メイン > 朝日新聞日曜版『書評』 > 2007年8月5日~8月19日

民営化で誰が得をするのか―国際比較で考える (平凡社新書 384)
民営化で誰が得をするのか―国際比較で考える (平凡社新書 384)石井 陽一

平凡社 2007-07
売り上げランキング : 230

おすすめ平均 star
star外国の民営化事例は参考になる
starコンパクトな民営化論

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

理念なき「改革」はどこに向かうのか

先の参院選で自民党が大敗した。小泉改革で進められた新自由主義改革が現実のものとなった結果、地域間格差や個人間格差に伴う不公平感が生じたことが、大敗の一因としてあげられる。そもそも、小泉元首相を支持していた者は多かったが、改革の中身をどこまで理解して支持していたのだろうか。

『民営化で誰が得をするのか』は、期せずしてタイムリーな出版となった。著者は、海外移住事業団での駐在経験も持つ神奈川大名誉教授。海外情勢に詳しい目で、日本の旧三公社(国鉄・電電・専売)や、道路公団・郵政の民営化を、米国や欧州・ラテンアメリカ・アジア各国と比較し検証した。

まず世界の民営化を、動機に基づいて五つのタイプに分け、日本における民営化の多くが「政治的配慮」によって行われ、「民営化そのものは目的ではなく、労働問題、政治問題であった」と批判する。旧三公社のうち、国労・動労や全電通という強力な労働組合があった国鉄と電電公社の解体は、総評の崩壊と社会党の没落を招く。一方、専売公社の労組は穏健であったため、日本たばこ産業(JT)は分割されずに済んだと指摘する。

小泉改革における道路と郵政の民営化については、なぜ民営化なのか理念がはっきりとせぬままに構造改革という美辞麗句にくるまれ、あたかも逆らえない世界の潮流かのような思いこみの中、既成事実として民営化が進行しつつあると手厳しい。

経済面の効果も疑問視する。民営化収入で国の債務を償却したり増税を免れたりした国もあるなか、日本の場合は巨額な政府債務の前に焼け石に水でしかなかった。また、郵便料金は変わらず、JRも私鉄と比べて運賃が特段、安いわけではない。こちらも競争原理導入で効果が上がっているとは言い難い。

民営化では、医療も聖域ではない。例えば、大学の独立法人化や国立病院の民間移転など、わが国でも米国流の市場原理が徐々に導入され始めている。『市場原理とアメリカ医療』は、ハーバード大助教授などを経て横浜市立大教授である著者が、日米の大学で医療に携わってきた経験を背景に、米国の医療制度の現状と問題点を詳細に紹介した。

国民健康保険制度がある日本と異なり、米国では自動車など他の保険と同様に医療保険が民営化されており、高額保険の加入者は高水準の医療を受けられる。医師も技術に見合った報酬を受け取ることができ、医療水準が他国に比べて高い。しかしその半面、安い保険の加入者は低水準の医療に甘んじ、国民の2割を占める無保険者は症状がひどくなってから救急救命センターに駆け込むか州立病院の慈善クリニックなどへ行くしかない。

結局、市場原理から得るものもあるが、隣の芝生が緑に見えるが如(ごと)く、何でも民営化しさえすればいいというものではないというのが、両書の著者達(たち)の主張である。財政再建のためなのか、それとも所得再分配のためなのかという民営化の理念を明確にした上で、日本の実情に合わせた公平な実施策を考える段階に来ているのではないか。【評 小林良彰(慶応大学教授・政治学)】

■2007/08/19, 朝日新聞 朝刊, 11ページ

片岡義男 短編小説集「青年の完璧な幸福」 (SWITCH LIBRARY)
片岡義男 短編小説集「青年の完璧な幸福」 (SWITCH LIBRARY)片岡 義男 新井敏記 タダジュン

スイッチパブリッシング 2007-07-12
売り上げランキング : 4600


Amazonで詳しく見る
by G-Tools

閃き授ける女たち、小説が芽吹く瞬間

本書の4編にはそれぞれ、小説家をめざす青年が登場する。小説は、小説家は、いかにしてつくられるのか?

