな言語だ》とする西欧派と、《主語などいちいち言わなくてもよく、繋辞も独自に備わる優れた言語だ》とする超克派との不毛な対立からの脱却である。著者はあえて、民族優越論の罠(わな)に陥った超克派の日本語論を超越的に(批判哲学的に)読み解くことに乗り越えへと転じる可能性を賭ける。
柄谷は宣長のテニヲハ論、西田哲学の「場」の理論、時枝誠記(もとき)の国語学における「詞(ことば)と辞」論の三つに「特権的な重要性」を与えているのだが、著者は、時枝を宣長の正統な継承者と認めず、代わりに三上章をその系譜に据える。『象は鼻が長い』の著書で知られ、一貫して《主語廃止論》を主張してきた孤高の言語学者である。
従来の文法では「象は鼻が長い」式の構文を「二重主語」といった苦しい説明で弥縫(びほう)せざるを得なかった。三上は、日本語の構文的特徴を西洋語のような「主述二本立て」ではなく、「述語一本立て」だと明言する。ハには述語を呼び出す特別な職能が認められる。
著者はこの文法論を《テニヲハには言葉の本末を協(かな)え合わせる定まりがある》といった宣長の系譜に位置づける。日本語の構文には自問自答が内在する。係り結びが滅んでも生き残ったハは、今でも必ず「結び」の手応えを予感しつつ発語されている。
論証の手続きは周到だ。行きつ戻りつ一語一語に吟味を加えて三上と手に汗握る対話を重ねる。「日本語のコプラはハであろう」と三上はいう。だがその説は、コプラなる西洋の概念に相当するものがあればという限定付きであるから「定義の決定打」ではない、と三上文法を読み破るのである。
その前提を取り払い、文末のピリオドをすら越えて前進し、結びの連鎖を先へ先へと進める語勢にハの生命力を見るのが本書の達成点だ。助詞ハが日本語の構文的なリズムを引き出すという直感が躍動している。【評 野口武彦(文芸評論家)】
| 「中国問題」の内幕 (ちくま新書 706) | |
![]() | 清水 美和 筑摩書房 2008-02 売り上げランキング : 495 おすすめ平均 ![]() 中国の実態を知るにお勧めの書 そういうことだったのか 日中関係、中国国内を理解するための入門書Amazonで詳しく見る by G-Tools |
「仮説」に挑むことで近づく確かな判断
巨大で多様な中国を偏見や先入観なく客観的に観察し、状況を判断することは容易ではない。根拠もなくいい加減なことをいう輩(やから)が多い中で、重要なのは信頼できる書き手を見分け、見定めることだ。
本書の著者は、昨年の日本記者クラブ賞に輝いたジャーナリスト。自信を持ってお薦めできる、最も頼りになる中国観察者の一人である。本書が対象とするのは05年以降の日中関係と中国内政だが、定評のある過去の多くの著作と同様、プロをうならせる情報と分析を満載している。
たとえば著者は、07年春の温家宝首相来日の前後、日本の最高裁が日中関係にかかわる二つの問題に判断を下したことに注目する。80年代に日中台を巻き込む外交問題となった光華寮訴訟に関しては中国に有利に、そして強制連行訴訟については、国交正常化時に個人の賠償請求も放棄されたと判断した。著者はこのタイミングを偶然の一致とは見ていない。
翻って中国に関しては、権力と権益をめぐる「特殊利益集団」の熾烈(しれつ)な争いを綿密に分析する。共産主義青年団出身者(「団派」)と前総書記に連なる上海グループ、さらには高級幹部子弟(「太子党」)や軍の間で展開される権力闘争。それが汚職腐敗の摘発や成長か均衡かといった経済政策論争、さらには対日政策にも影響する事情を生々しく描き出す。
著者によれば、中国指導部の意思決定に関する報道や分析は「仮説」に留(とど)まる宿命を負う。確かに本書には随分大胆だなと思わせる断定もある。だが「仮説」に挑むことで確かな判断に近づくという著者の主張には共感できる。重要なのは交錯する情報を取捨選択し、織り合わせて状況判断に至る総合的な力だ。そのためには、長年の観察の積み重ねや情報通の中国人たちとの付き合いも欠かせない。
