メイン > 朝日新聞日曜版『書評』 > 2008年3月16日~3月23日
| 唱歌と国語 明治近代化の装置 (講談社選書メチエ 406) | |
![]() | 山東 功 講談社 2008-02-08 売り上げランキング : 2086 おすすめ平均 ![]() 日本の近代化は歌と文法を必要としていたAmazonで詳しく見る by G-Tools |
| 「国語」入試の近現代史 (講談社選書メチエ (405)) | |
![]() | 石川 巧 講談社 2008-01-11 売り上げランキング : 15150 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
明治の国語教育は、現在の基準に照らすときわめて頓狂、「おもしろすぎるぞ」という場合が少なくない。それを私は「書く教育」すなわち作文教育の歴史を調べる過程で知ったのだったが、「読む教育」「歌う教育」でも似たような現象が観察できるらしい。
歌う教育? 国語なのに「歌う」の?
さよう、国語はある側面においては「歌って」体得するものだったのだ。
山東功『唱歌と国語』は、音楽教育と国語教育の接点に位置する唱歌に注目する。
たとえば「汽笛一声新橋を」ではじまるあの「鉄道唱歌」も、じつは地理教育のツールとして発明されたものだった。334番まである「鉄道唱歌」の歌詞の長さは、ひとえに沿線各地の風物、歴史、名産品などを詠みこんだ点に起因する。地理教育用の唱歌は明治期だけで70曲以上もあったという。
しかし「鉄道唱歌」などはまだ理解の範囲にあるというべきで、明治の唱歌には「文典唱歌」なんていう代物まで存在していた。
1番で「国土」を、2番で「国語」を称揚した後、「文典唱歌」は、3番から突然「文法」へとふみこんでいくのである。
「人の心をうつしだす 言葉の数は多けれど 類を分(わか)ちて名づくれば
八品詞とぞなりにける」。八品詞とは名詞、代名詞、形容詞、動詞、副詞、後詞(後置詞)、接続詞、感嘆詞(感詞)を指す。4番ではこれが「物と事との名をしめす 名詞の次に其代理 つとむるものは代名詞 指示・人・疑問の三種あり」となり、9番から57番までは動詞の説明に費やされる。作詞者もあまりに冗長と思ったか、57番の歌詞は「ながき動詞の説明も こゝに一まず終(おわ)りたり 次にうつらんいざ子ども 膝(ひざ)をすゝめよ我前(わがまえ)に」。
なにゆえこんなケッタイな唱歌が山とつくられたのか。それは、一方では唱歌が「暗記物」や「徳育」の道具としてきわめて有効だと考えられていたからであり、一方ではまた文法の整備こそが西洋近代に追いつくための重要な課題だとされていたからだった。音楽の教科書から歌詞のみを切り取り、アンソロジーとしてまとめると、たちまち国語の教科書と似たものになる、と著者はいう。
こちらが初等教育の国語に主眼をおいた本なら、石川巧『「国語」入試の近現代史』は高等教育の国語に着目し、現代文の読解、すなわち「読む教育」の変遷をたどった本。受験競争がスタートした大正期から共通1次試験の導入された昭和の末までの、主として大学の入試問題が俎上(そじょう)にのせられる。
おもしろいのは唱歌も、そして現代文も、体育と意外に近い場所にあったということだろう。体育が身体の鍛錬なら、国語は精神の鍛錬。唱歌で培われた感性とリズム感を、身体に生かせば体操、言語に生かせば国語。
どちらもマジメな研究書であるから、必ずしも読みやすくはない。が、現代の教育についてもふと考えさせる刺激的な書。国語の重要性を説く人が、ほら、武道も必修にしろといったりするでしょ。その感じは明治の頃からどうやら変わっていないみたいね。【評・斎藤美奈子(文芸評論家)】
| 光の指で触れよ | |
![]() | 池澤 夏樹 中央公論新社 2008-01 売り上げランキング : 3118 おすすめ平均 ![]() ココロに触れたモノ。 読者を選ぶ小説(?) 自己実現を緩やかに.Amazonで詳しく見る by G-Tools |
気候変動、エネルギー問題、経済不安、南北問題等々、世界を覆う空気は重い。しかし、とりあえず日々の生活に困っていないとしたら、あなたの日常生活はさほど暗くもないのではないか。不幸の影は、グローバルな問題としてではなく、むしろ家庭というローカルな問題として到来する。
この小説は、「天野家は仲のいい家族だった」のに、「今はばらばらに暮らしている」という前置きから始まる。
ひょんなことから小型の風力発電装置をヒマラヤの奥地に設置した夫は、会社に戻った日常の中で、自分に思いを寄せる職場の若い女性の愛に応えてしまう。かつては夫と何でも論じ合う関係だった妻は、それを知ると何も告げずに幼い娘を連れてヨーロッパに旅立つ。小学校4年のときに父をヒマラヤまで単身で迎えに行った息子は、地方の高校の寄宿舎にいる。これが、天野家のばらばら生活の中身である。
本書は8年前に発表された小説『すばらしい新世界』の続編として、2005年7月から1年余り新聞に連載された小説の待望の単行本化である。語りのテンポがほどよいこともあって、前作を読んでいなくても楽しめる。
奥深いチベット文化と邂逅(かいこう)した夫は、大きな電機会社の中で一目置かれながらも、なんとなく満たされない。グローバルな問題に個人としてできる限りのことはやったが、自分の生き方に関してはかえって惑いを感じている。