米国の大学には古くから創作科や講座があり、そこからカーヴァーやアーヴィングが生まれた。しかし「小説作法は学校で習えるものなのか」という議論は根強くある。

1960年代の日本を舞台にする本書では、小説教室は間違いなく別な形で存在する。ベテラン編集者たちは喫茶店やバーでの文学談議を通して、様々なヒントを与えてくれる。日常風景の中にふと扉がひらいて思いがけない小説のレッスンが顔を出す。彼らの創作論が、作中で実践されているのも読みどころだ。

だが、それにもまして青年に閃(ひらめ)きと霊感を授ける詩神は、女たちである。夕立のなか傘に飛びこんできた浴衣姿の人、予期せず恋人になった年上の幼なじみ、元アクション女優のバーの女……。

小説は、どこにあるのだろう? 「美しき他者」という編に出てくる女は、それをチェロ演奏になぞらえ、音楽は楽器という「具体物」の極みから出て、人の頭に入ると「エモーションというとんでもない抽象物になる」と表現する。わたしはエルンスト・クルトの音楽心理学や「楽譜は影のようなものにすぎない」という考えを繰り返し思う。「音楽」とは人の内面にある何かを表出したものではなく、内面で起きていることそのものなのだ。そう、「小説」もまた、目に見える文字にではなく、作者の心の動きにこそあるに違いない。

青年の心の内だけにある「小説」を、わたしは本書で紛れもなく読んだ。読んだという気持ちになった。一度きりの出会いや、恋人の遠のきが青年の心をゆさぶるとき、そこから架空性は生まれ出てくる。女たちはやがて彼の中でフィクションそのものになり、どこにもいない「幻」になることで、小説を芽吹かせる。なんという幸福だろう。フィクション誕生の瞬間を垣間見た読者にも、青年の高揚感は伝わるはずだ。

片岡義男氏の小説集はデビューから三十数年を経ていっそうみずみずしい。【評 鴻巣友季子(翻訳家)】

■2007/08/19, 朝日新聞 朝刊, 12ページ

新聞資本と経営の昭和史―朝日新聞筆政・緒方竹虎の苦悩 (朝日選書 824)
新聞資本と経営の昭和史―朝日新聞筆政・緒方竹虎の苦悩 (朝日選書 824)今西 光男

朝日新聞社出版局 2007-06
売り上げランキング : 3480

おすすめ平均 star
star続編を望む

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

権力の一大敵国率いた「筆政」の足跡

新聞が時の権力から「一大敵国」と恐れられるほどの発言力と影響力を持っていたことがある。大正時代から昭和初期、新聞各紙は果敢な論説と真相をえぐるスクープで世論を導きつつ、常に華々しいイベントを展開して広く読者を獲得した。

だからこそ、しばしば新聞と権力は対峙(たいじ)した。日中戦争から太平洋戦争にかけて、編集の自由が徐々に奪われ、すべての新聞が大本営の発表をそのままに伝達する国策新聞になる。もっとも最終的に屈服したのは、記者たちではなく、むしろ新聞社の経営陣であったのではないか。

本書は、朝日新聞の編集部門の統括とマネジメントを掌握する最高責任者であった緒方竹虎の言動に焦点をあてつつ、戦前から敗戦にいたる新聞史を検証するものだ。記事や論説の内容ではなく、販売や広告なども含めた経営面から新聞の戦争責任を問う視点が新しい。加えて「権力」と「新聞」との緊張関係、そして「資本」と「経営」とをめぐる社内抗争のあとも丹念に検証する。

緒方は、早稲田大を卒業したのち朝日新聞社に入社、言論弾圧の白虹事件による人事刷新を契機に発言権を増し、いわゆる「筆政」になる。軍閥政府や軍部、右翼などからの攻撃の矢面に立って奮闘すると同時に、編集の自由を確保するため、社外株主を排除するなど経営と編集の分離を推し進めた。しかし副社長にまつりあげられたのち、朝日を去り小磯内閣の国務相・情報局総裁に就任する。

筆者は最終章で、新聞にとって「戦争」は終わっていないと挑発する。戦時下の新聞統制で得た既得権益をもとに、敗戦と占領の激動期を越えて、経営基盤を確立させる。しかし、「筆政」が編集と経営を掌握していた時代ほどには、権力から恐れられることはなかった。新聞は権力によって馴化(じゅんか)された面があるのではないか、と述べる。インターネットなどに企業広告の場が移るなど、新聞というメディアの将来性について議論がさかんな現在だからこそ、本書が投げかけた問題点に注目したい。【評 橋爪紳也(大阪市立大学教授)】

■2007/08/19, 朝日新聞 朝刊, 12ページ

ワープする宇宙―5次元時空の謎を解く
ワープする宇宙―5次元時空の謎を解くリサ・ランドール 塩原 通緒

日本放送出版協会 2007-06
売り上げランキング : 31

おすすめ平均 star
starとても判りやすくかつ深い、最新理論の解説書
star読みづらかったです
star文系読者も安心して楽しめる!