一般の読者には、どの書き手がそのような力量の持ち主か判断に迷う場合もあろう。2年間の拙評がその役目を果たせたかどうかは覚束(おぼつか)ないが、現代中国についての書評は、その点で一定の役割を担っているのだろう。【評 高原明生(東京大学教授)】
| 「家庭教育」の隘路―子育てに強迫される母親たち | |
![]() | 本田 由紀 勁草書房 2008-02-25 売り上げランキング : 47 おすすめ平均 ![]() ガンバッテイル母親にAmazonで詳しく見る by G-Tools |
格差を助長し、葛藤を深めていないか
「国に頼らず、家庭での教育を見直そう」というスローガンは、現代の日本に広く浸透し、子育てに携わる親たちに内面化されつつある。しかし本当に今のままの形で家庭教育を拡充していくことが、母親にとって、日本社会にとってよいことといえるのか。「子育てに強迫される母親たち」という副題を持つこの本は、子育てをめぐる「格差」と「葛藤(かっとう)」の拡大を実証的なデータに基づいて示し、家庭教育への強迫からの解放を提言する。
家庭の経済状況や母親の子育てに関する考え方や日常的な行動が、子どもたちに対する家庭教育の内実に少なからぬ差異をもたらしている。この状況において、「家庭教育の更なる拡充」を喧伝(けんでん)することは、すでに家庭教育への関与に積極的な層とそうでない層との格差拡大を助長することになるのではないか。これが「格差」の側面。
また、家庭教育の過大視は、「家庭か仕事か」という女性の悩みをいっそう先鋭化するとともに、家庭教育の内実(何が「正しい」家庭教育なのか)をめぐる苦悩を深刻なものとする。これが「葛藤」の側面である。
家庭教育の拡充というと聞こえはよいが、それは経済的・文化的な資源と関連した格差を拡大し、実質的に子育ての主体となっている母親たちの葛藤を深めていくのではないか。インタビュー調査とアンケート調査にもとづき――随所に子育てに苦闘する母親たちへの深い共感を折りはさみながら――「『家庭教育』って言うな! と言うためのちゃんとした根拠」を探究している。
家庭教育を無責任に奨励し、子育てに関(かか)わる困難・課題を母親や家庭に丸投げするのではなく、子どもの教育や社会化を「公共的に家庭外の社会で広く担うものとしてゆくこと」。それは、母親たちを無節操な自己責任言説から救出することにほかならない。子育てに悩んでいる人にも生きがいを感じている人にも(そしてもちろん、直接子育てに関わっていない人にも社会の一員として)ぜひとも読んでほしい一書である。【評 北田暁大(東京大学准教授)】
| 講座スラブ・ユーラシア学 第1巻 (1) | |
![]() | 家田 修 講談社 2008-01 売り上げランキング : 3443 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
| 講座 スラブ・ユーラシア学 第2巻 地域認識論――多民族空間の構造と表象 | |
![]() | 宇山 智彦 北海道大学スラブ研究センター 講談社 2008-02-16 売り上げランキング : 14552 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
| 講座 スラブ・ユーラシア学 第3巻 ユーラシア――帝国の大陸 | |
![]() | 松里 公孝 講談社 2008-03-15 売り上げランキング : 16400 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
地理的境界で閉ざされた地域でなく