一方、環境問題への関心から省エネ機器販売の起業に参加した妻は、同志とも思っていた夫に裏切られ、大地震に見舞われて住処(すみか)を失ったようなショックを受けた。
科学技術を用いて環境エネルギー問題に取り組んでいたはずの夫婦は、離れて暮らす中で、それぞれが自給自足の有機農業にひかれていく。
グローバル対ローカル、先端科学技術対エコ、この対立構造を解決しない限り、すばらしい新世界の実現はないのかもしれない。静かな語り口ながら、問いかけられているテーマは重い。【評・渡辺政隆(サイエンスライター)】
| 手紙のアメリカ | |
![]() | 時実 早苗 南雲堂 2008-02 売り上げランキング : 45635 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
「白やぎさんからお手紙ついた/黒やぎさんたら読まずに食べた/しかたがないのでお手紙かいた/さっきの手紙のご用事なあに」
まどみちお作詞、団伊玖磨作曲の「やぎさんゆうびん」は、みなさんおなじみだろう。本書は文学と手紙とアメリカとがいかに関(かか)わり合うかを、18世紀のクレヴクールやフォスターから19世紀のホーソーンやメルヴィルやオルコット、20世紀のバースやピンチョンやウォーカーへおよぶ射程で分析した重厚な研究書だが、BGMとして聞こえてくるのは、何とこのあまりにも軽やかな童謡なのである。
なぜか。本書はまず、小説の起源とされる「書簡体」と物理的に紙にインクで書く「手紙性」とを明確に区分し、やがてその両者が複雑な関係を結んでいくのを辿(たど)り、あくまで人間的で存在論的な「手紙を書く」行為と、電子的でテクスト的な「メールを出す」行為のはざま、いわばアナログとデジタルのはざまで深く苦悩したあげくに、こう洞察するからだ。
「やぎさんの場合のように、手紙は食べられるものでなくてはならない」
そもそも手紙を書くという行為こそは文学の本質を成すために、小説は書簡体小説として始まった。そしてアメリカは当初ヨーロッパの植民地として環大西洋的な手紙のやりとりをくりかえすうちに、アメリカ独自の政治経済網とともに民主主義的な自己を確立し文学を発展させた。しかし著者が注目し続けるのは、にもかかわらず、書簡体という物語技法に回収される以前の無編集の手紙、全く読まずに破くことも燃やすことも、食べることさえできるモノとしての手紙であり、そこにこそ魂が宿るという逆説だ。
そんな視点から、フォークナーの『アブサロム、アブサロム!』が「古き南部である紙に、新しい北部のインクが痕跡を残す」ことで「現在によって過去を浮き出させる作用」が解明される。手紙というメディア(物<モノ>)自体が手紙のメッセージ(魂)であることをあざやかに伝える本書もまた、知的スリルに満ちたもうひとつの手紙であった。【評・巽孝之(慶応大学教授)】
| 文明の接近―「イスラームvs西洋」の虚構 | |
![]() | エマニュエル・トッド ユセフ・クルバージュ 藤原書店 2008-02 売り上げランキング : 1486 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
衝突ではなく、近代化の途上として
著者らは普遍主義者だ。あらゆる社会は近代化する。いかなる宗教もそれを止めることはできない。キリスト教が近代化を妨げなかったように、イスラームも近代化を妨げるものではない。したがって、近代社会に対する脅威をイスラームに投影しようとする発想は、根本的に誤っている。その主張は強烈な「文明の衝突」批判である。
著者らのいう近代化の中身は、煎(せん)じつめると識字率の向上と少子化のことである。識字率が上がると、年少世代は年長世代の言うことを鵜呑(うの)みにしなくなる。少子化が進むと、資源配分のルールを再設定する必要が高まってくる。両者あいまって、近代化は社会的な規範の流動化をもたらし、社会的統合に危機をもたらす。著者らはそれを移行期危機と呼び、今日既に安定した近代社会となっている欧米や日本も、かつてそのような危機を(革命や内戦などのかたちで)経験したと指摘したうえで、いわゆるイスラーム圏の諸社会に今日観察される社会不安も、その反復でしかないと説く。
そのうえで著者らは、その移行期危機の具体的な現れ方を左右する最も重要な要因は、各社会に構築されてきた家族構造(婚姻や相続の慣習的システム)であると論ずる。実際、アフリカから東南アジアまで広がるイスラーム圏の家族構造は多様であり、それに応じて、それら各社会の近代化のこれまでの歩みも多様であることが本書によって一望できる。重要なことは、その多様さは移行期危機の激しさや速度の偏差をもたらすものであって、近代化を阻むものではないということである。いずれにせよイスラームの教義が近代化を阻んでいるなどというのは、表面的にすぎる観察だ。
イスラーム圏の諸社会が移行期危機にあるのなら、それに伴う暴力を緩和するために差し伸べられるべき手はあってしかるべきだ。しかしそれ以上にイスラーム圏の近代化に必要なのは、短慮で傲慢(ごうまん)な介入ではなく、むしろ彼らとの辛抱強い待ち合わせなのだというのが著者らの普遍主義者としての倫理であろう。【評・山下範久(立命館大学准教授)】