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

現代宇宙物理学の最先端からの報告

最新の宇宙論に触れるたびに抱くのは、宇宙に果てはあるのか、広大無辺な宇宙における人間の存在とはいったい何なのかといった、考えれば考えるほど頭がぼうっとしてきそうな問いである。素人に納得できる解答が出されないまま、理論宇宙物理学の新しい学説が送り出されている。

今回の新機軸は、われわれはブレーンと呼ばれる膜のようなものの上で暮らしているのかもしれないと説く「ワープした余剰次元」理論。それと、その理論の提唱者にして本書の著者が、アインシュタインやホーキングといった、まさに異次元の住人を思わせる天才ではなく、才色兼備の物理学者という点。

では、その余剰次元とは何か。われわれが認識する世界は、縦・横・高さという3つの次元でできている。それに時間も入れた4次元の世界ならば、まあまあ常識で理解できる。しかし実際にはこれに、歪(ゆが)んだ(ワープした)第5の次元が存在するというのが余剰次元理論である。いや、こんな説明ではわからなくて当然。そもそも600ページにもおよぶ本書の内容を数行で要約できるはずがない。

本書の半分あまりはアインシュタインから超ひも理論までの理論物理学史のおさらいに当てられている。かつてニュートンは、自分が他よりも遠くを見通せたのは、巨人たち(偉大な先人たち)の肩の上に乗っていたからだと語ったという。研究が進み知識が増えつのるに伴い、先端科学を理解するための素養も増大する。踏み越えるべき巨人の数も増すというわけだ。おまけに次元数まで増えてしまった!

そこで本書の冒頭では高次の次元という考え方が、芸術家の遠近法になぞらえて説明されている。また、歴史のおさらいは、著者自らが提唱する最新理論が登場した必然性を踏まえている点で斬新である。新しい難解な理論が生み出される現場を垣間見られるエピソードも楽しい。難点があるとしたら、当事者が語る歴史特有の、細部へのこだわりだろうか。ともあれ、異次元宇宙にワープするには格好の1冊である。【評 渡辺政隆(サイエンスライター)】

■2007/08/19, 朝日新聞 朝刊, 12ページ

モーティマー夫人の不機嫌な世界地誌-可笑しな可笑しな万国ガイド
モーティマー夫人の不機嫌な世界地誌-可笑しな可笑しな万国ガイドトッド・プリュザン 三辺律子

バジリコ 2007-07-04
売り上げランキング : 2622


Amazonで詳しく見る
by G-Tools

独断と偏見のトンデモ解説

150年前にイギリスの有名な作家が書いた世界の国ぐに解説本を、なぜ今、ニューヨークの編集者が抄録して出版したかというと、まずそのトンデモな世界観にあきれ、笑う(この作家はほとんど海外に出たことがない!)と同時に、でもこんなトンデモ世界観は現在も先進国の政治家によく見られ、外国への失言暴言は日常茶飯じゃないか、と言いたかったからだ。

イングランドが一番、と信じて疑わないモーティマー夫人が他国をこき下ろす際、最も嫌うのは、偶像崇拝、「まちがった宗教」(仏教、イスラム教はもちろん、カトリックも)、そして飲酒。なんか、タリバンが読んだら、すごく共感しそうだ。続いて、不誠実、醜さ、残酷が欠点とされる。

全体にトンデモだらけなのに、ときどき、はっとする記述がある。アフガニスタンでイギリス人が殺されることに対して、「アフガン人を責めることはできません……彼らは自分の国を守っただけなのです」。