スラブ・ユーラシア学とは、まず聞きなれない言葉である。旧ソ連、というとソ連の影ばかり見た後ろ向きな印象を受けるし、イスラームを共通項とする中央アジア、というと、ロシアのイスラーム社会との連関が切り離される。社会主義圏としてソ連と連動していた東欧は、どうとらえるのか。冷戦構造終焉(しゅうえん)後のソ連・東欧地域をどのような「地域」とみなすべきか、地域概念は流動的で多様な方向に揺れている。
旧社会主義圏だけではない。中東という、西欧植民地支配の名残として名づけられた地域は、アラブ地域と呼ぶべきなのか、イスラーム地域なのか、米国のいう「不安定の弧」なのか。ある社会が持つ政治経済的、文化的ベクトルは、時に国家領域内に収斂(しゅうれん)する一方で、予想もしない広大なエリアに広がる可能性を持つ。地域住民の自覚とは別に、他者から名づけられて成立する地域概念もある。
「地域」とは固定的な地理的境界によって閉ざされたものではなく、その時の政治文化環境や自己認識、他者のまなざしに左右されて、常に流動する「力の磁場」だ、というのが、本講座3部作が編まれた出発点にある。そこでは、国民国家とグローバルな領域との間に出現する、多重な規範の影響に晒(さら)された空間を「中域圏」と名づける。それは、地域認識の可変性が最もビビッドに現れる、「開かれた場」だ。
そのことは、バルカンという言葉の使われ方(第1巻第5章)や、コーカサスでのアイデンティティー表出のありよう(同第6章)、モンゴルに隣接するブリヤート人のモンゴル性への自己認識(第2巻第6章)など、ふんだんな実証例を挙げた各論で、示される。
民族や宗教が点在して複雑怪奇な地域、と考えると、難しさが先にたって関心が遠のくが、それらが複層的かつ動態的に社会を形成するのが、ソ連なき後のスラブ・ユーラシア地域だ。そう考えると、この地域を見ることが楽しくなってくる。国境などなく、大草原を駆け巡っていた、かつてのユーラシアのパワーに思いを馳(は)せるように。【評 酒井啓子(東京外国語大学教授)】
| 文学鶴亀 | |
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広く「年譜のおじさん」として知られる文芸評論家が、ここ20年ほどのあいだに新聞雑誌に発表したコラム集。世に蔵書家、愛読家は少なくないが、彼が唯一無二なのは、敬愛する文学者の人生や作品をくまなく調べ上げ、たちまち詳細な伝記兼書誌目録を作り上げてしまうことだ。
だが本書からうかがわれるのは、必ずしも伝統的なビブリオマニアにとどまらず、映画や朗読CDまでをも対象に粋な論評を加える、一流のメディアジャーナリストとしての顔である。書名のゆえんである里見とんから始まり、久保田万太郎や吉田健一、大西巨人に紅野敏郎、そして劇作家・平田オリザへ続くそうそうたる並びのなかで、田中康夫を現代の花柳小説家と喝破してみせる慧眼(けいがん)。俵万智や安東美保といった歌人たちを評価し、矢田津世子が女性作家であるがゆえに受けた仕打ちを抉(えぐ)り、その文脈でアメリカ作家ゼルダ・フィッツジェラルドやシリ・ハストヴェット(ポール・オースターの妻)の位置をも考察していく、洞察に満ちた筆致。読者はまずまちがいなく、批評が文学への愛であることを実感し、それをいとも典雅な日本語で読めることの幸福感に包まれることだろう。【評 巽孝之(慶応大教授)】
| マガジンハウスを創った男岩堀喜之助 | |
![]() | 新井 恵美子 出版ニュース社 2008-02 売り上げランキング : 7846 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
雑誌「平凡」とともに生きた男
美空ひばりを売り出したスターの雑誌である「平凡」は、1952年末には100万部を超えた。しかしその創業者の岩堀喜之助は、雑誌社の社長の枠には納まりきらない人だった。彼は地方や都会の底辺で働いている「平凡」の若い読者を、レクリエーションの団体である平凡友の会に組織して、さらに全国各地にレクリエーションのセンターまで作ろうとした。