| 自閉症ボーイズジョージ&サム | |
![]() | シャーロット・ムーア 相原 真理子 株)アスペクト 2008-01 売り上げランキング : 827 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
ひとりひとり、あるがままに
イギリスに住む著者は、3人の男の子を独りで育てる。長男ジョージ、次男サムは自閉症だ。長男はスニーカーをオーブンで焼き、次男は歯磨きを搾り出して辺りになすりつけ、真夜中にトランポリンに打ち込む。
それでも著者は障害の原因を探して悩むより、「生まれたからにはうまくやっていくしかない」と、あるがままを受け入れる。
母親としてゆるぎない愛情を注ぐと共に、人称代名詞の誤用、ごっこ遊びから学ばないなど、作家としての冷静な観察眼を持つ。大学卒業後、教師をした経験も生かされているのだ。
2人の症状を軽減しようと数々の療法を試す。聴覚統合療法後、長男の言葉づかいなどが改善された。しかしこれは次男には効かず、特定食品を避ける療法などが意思疎通の回復につながったようだ。自閉症児はひとりひとり違うのだ。
力になってくれる人がいかに多いか。先生親族はもとより、友人隣人が善意と気遣いを見せる。同情より、2人を面白いと思ってもらえればうれしいと著者。
日英の事情の違いを超えて、自閉症についての知識と勇気が与えられる優れたテキスト。一般父母や教育関係者にも広く薦めたい。【多賀幹子(フリージャーナリスト)】
| 関西モダニズム再考 | |
![]() | 竹村 民郎 鈴木 貞美 思文閣出版 2008-02 売り上げランキング : 62846 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
「阪神間モダニズム」という概念がある。大正から昭和初期、阪神間で先駆的な郊外生活が実践された。甲子園野球や宝塚少女歌劇などの大衆娯楽も発達、関東大震災後に東京から逃避した作家や画家の活躍もあって、東京とは異なるモダニズム文化が展開された。
本書はそれに京都の事例を加えて「関西モダニズム」を提唱する論集である。文芸、美術、建築、技術史、新劇運動など、収載された各論は多岐にわたる。ただ、「関西モダニズム」という新しい枠組みをめぐる挑戦的な議論や、領域を横断する独自の仮説は乏しい。
そのなかで鈴木貞美の論文は意欲的だ。専門ごとに定義や用法が異なるモダニズムの概念を見事に整理し、前時代の「近代化」を否定することで「近代化」を推し進めようとする「近代主義」、ひいては「近代化主義」を批判する。大いに共感を覚える。
鈴木は1930年代に日本文化の神髄とされた「わび・さび」「幽玄」など中世の美意識が、高度経済成長期に復活した事実などを例示、同時進行した「モダニズム」と「伝統の再評価」の動きに注目する。時代の尖端(せんたん)と伝統とが錯綜(さくそう)する状況のなかに、関西モダニズム研究の可能性があると確信しているようだ。【橋爪紳也(建築史家)】
| 弥勒世(みるくゆー) 上 | |
![]() | 馳 星周 小学館 2008-02-21 売り上げランキング : 3858 おすすめ平均 ![]() 沖縄好き必読の書!!Amazonで詳しく見る by G-Tools |
| 弥勒世(みるくゆー) 下 | |
![]() | 馳 星周 小学館 2008-02-21 売り上げランキング : 3919 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
今も米軍の事件が相次ぐ沖縄。返還直前の沖縄を舞台にした『弥勒世(みるくゆー)』は、犯罪小説の手法で沖縄の悲劇の歴史に迫ることで著者が新境地を切り開いている。
英字新聞で働く伊波尚友(いはしょうゆう)は、CIAからスパイになることを依頼される。同じ施設で育ち、左翼活動家とも親しい比嘉政信(ひがせいしん)に近づいた尚友は、政信が米軍基地の襲撃を計画していることを知り、行動を共にする。
奄美出身のため差別されてきた尚友は、沖縄にも、日本にも、アメリカにも愛着がない。欺瞞(ぎまん)に満ちた社会を破壊したいという暗い“情念”に突き動かされながらも、あらゆるイデオロギーをシニカルに眺める尚友を冷徹な観察者にすることで、反基地という理想論を掲げながらも、基地に依存しなければ生活できない実態や、経済支援と政治工作で沖縄を食いものにしている日米の利権構造などを白日のもとにさらしていく。
大国のエゴが住民の絆(きずな)を破壊し、それがテロの温床になることを指摘するなど、沖縄から現代の中東情勢にも通じる問題を抽出したところも鮮やかである。
弥勒世とは神々に祝福された理想郷のことだが、沖縄が本当に平穏な場所になることはあるのか? そんなことも考えさせられる。【末國善己(文芸評論家)】
| プルーストと身体―「失われた時を求めて」における病・性愛・飛翔 | |
![]() | 吉田 城 吉川 一義 白水社 2008-02 売り上げランキング : 8635 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
小説に移し替える「病気や死」