また黒人については、「ただ肌の色が黒いというだけ」で差別されるのは、「まちがったことだと思いませんか?」。

笑えて、やがて(今の世界が)情けなくなる本だ。【評 酒井啓子(東京外国語大学教授)】

■2007/08/19, 朝日新聞 朝刊, 13ページ

テレビニュースは終わらない (集英社新書 400B)
テレビニュースは終わらない (集英社新書 400B)金平 茂紀

集英社 2007-07
売り上げランキング : 1045

おすすめ平均 star
starテレビ・メディアの最先端で闘ってきた者の苦渋と決意表明。
star今ならまだ間に合う

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

いまの「メディア不信」の構造は、深刻である。そのようなメディア状況を糾弾する評論は数多いものの、著者が指摘するように、現役の報道人による論考は驚くほど少ない。いま、日本のメディアに求められているのは、抽象的なジャーナリズム倫理やネット技術への期待論ではなく、現実的なメディア改革に向けた検証・提言である。

本書は、現役のテレビ報道局長が、イラク報道や選挙報道などを事例に、メディアの現場が直面する「国益・政治権力との距離」や「ネットとの関係性」、「ジャーナリズムにおける組織と個人」といった問題群を丁寧に検証しながらも、その意味をメディア状況全体のなかで論究しようとした意欲的な一冊だ。

故・米原万里さんとのワシントンと鎌倉を結んでの電話対談も興味深い。イラクで人質となった3人の日本人に対してわき起こった「自己責任論」に、一部メディアが同調する姿に、政や官との蜜月のなかで日々仕事をこなす日本の大手メディアに内在する病理を突く。

日本のテレビ報道が置かれた絶望的状況を人一倍憂うがゆえに、テレビの持つ潜在的可能性に希望をつなごうとする著者の、冷静だが熱い想(おも)いが伝わってくる。【評 音好宏(上智大教授)】

■2007/08/19, 朝日新聞 朝刊, 13ページ

暮らしの哲学
暮らしの哲学池田 晶子

毎日新聞社 2007-06-29
売り上げランキング : 691

おすすめ平均 star
star一日一日、生活を重ね、思索を重ね、今に存在する

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

「哲学」はムズカしい。あなたもそうおもい込んでいませんか? しかし、池田晶子さんは、専門用語を使わず、日常の話し言葉で哲学の本質を語りつづけたのでした。

この世に生きるとは?

自分とは何者か?

世界をどう理解するか?

癌(がん)を告知されたら?

その他、生まれてから死ぬまで(いや、死後まで)人間が直面する、あまたの重要な出来事を、春夏秋冬の季節の流れにそって書きとめたのでした。

さっきから過去形で述べているのは、ほかでもなくこの本が今年の二月、まだ四十代の半ばで急逝した著者の遺作だからです。

惜しいひとを亡くした。つくづくそうおもいます。「哲学」とは「考える」こと。現象の向こうに本質をとらえること。そんな誰にでもわかる「哲学エッセイ」は、さらに深く豊かな思索が展開されたはず。著者自身、年をとるという醍醐味(だいごみ)が楽しみだと書いているし、現に新しい春を迎えた最終回にその萌芽(ほうが)が見られます。

詩人の伊東静雄は、蝉(せみ)の声を聴いて「一種前世(ぜんしょう)のおもひ」を抱きましたが、日常の時間から解放される夏こそ「哲学=考える」にふさわしく、本書は多くのヒントを与えてくれます。【評 杉山正樹(文芸評論家)】

■2007/08/19, 朝日新聞 朝刊, 13ページ

露の玉垣
乙川 優三郎 (著)

波瀾(はらん)万丈、手に汗握るといった要素を乙川優三郎の作品に求めてはいけない。英傑・英雄も、秘術・秘剣も登場しない。地道に、真面目(まじめ)に、こつこつと生きる無名者が主役だ。やや地味かもしれないが、読み終わった後、いつも深い思いに襲われる。そういう作家はそれほど多くない。

本書の舞台は、窮乏にあえぐ越後の新発田藩。下僕から代官になった男と、昔、離縁になった主家の女性との交情、寡黙・偏屈の勘定奉行の生き方、隠居し、一切の虚飾を捨てた元中老の隠居、夫の弟によって実弟が斬(き)られた妻のきれぎれの回想など、二〇〇余年にわたる名もない家臣やその家族の歩みを辿(たど)った八編の連作短編集である。

大水、旱魃(かんばつ)、大火、幕府御用の出費など、藩財政はつねに逼迫(ひっぱく)している。質素倹約ではとうていたちゆかない。そのなかで、武士として筋を通し、家をどう守り、どう継いでゆくか。