岩堀のこうした発想は、娯楽を通して大衆を動かしていく、彼の戦時中の国家宣伝の経験から生まれたように思える。敗戦直後の「平凡」の創刊スタッフは、岩堀がかつて勤務した陸軍の対中国人向けの宣伝部隊や大政翼賛会宣伝部の時代の同僚が主力であった。しかし社員にも読者にも家族のような結びつきを求めた彼のもくろみは、「平凡」が巨大なメディアに成長し雑誌編集のプロが育つにつれ、社内での彼の孤立化をもたらしていく。
岩堀の生涯は奇妙なエピソードに満ちている。彼は大雑誌社の社長になっても底辺で働く読者を意識してか、用務員同様の格好をしていたという。多くの挿話を通じて、無鉄砲にも見える行動力の人だった岩堀の、夢と孤独を描いた本といえよう。【評 赤澤史朗(立命館大学教授)】
| イギリス炭鉱写真絵はがき | |
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絵はがきが好きで、あちこちで買っているうちに相当な枚数がたまっている。知人が旅先などからくれた絵はがきも、大事に取ってある。もっとも、それらはみな、風光明媚(ふうこうめいび)な名所や名画のたぐいだ。さて、「イギリス炭鉱写真絵はがき」とは、どんなものだろう?
本書の著者は、日本の炭鉱を研究していた時に炭鉱写真と出会い、その後イギリスの炭鉱を題材にした写真絵はがきの存在を知ったという。イギリスでは古い絵はがきの収集家が多く、炭鉱絵はがきのコレクターも多いそうだ。こうした炭鉱絵はがきは、炭鉱から炭鉱へと渡り歩いた炭鉱労働者たちが、旧友や親類に新しい職場の様子を知らせるために送ったものも多い。現在のように誰もがカメラを持ち、簡単に写真が撮れる時代ではなかったということもあるが、ちょっとした文章を書いてそのまま送れる絵はがきという媒体の性格ゆえだろう。
絵はがき以外にも、写真が普及していく過程に登場した他の写真メディアも言及されており、原物そのままの映像のミニチュアを私有するという、今では当たり前のことの精神的意味を改めて思った。実物の口絵も掲載されていて、見ているだけでも楽しい。【評 常田景子(翻訳家)】
| 月蝕書簡―寺山修司未発表歌集 | |
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三十代で歌の別れをした寺山修司に、未発表の歌集があった――。塚本邦雄・岡井隆とかれを中軸に、前衛短歌運動を推進し、後世にかれを伝えるため『寺山修司・遊戯の人』を書いた評者にとって、これは驚きであり、詩歌にかかわる多くの人びとにとっても、ひとつの事件だといえよう。
生前の寺山がひそかに短歌を作っていたことはよく知られており、その成果が期待されてもいた。だが、ついに発表されぬままで終わったからである。
一頁(ページ)一首組みで一八八首選ばれた内容は多彩で、父と母や老年をうたった秀歌が光る。しかし、佐佐木幸綱が解説で指摘しているように既視感のある歌が多く、寺山らしからぬ定型から外れた作品も散見する。なによりも、寺山修司独特の新しい文体(スタイル)や、かつてと異なる世界が提示されてはいない。
後期の天井桟敷には、あえて半世界を描き、残りの半分を観客の想像力にゆだねる芝居があった。同様にこれは、冥界の寺山と田中未知とのコラボレーションの産物ではないか。温存していた歌稿ノートを、没後四半世紀に公刊した理由もわかる気がする。ただ寺山研究の貴重な資料だけに、各作品の成立の背景を詳細に記してほしかった。【評 杉山正樹(文芸評論家)】
| 精神科医はなぜ心を病むのか | |
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「あいまいなことに不寛容」が背景に