プルーストの草稿・生成研究者で名高い著者の遺稿集だ。氏はかつて著書の中で、テクスト生成論の主眼は、作家の側ではなく作品の側を探索することにあると書いた。転換点は90年代に訪れたようだ。晩年は、肉体の病が精神生活に与える影響に関心を寄せた。
本書では、作品に現れる病症から作家自身の病までが論じられる。『失われた時を求めて』で過去が甦(よみがえ)る場面の体験は、アレルギー性喘息(ぜんそく)と同じ構造に基づいているという説が引かれ、プルーストは健康なら意識しない空気の存在、呼吸のリズムなどの生命原理を意識できたのだと結ぶ。また、プルーストが遺伝的神経症を「創造に不可欠な徴(しるし)」と見ていたのは、「自己弁明の試み」ではと推測する。「自分の病気の苦しみと死に関する考察を小説のなかにうつしかえているはずだ」というのが氏の実感だ。身体が文学を特徴づける。作家本人の病理に接近しながら、病跡学の対岸にある書と感じた。
研究の方向転換は著者自身の病状悪化と無縁ではなかった、と編者・吉川一義氏は言う。その病もまた作品を創(つく)ったのだ。著者自身の「病気と文学の関係」を解説する吉田典子氏のあとがきも必読である。【鴻巣友季子(翻訳家)】
| 地域の力―食・農・まちづくり (岩波新書 新赤版 1115) | |
![]() | 大江 正章 岩波書店 2008-02 売り上げランキング : 554 おすすめ平均 ![]() 補助金では変わらないAmazonで詳しく見る by G-Tools |
土地の特性を生かし、農業の自立を
中国製冷凍ギョーザへの殺虫剤混入事件をきっかけに、「食の安全」に対する関心が高まっている。しかし、食料の国内自給率を上げようとしても、ただ補助金をばらまくだけでは長続きはしない。そこで、求められるのが、採算が取れるように収支を考えた食のビジネスモデルである。
例えば、愛媛県今治市では、従来の給食センターで調理した給食を各学校に配達するセンター方式から各学校ごとに給食を調理する自校方式に改め、できるだけ地場産の有機農産物を利用するようにした。もし給食での利用がなかったら、コストがかかる有機農産物の生産は難しかったかもしれない。安全で美味な食材を提供できるために、1日あたりの食べ残しが従来の10分の1になった学校もある。
また、兵庫県相生市の農業クラブでは、有償ボランティアが無農薬減農薬の有機野菜を使った手作り料理の配食サービスを行っている。また、レストランや地産直買(じきがい)の場も設けて相当の売り上げがある。ボランティアも、周囲の民間パートと同等とまではいかないまでも今では報酬を受けられるようになった。
各地の自治体が所有者から農地を借りて住民に安価で貸す市民農園を行っているが、うまくいかずに放置状態になってしまうケースも少なくない。そこで、東京都練馬区では、「体験農園」という新たなシステムを生み出した。
一般の市民農園よりも高い料金(区民で3万円余)を徴収する代わりに、農地を所有する園主が借り手に減農薬減化学肥料栽培を指導する。園主にとっては収入になり、借り手も料金に見合う収穫を手にすることができている。
本書では、この他にも、北欧型の自給重視の酪農や森林認証を利用した林業など、著者が自らの足で集めた計18の事例が紹介されている。
元々、四季に富み、地形が複雑なわが国には、多品種少量生産が合っている。それにもかかわらず、農政は生産の大規模化ばかりを目指してきた。本書を通じて、わが国の国土にあった農業のビジネスモデルを、もう一度、考え直してみてはどうだろうか。【評・小林良彰(慶応大学教授)】
| 所有と分配の人類学―エチオピア農村社会の土地と富をめぐる力学 | |
![]() | 松村 圭一郎 世界思想社教学社 2008-03 売り上げランキング : 1632 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
「私のもの」は、本当に私のものなのか
注文した料理がテーブルに運ばれ、いざ食べようとしたとき突然他人が隣の席に座り横から私の料理を食べ始めたら、なぜ「私のもの」を勝手に食べるのかと多くの人は怒るのではないか。そのとき、相手から「お前ひとりで食べるのは不当だ」と言われても簡単には納得できない。「西洋独特の私的所有概念」から見れば、私の料理は「私のもの」だからだ。
だが、突然現れた人がとても貧しく飢えている人だと知ったら私は、「私のもの」を分け与えるかもしれない。また、昔ながらの友人なら運ばれてきた料理だけではなく、追加注文をして、結果的に食べた料理の量が2人の間で差があっても、会計は割り勘で済ませたり、私が「彼/彼女」の分を奢(おご)ったりすることも珍しくはない。
しかし、それ以上に社会学者の立岩真也氏が10年ほど前に「何が私のものとされるのか、何を私のものとするのか」と問うた『私的所有論』(勁草書房)の議論を思い起こすなら、所有論の背景には予想外に奥深い問題が潜んでいる。なぜなら「私のもの」はどこまで私のものかをめぐる議論は生命や遺伝子の決定権や処分権にまで及ぶからだ。
文化人類学の観点から所有論の研究を続ける著者は、エチオピアの農村で土地の権利や穀物のトウモロコシあるいは換金作物のコーヒーなどの所有や分配がどのように行われているのかを、現地の人と実際に生活を共にしながら調査した本書で、「自分のものを自分だけで消費することを認める私的所有の原則が……例外に近いことに、われわれはもっと思いを馳(は)せるべき」だと指摘する。確かに、多くの経済学者は「世界の一割の人間で全世界の八割を超える富を独占」しても正当だというが、人類学者は「ほんとうに……正当なのだろうか」と疑問を呈する。