新発田藩に実在した溝口家に伝わる「世臣譜」という資料に基づいているらしいが、老若男女を問わず、必死に格闘する「普通」の人々のすがたが、丹念な描写と静謐(せいひつ)な文体によって、鮮やかに浮かび上がってくる。近年には珍しい重厚感のある歴史小説だろう。【評 小高賢(歌人)】

■2007/08/19, 朝日新聞 朝刊, 13ページ

ぼくには数字が風景に見える
ぼくには数字が風景に見えるD. タメット 古屋 美登里

講談社 2007-06-13
売り上げランキング : 23

おすすめ平均 star
star脳の不思議、努力、差別、愛…
star6と水曜日と諍いの声の共通点は?
starまあまあ

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

「障害」を武器にした驚異の計算力

目を閉じてじっと数字を思い浮かべる。網膜にうっすらと7が浮かぶ。その私の数字には、なんの特別な形も色も感情もともなっていない。がっかりするほど無味乾燥だ。

けれど、サヴァン症候群とアスペルガー症候群という運命を担って生まれてきた青年、ダニエル・タメットにとっての数字は違う。

彼の数字は内気だとか、騒々しいとか、独自の個性をもっている。色もとりどり。動きも自在。質感もある。さらに、舞い落ちる雪のようとか、悲しいとか嬉(うれ)しいとか数字を媒介にいろんな感情もわいてくる。

それはなんと甘美な体験であろうか。が、このひとつの刺激に複数の感覚が連動して生じる「共感覚」は、脳の障害とされているのだ。

この「共感覚」によって、数字の美しき風景の中を散歩するようにして、ダニエルはπの小数点以下2万2千桁(けた)以上を暗唱できる。また、語学の天才となり、10カ国語を自在に操れるようになった。

本書はそんな著者、ダニエルの生まれてから自立するまでの「回想」の記である。

むろん、彼は独特な赤ん坊だった。常に泣き叫び、幼児期は壁に頭を打ちつけ、自閉的で、日常の手順や日課に極端なこだわりを持ち、友もなく、常に孤立していた。

そんな彼がどうやって成長を遂げていったのか。

彼の数字が彼にもたらす喜びや悲しみの感情を回路に他人の感情に気づいていった。「障害」のなせるわざの驚異の計算力や語学力を武器に社会と折り合いをつける道を自力で発見していった。

そして、ついに愛し合う人と出会う。

この困難だけれど、勇気ある彼の人生の経緯を読んでいると、「人の持つ力」の不思議を実感する。ほんとうは、誰もが、それぞれに底知れぬ能力の箱を抱えているのに、それに鍵をかけているだけかもしれない、という気さえしてくる。私にも、ダニエルの語るようなあの美しい風景がちらとでも見えないものかと、じっと目を閉じ、私は私の数字を思い浮かべてみるのである。【評 久田恵(ノンフィクション作家)】

■2007/08/19, 朝日新聞 朝刊, 13ページ

経済再生の条件―失敗から何を学ぶか
経済再生の条件―失敗から何を学ぶか塩谷 隆英

岩波書店 2007-06
売り上げランキング : 510


Amazonで詳しく見る
by G-Tools

元次官が痛感する政策「戦略」の重要性

01年1月の省庁再編に伴い、かつての経済白書は「経済財政白書」と名前が変わった。名前だけではなく、時の政権に媚(こ)びない中立的なかつての白書の分析も、当時の竹中平蔵大臣の言葉によれば「経済財政諮問会議の審議のサポート」に変容した。

変わり果てた白書を見て66年に経済企画庁に入庁し、事務次官を経て99年に退官した著者は「昔の白書を懐かしく思う」という。しかし、ノスタルジーから覚めた著者は心機一転、バブル発生以降の失敗の教訓を「公共政策に携わった者の責務」として「後進に伝え」ようと試みる。失敗の本質は「戦略性の欠如」にあった。高度成長に継ぐ目標を定められないまま、整合性を欠いた政策運営が続けられたのだ。実際、プラザ合意後の円高不況や貿易摩擦への対応を優先し、資産価格の高騰を放置した失敗がバブルを招き、その退治に固執した過度な引き締め策が、銀行のバランスシートに与える影響を看過した失敗の顛末(てんまつ)が90年代の「大停滞」だった。