私が精神科医になった今から二十数年前には、精神医療そのものが日陰者扱いだった。その後、心の病への社会の関心が急速に高まり、うつ病は「心のカゼ」とまで言われるまでに。しかし診察室にいると、患者さんの中に「カゼなら薬で治りますよね?」という人と「薬だけは絶対にイヤ」という人、極端に違うふたつの考え方があることがわかる。前者を生物学的精神医学派、後者を人間学的精神医学派と呼ぶことができるが、これは精神医学の世界で起きている分裂がそのまま反映されているとも言える。形勢優位なのは、前者の生物学派だ。
今回、取り上げた2冊は、日本の現場からの告発エッセーとアメリカの学者の研究書という一見、まったく違う体裁の本であるが、いずれも言わんとしていることは同じ、「薬物療法にますます傾き、患者の“人生の問題”に時間を割けない現在の精神医療は病んでいる」ということだ。ヴァレンスタインの『精神疾患は脳の病気か?』のほうでは、最近、主流になっている「精神疾患は脳の疾患である」という考え方やさまざまな仮説にも大胆にメスを入れ、それが虚構である可能性を次々と指摘していく。なぜそのような事態になっているのか。それは、製薬会社の巨大な圧力が加わっていると著者はいう。
一方、日本の精神科医は、医師の厳しい労働状況や医療費抑制問題もあるとしながらも、精神科医の資質の低さも深刻、と手厳しい。薬物依存者やセクハラ医師も多い、というくだりには素直にはうなずけないが、「まともな精神科医ほど過労うつに」といったくだりには思わず苦笑。
人間の心は複雑なのだから、その病気の原因もひとつには特定できないし、治療には時間もかかる。誰もがそうわかっているはずなのに、早急で経済効率のよい解決を望んでしまう。その背後にあるのは「不確実であいまいなことに対し寛容でない時代」というヴァレンスタインの指摘は、精神医療関係者のみならず多くの人の心に重く響くはずだ。【評 香山リカ(精神科医)】
免疫学の巨人イエルネ
尋常でない科学者の妖しい生き方
これほど不思議な科学者の伝記を読んだのは初めてだ。主役であるニールス・イェルネという人物が尋常じゃない。おまけにこれは「実存的伝記」だなんて。
ノーベル賞学者である免疫学の泰斗イェルネは、伝説的な人物としてつとに名高い。「ニールス・イェルネの聖性と俗性」と題した序文を寄せている同じ免疫学者、多田富雄氏の「近代免疫学の最後の傑出した理論家、預言者、伝道者」との形容が、そのことを雄弁に語っている。
免疫学者イェルネの最大の業績は免疫系のネットワーク理論の提唱とされる。しかし、免疫学の理論は医学・生物学でも極めて難解な領域であり、理解することは最初から放棄するのが無難だ。それでも本書が魅惑的なのは、実験的確証もなしに網の目のような理論を創案したイェルネという人物の妖(あや)しい生き方にある。
日本びいきの視点から言えば、イェルネの最大の功績は、創設に関与し初代所長を務めたバーゼル免疫学研究所で、まったく無名だった利根川進博士に自由に研究をさせ、ノーベル賞に輝いた研究を開花させたことだろう。
ロンドンで生を受けオランダで育ったデンマーク人イェルネは、同郷人である実存哲学者キェルケゴールに心酔し、女性とワインに耽溺(たんでき)し、プルーストを読みふけって時間の迷宮をさ迷う人生を送った。科学者としての本格デビューは40歳を過ぎてから。行く先々で熱狂的な心酔者を得る一方で、家族への義務はほとんど果たさない。
自分にまつわる思春期以後のほとんどすべての資料を保存し、検閲的な介入もしないイェルネは、伝記作家にとっては夢のような存在だった。しかし、イェルネへのインタビューを重ね、膨大な文書庫で格闘するうちに、伝記作家は精神のバランスを崩しかけたという。巨人の実存を描き出すことはかくも難しい。
かつて科学は科学者の生き様を映し出す営為だった。十字架の前で物思う遺影をあしらった秀逸な表紙が、そんな最後のペルソナの光と陰を象徴している。【評 渡辺政隆(サイエンスライター)】




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