著者は本書を「『私的所有』という命題へのささやかな挑戦」だと控えめに語るが、評者には私有財産権を盾にして格差の拡大を看過し、すべてを自己責任に帰する主流派経済学者への痛烈な挑戦に見えるのである。【評・高橋伸彰(立命館大学教授)】
| 暗流―米中日外交三国志 | |
![]() | 秋田 浩之 日本経済新聞出版社 2008-01 売り上げランキング : 267 おすすめ平均 ![]() 穏健な良識派の一冊だが突き抜けるものはない ジャーナリストとしての凄みを感じさせる一冊Amazonで詳しく見る by G-Tools |
中国の台頭は良くも悪くも世界を変えている。相互依存も深まるが、厄介なのは中国が経済力とともに国防力を強化していることだ。今年の予算でも、17・8%の中央財政支出の伸びに対して国防費の増加率は17・7%となっている。「富国と強軍」を目指す中国に、我々はどう対応すればよいのだろう。日本の安全保障上のパートナーであり、覇権国家である米国は、いかなる対中戦略を考えているのだろうか。
本書は米国と中国の権力中枢に光を当て、米中関係の将来を展望した上で、日本が受ける影響とその採るべき対応策について考察する。著者はワシントン特派員や北京特派員を務め、ハーバード大学で研究生活を送った。特に米政府高官への取材は徹底している。米連邦捜査局(FBI)と中国公安省との協力状況や中国の「台湾海峡米中共同危機管理提案」など、蒙(もう)を啓(ひら)かれる情報が本書には満載だ。
白眉(はくび)は、85歳にして現役の米国防総省幹部であるアンドリュー・マーシャル相対評価室長とのインタビューである。この老軍略家は、兵力を太平洋にシフトさせ、インドや日本との関係を強化して、海洋進出を図る中国に備えることを説く。だが他方で、水不足やエネルギー不足、そして人口の男女比や年齢構成の不均衡が中国の行方にもたらす不確実性にこそ大きな脅威を見いだしている。中国がよくわからないので、強大だった明朝に遡(さかのぼ)ってその振る舞いを研究しているという話には、超大国の凄(すご)みさえ感じる。
著者の予想では、当面は米国が大国化する中国との連携を重視するが、やがては深刻な対立に陥る可能性が高い。その先は、(1)米軍がアジア関与を続けるか否か、(2)中国の対外政策が強硬路線に転じるかどうか、という二大変数が日本に大きく影響する。著者によれば日本の選択の余地は狭く、日米同盟を強化して米軍をアジアにつなぎとめる努力を払う一方、日中関係の悪化を防ぎながら自前の防衛力も充実させることが必要となる。
明瞭(めいりょう)な問題意識と周到な取材に裏打ちされた著者の現状分析は鋭く、今後の展望の図示は明快で独創的だ。本書の議論をベースとして、さらに検討を進めるべき問題としては以下を挙げることができよう。(1)ブレア元米太平洋軍司令官は、台湾がカリフォルニアではなく中国の沖合にあることから、台湾の長期的な安全保障が米国との防衛関係ではなく隣人との安定的な関係にかかっていると説く。この地理的な条件は、だが日本も同じではないのか(2)ライス国務長官が真剣に検討中と伝えられる、東北アジアにおける多国間安保枠組みの構想をどう評価するか(3)マーシャル氏が最も恐れる中国の脆弱(ぜいじゃく)性にはどう対応すべきなのか(4)中東などで日米同盟が活用される可能性を日本人としてどう考えるのか。
いずれも冷静で柔軟な思考が要求される難題だが、米国が日本防衛への関与をやめることへの恐れが先に立てば思考は停止する。変わりつつある、不確実な世界にいかに臨むべきか。本書は、そのカギである日米中関係に正面から取り組んだ快著である。【評 高原明生(東京大学教授・東アジア政治)】
| そうか、もう君はいないのか | |
![]() | 城山三郎 新潮社 2008-01-24 売り上げランキング : 234 おすすめ平均 ![]() 本書が湛える底光り 湘南ダディは読みました。 亡き奥様への深き愛と感謝の回想記Amazonで詳しく見る by G-Tools |
見つめ合う夫婦の風景、ほほえましく
妻の茶目(ちゃめ)っ気あふれる小さなエピソードから回想は始まる。昨年3月に亡くなった城山三郎さんの遺稿である。描かれているのは、夫婦の物語――夫よりひと足早く2000年に旅立った妻・容子さんとの、出会いから永訣(えいけつ)まで。
決して大部な書物ではない。エピソードの一つひとつも、たなごころにふわりと乗る程度のボリュームである。〈昭和二十六年早春のある朝の何でもない偶然、そして、誤解から始まった〉二人の旅は、もちろん山あり谷ありではあっても、城山三郎最晩年の筆は、山の高さや谷の深さをことさら強くは描かない。むしろ、その旅路のさなかに夫婦がふと見つめ合い、笑顔を浮かべ合うささやかな幸せをとらえるのだ。
〈間違って、天から妖精が落ちて来た感じ〉―― 出会いの瞬間の容子さんである。硬骨の作家らしからぬ甘みのある言葉どおり、容子さんはよく笑う。こちらにまで上機嫌が伝わってきそうな、おおらかな女性である。そんな妻を見つめる夫も、不器用でいながら意外なおどけぶりも見せて、いやはやまったく微笑(ほほえ)ましい夫婦の風景である。
しかし、この回想記は容子さんの死後に書かれたのだと気づくと、不意に粛然とした思いに包まれる。巻末に収録された次女・井上紀子さんの一文によると、〈母が桜を待たずに逝ってから、父は半身を削(そ)がれたまま生きていた〉という。〈仏壇にも墓にも母はいない。父の心の中だけに存在していた〉のだ。
原稿用紙に向かう時間は、夫婦の歴史をもう一度生き直し、容子さんとのおしゃべりを楽しむ、かけがえのないひとときだったはずだ。天から落ちてきた妖精は、亡くなったのちも、城山さんの心の中で、原稿用紙の中で、夫婦の歴史の最終章を生きた。夫は書くことで妻と再会し、妻は書かれることで夫の胸を温めつづけたのだ。
死の間際に容子さんは最後の茶目っ気あふれる行動に出る。城山さんがその場面を描き終えたのを確かめてから、妖精はそっと手を取って、夫とともに天に還(かえ)っていったのではないか。【評 重松清(作家)】
| 評伝菊田一夫 | |
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「菊田一夫はますます怪物である」
と、戦前すでに喜劇王古川ロッパがその日記に記している(『古川ロッパ昭和日記』昭和13年9月6日)。ロッパ一座の文芸部員として脚本を書きまくり、「花咲く港」などの佳品を生んだ菊田一夫は、戦後、ラジオで「鐘の鳴る丘」「君の名は」の二大ヒットを飛ばし、その後、小林一三の招きで東宝に入社するや「モルガンお雪」のようなミュージカル劇(零落したロッパも出演した)、老舗(しにせ)ものの「暖簾(のれん)」、今なお上演され続けている文芸もの「放浪記」、さらには「風と共に去りぬ」など洋画の舞台化に至るまですべてを大成功させ、日本演劇史上における大作家・演出家・プロデューサーとしてその名を残す。足跡だけをたどればまさに怪物であった菊田は、しかしその一方で芸術コンプレックスにさいなまれ、女性遍歴を繰り返すなど、人間的な弱点も多々、備え持った人物であった。
大物と呼ばれる人物の評伝は難しい。対象と適度な距離を保ちつつ、その業績の面と個人的な面を有機的に結びつけ、人間としての魅力を描きながら、負の部分への目配りも怠れない。東宝専属の脚本家として菊田の謦咳(けいがい)に接していた著者の筆は絶妙のバランスで菊田の明と暗の両面を描き出し、本書を菊田一夫研究の基本図書の位置に据えた。今後の菊田研究はどのような新しい分析を試みようとも、まず本書の視点を基点にせざるを得まい。それくらい本書に描かれた菊田像は生き生きとしている。常に人の愛に飢え、多数の愛人を作ったのも「愛する女に、惚(ほ)れてもらいたいがために良い本を書く」。 稚気こそ彼の創作の原点であったから、と見る著者の目は、温かい一方で、“菊田天皇”とまで呼ばれた男の虚飾をすっかりはぎとっている。「君の名は」の“忘却とは忘れ去ることなり”の台詞(せりふ)を忘却させないためにも、多くの人に読んでもらいたい。
本書はおそらく生前の菊田を知る人による最後の評伝になるだろうが、今年80歳になる著者の文章の軽やかさにも一読して驚かされる。【評 唐沢俊一(作家)】
| ラカンはこう読め! | |
![]() | スラヴォイ・ジジェク 鈴木 晶 紀伊國屋書店 2008-01-30 売り上げランキング : 1101 おすすめ平均 ![]() 過度の期待はしない方がいい、『ジジェクについての入門書』 ラカン理論を駆使した文芸・映画批評Amazonで詳しく見る by G-Tools |
難解な理論で大衆文化を分析すると
フランス現代思想のスターの一人であったジャック・ラカンは、その理論の難解さによって知られる。聴衆を前に語られたセミネール(セミナー)の一部が日本語でも読めるようになってから、だいぶ理解しやすくはなった(ような気がする)が、それでも主著である『エクリ』のほうはとんでもなく難しく、歯が立たない。哲学に造詣(ぞうけい)が深くフランス語を解する人たちであってもそうだというから、筋金入りの難解さなのだろう。「ラカンはわカラン」などという駄洒落(だじゃれ)が生み出された所以(ゆえん)である。
本書の著者スラヴォイ・ジジェクは、ラカンの精神分析理論を理論的武器としながら、縦横無尽の批評活動を展開してきたスロヴェニア出身の著述家である。九〇年代半ばに『ヒッチコックによるラカン』『斜めから見る』が邦訳出版されたとき、邦訳の『エクリ』との明日の見えない戦いに明け暮れていた評者は、ラカンを大衆文化分析に援用する見事な手さばきに瞠目(どうもく)した記憶がある。本書もまたそうしたジジェクの冴(さ)えが十分に活(い)かされた書であり、他の著書と同じく、映画や文学、日常的エピソード、社会事象(ハラスメントや宗教的原理主義の隆盛など)から素材を採りつつ、ラカン理論が解説されている。
ラカン入門と銘打っているとはいえ、ラカンについての人物史的評伝が描かれているわけでも、ラカンの重要概念が一般向けに「平易に」翻案されているわけでもない。大衆文化や政治的出来事などを、「大文字の他者」「対象a」「想像界/象徴界/現実界」といったラカンの重要概念を使用しながら解釈することにより、いわば実践的にラカンの理論体系を指し示していくこと……本書でもそうしたジジェクの方法論は貫徹されている。
だがもちろん、「ラカン理論+大衆文化研究=ジジェク」というわけではない。この等式の成立を拒む過剰さがジジェクの批評言語にはある。入門書の体裁をとったこの批評書の読者は、いやが応でもその過剰さを体感することになるだろう。【評 北田暁大(東京大学准教授)】
| 白球と宿命 甲子園から生まれた6つの物語 (日刊スポーツ・ノンフィクション) | |
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副題に「甲子園から生まれた6つの物語」とあるように春・夏の高校野球は物語の宝庫。
昨夏の優勝校、佐賀北高校野球部の逸話「奇跡は起こせる!」(文・樫本ゆき)のプロローグから、77年夏の決勝で相見(あいまみ)えた選手同士のその後の交流を描く最終章「バーディーパットをもう一度」(文・高川武将)までのいずれもが味わい深い。
準優勝投手、東邦高校の“バンビ”こと坂本佳一は、プロゴルファーになった優勝校東洋大姫路の左翼手、平石武則のキャディーを00年「中日クラウンズ」で志願。その高校野球アイドル坂本も今は商社の室長。時の流れの豊かさを感じさせる佳作だ。
異色作は「あの夏を越える夏を探して」(文・中村計)。4千校を超える高校球界の頂点を極めたワンダーボーイたちはエレベーター式に大学野球部に入る。だが斎藤佑樹以外のレギュラー組は名状しがたい空虚に包囲されていた。青春、いかに生きるべきかの観点と情感が溶け合い、早実ナインの後日譚(たん)の作品化に成功している。
卑近に流れがちなスポーツ報道も意欲さえあれば文学作品に結晶する。被取材者の協力姿勢も清々(すがすが)しく、爽快(そうかい)な読後感に一役買っている。【佐山一郎(作家)】
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満州事変以降、日本が満州で支配を確立していく過程で、満州の側には、日本の進出を甘受する協力者たちがいた。
彼らは、中国では「漢奸(かんかん)」すなわち国家や漢民族への裏切り者と呼ばれ、今なお厳しく断罪されている。筆者は、張作霖政権の幹部として活躍し、日本に抵抗を試みつつも、やがてその支配に協力する立場に追い込まれ、「漢奸」の名を背負った人々の苦悩を追っている。
対日協力で蓄財に励みつつ、関東軍に抵抗も示した「大漢奸」于冲漢。満州国の国務総理として、日本の傀儡(かいらい)とされたことを悔いながら、戦後の裁判で自分が「売国奴」だとは決して認めなかった張景恵。他方で、張景恵の息子のように、日本に近い立場を取る父を敬慕しながら、反日へと進んでいった人物もいた。断罪でも弁護でもなく、等身大の人物像を浮かび上がらせようとする筆者の姿勢に好感が持てる。
残念なことに、「漢奸」の戦後は十分に明らかにされていない。それは、彼らが戦犯とされ、その後文化大革命でも迫害されたため、ほとんど史料が残されず、消息すら不明な者も少なくないからだという。日中の歴史問題の解決には、今なお困難な面があることを思い知らされる。【奈良岡聰智(京都大学准教授)】
| もっとも美しい数学ゲーム理論 | |
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数学でどこまで予測できるか
人生がゲームだとしたら、勝つ確実な方法はあるのか。たぶんあると、ゲーム理論は予測する。それどころか経済活動から人間の行動、はては生物進化の過程まで説明できるという。
「囚人のジレンマ」と呼ばれる有名な仮想ゲームがある。重罪を犯した共犯者2人が微罪で逮捕された。2人とも黙秘すればそれぞれ禁固1年の刑。自白して共犯者を売れば、自分は無罪放免で相手は禁固5年の刑。2人とも自白して互いに相手を売ればそれぞれ禁固3年の刑(自白による2年の減刑)。ここで試されているのは共犯者の信頼関係。ただし、相手の出方はわからない。自分は黙秘しても、相手は裏切るかもしれない。詳しくは本書を読んでもらうとして、この場合、双方にとって最も得な戦略は、2人とも自白することである。
これに限らず、どんな種類のゲームでも、参加者全員の利得が最大になるような戦略の組み合わせが必ず存在する。これを証明した数学者はノーベル経済学賞を受賞し、アカデミー賞映画「ビューティフル・マインド」のモデルになった。
世界の動きは数学でどこまで予測できるのか。本書では、ゲーム理論の誕生と発展、その可能性が手際よく語られている。【渡辺政隆(サイエンスライター)】
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魅惑の国際都市を生き生きと
中東を舞台としたミステリーといえば、大英帝国時代の香り漂うクリスティや国際スパイ合戦を扱うル・カレなど、危険と陰謀が満載だ。主人公は大抵西洋人で、中東人は悪役か、その手先として登場する。
本書は、オスマン帝国を舞台にトルコ人宦官(かんがん)が大活躍するという、歴史物。19世紀の国際都市イスタンブールの繁栄、下町の猥雑(わいざつ)な世界を舞台に、猟奇的連続殺人事件の謎を追う。
オスマン帝国といえばトルコ、というイメージだが、フランス出身の妃(きさき)やアフリカ出身の官吏の登場は国際帝国だった証し。東欧やロシアとの関係、イェニチェリ軍団の解体と帝国の近代化など、当時の国際政治情勢が反映されている。
訳もよい。中東歴史物は、ついつい千夜一夜物語的な文体になりがちだが、職人気質の親爺(おやじ)、はすっぱな女たちなどの下町ならではの会話が、生き生きしている。
食べ物の記述が多いのも、魅力。世界3大宮廷料理のひとつに数えられるトルコ料理だが、主人公も食への造詣(ぞうけい)が深い。西洋の小説のなかでテロリストとしてしか登場しにくい中東キャラが、モテ系イケ面グルメというのは、なかなかありません。【酒井啓子(東京外国語大学教授)】
| 変容する参加型開発―「専制」を超えて (明石ライブラリー 119) (明石ライブラリー 119) (明石ライブラリー 119) | |
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自発的改革をもたらす援助のために
開発援助と民主化の関係は先進国の人たちが思っているほど一筋縄ではいかない。かつては開発途上国に援助をして経済発展を促せば、自然と民主化されて市民が幸福になるという単純な近代化の図式が描かれていた。しかし、その後、途上国の政府を通じて経済援助をするだけでは、かえってその国で独裁的に権力をもつ者に資源を与え、民主化を遅らせることになるという「開発独裁」が指摘された。
このため、開発プログラムを途上国政府の主導に委ねるのではなく、地域の草の根レベルでの住民参加を軸とする開発を進めるべきであるという「参加型開発」論の主張が一世を風靡(ふうび)するようになった。しかし、この議論に対しても、90年代後半から、現実には地域の権力者に一層の政治権力を与えるだけで貧困層などの社会的弱者による自発的な生活向上には寄与しておらず、援助側の押しつけとしての「専制」に終わっているのではないかとの批判が生まれた。
本書は、こうした開発援助に関する最先端の議論を集めたものである。参加によって民主化が進み、それまで排除されてきた人たちが政治的権利を得るという立場の論考から、自発的改善を行っていた地域が援助側の意のままに動くようになってしまったという事例まで、幅広い意見が紹介されている。
肝心の「参加型開発」についても、「専制をもたらすか否か」という二者択一で決着をつけるのではなく、参加について見直していく必要性を認識しながら、社会の制度的・構造的な変容に繋(つな)がる参加を模索していく。そして、「お仕着せの参加」によらずに一般市民が自分たちの権利としてのシティズンシップを獲得するために、権力者と対等に討議できる場をもつことが肝要と捉(とら)えている。
わが国が世界有数の政府の途上国援助(ODA)供与国であるなら、単なる経済発展や日本企業へのリターンだけを考えるのではなく、途上国における市民の自発的改革をもたらすような開発をいかに行うべきかを考える時期に来ているのではないだろうか。【評 小林良彰】
| 中国都市への変貌―悠久の歴史から読み解く持続可能な未来 | |
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悠久の歴史から読み解く持続可能な未来
急激な都市化のなか、進むべき道は
各国の地域計画にも影響を及ぼす都市論の大家が、中国の政治的変化と経済成長を「都市化」という現象から分析した新著である。
開放政策と近年の経済成長は、農村から都市へと大量の労働者の流入を促した。中国では総人口の3分の1以上が都市に暮らし、なおその比率は年々上昇している。今後、30年以内には、3分の2が都市に住まいを構えることになるようだ。それ以上に現在の4億6千万人から9億人に都市居住者が増加するという実数の予測に驚かされる。人類が経験したことのない、変貌(へんぼう)をとげつつあるわけだ。
都市化の波は、農村の工業化をも推し進めた。基盤整備を進める地方政府の力量を超え、実務者が策定する都市の将来構想よりも速く、広大な国土にひろがった。いっぽうで社会の都市化は、これまでにはなかった「個人の自律性にかかわる空間の拡大」をもたらした。人々は消費の楽しみを知り、自由な時間の過ごし方を自分で考えるようになった。都市化とは、重層的に捉(とら)えるべき現象である。
なによりも私たちが本書から学ぶべき点は、このアーバニズムへの移行が、西側社会に「追いつく」ことを目的としたものではないという指摘だ。確かに香港や台湾、外地の華僑、日本や韓国などの資本を受け入れてきた経緯を考えると、この変化はグローバル経済の所産のようにも見える。しかし実際は、伝統を踏まえた内発的な力によって推し進められたと、著者は繰り返し強調する。
著者は持続可能な経済・環境・社会を実現する上でも、「世界の大文明」の一つである中国が果たす役割に期待を寄せる。環境破壊や所得格差の拡大などによる最悪の事態を回避するには、無秩序な成長でもなく停滞でもない「中道」を歩むことが望まれる。
そもそもかつての中国の人々は極端に走るのではなく、然(しか)るべき均衡を見いだすことに長じていた。現世代も、その良き伝統を継承する意志をもつべきだと主張する。碩学(せきがく)のこの信頼に、中国がいかに応えるのか。隣国の私たちにとっても切実な問題だ。【評 橋爪紳也】





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