30年以上に及ぶ政策現場での経験から著者が学んだのは、不況に陥れば長期の目標を棚上げしても景気対策に集中し、好況に転じれば目先の利益よりも長期の目標を追求するという、政策「戦略」の重要性である。その判断を間違えば、97年後半以降の不況の際に財政支出を惜しみ、虎の子の財政構造改革法の効力を成立後1年余りで失った旧大蔵省の轍(てつ)を踏む恐れがある。同様に、一見「勇ましい」小泉改革の行方も、格差を放置すれば必ずしも安泰ではない。「見えざる神の手」に日本の未来をゆだねる改革に批判的な著者は、「改革なくして成長なし」の帰結が「効率一辺倒・弱肉強食の格差社会」に見えるという。

本書には多くの政治家や官僚が実名で登場し、景気判断や政策調整をめぐる議論や交渉の様子が臨場感溢(あふ)れる形で再現される。そこで著者が示すのは、どんなに優れた人間でも間違うということだ。過去の失敗を責めても歴史は変わらない。しかし、失敗から学ばなければ同じ失敗が繰り返されるのである。【評 高橋伸彰(立命館大学教授)】

■2007/08/19, 朝日新聞 朝刊, 13ページ

となりの神さま
となりの神さま裴 昭

扶桑社 2007-06-30
売り上げランキング : 4607


Amazonで詳しく見る
by G-Tools

オモロイ友達として共存する道問う

藤原新也が26年前に出版した『全東洋街道』が衝撃的だったのは、日本の外に旅して、アジア、中東の異文化に等身大でぶつかり、異国の強烈で生々しい日常を写真でわれわれに伝えてくれたからだ。

ハイ昭は、同じ異国のビビッドな生の営みを日本のなかに見つけて、紹介していく。群馬県のプレハブ建てのイスラーム教モスク、東京下町のマンションの一角にカラフルに飾り立てられたシク教寺院、九十九里浜で祈る韓国のシャーマン。これほどまでに多くの宗教、信仰ネットワークが日本国内で息吹(いぶ)いていたのかと、評者にも驚きだった。

外国人が増えるにつれ、日本に流入する異文化、見知らぬ宗教は、往々にして違和感と胡散(うさん)臭さをもって語られる。治安問題に結びつけたり、景観を問題にしたり、とにかく怪しい、という先入観が前面に出る。「異文化を理解しなければ」と考えても、頭のなかだけの優等生的回答になりがちだ。

しかし、『となりの神さま』がこうした異文化認識と決定的に違うのは、すでに共存に視点を定めているところだ。その映像、筆致は、徹底して温かい。ワシ、こんなヘンテコでオモロイ知り合いがたくさんおるんやで、的な、友達自慢みたいな本だ。筆者自身、異国からきた人々の生活の多様さに共振し、楽しんでいる。自分もまたディアスポラ(離散の民)だという意識が、相手と同じ目線を生んでいるのだろう。

外国人とは誰か、という問いは、国民とは誰か、との問いでもある。人々が王様への忠誠によって「臣民」とされていたとき、あるいは人々が信仰に応じて「信徒」とされていたときには、誰がその共同体の構成員かは、わかりやすかった。だが王様がいなくなり、宗教が統治と切り離された現代の国民国家では、国民とはいかに規定されるのか。

その問題に最初にぶつかったのが、革命後のフランスである。フランス革命を支持すれば外国人もフランス人になれるのか。フランス人の子としてフランスに生まれなければフランス人ではないのか。いったん国籍を得た外国人は、子孫もフランス人なのか。

先般フランス大統領となったサルコジ氏は、内相時代、北アフリカ出身の移民第二世代の若者を「社会のくず」と呼んで、物議をかもした。フランス国籍を持っていても、移民出身者は常に異邦人として社会から排斥される。特に近年のイスラーム運動のグローバルな台頭で、「イスラーム嫌い」が西欧全般に蔓延(まんえん)しつつある。

『エトランジェのフランス史』は、外国人受け入れを巡るフランスの対応を軸に、国民とは何か、を問う。歴史的に、労働力としての外国人受け入れの必要性から、同化・共存を謳(うた)いつつ、しばしば激しい外国人排斥を繰り返してきたフランス。今後、日本も同じような試行錯誤を強いられるのだろうか?

でもそこに「となりの神さま」を、オモロイ友達自慢として楽しむ包容力があれば、日本での異文化共存には、西欧と違う等身大の共生の道が、開けているのかもしれない。【評 酒井啓子(東京外国語大学教授・中東現代政治)】

■2007/08/05, 朝日新聞 朝刊, 13ページ

大地の慟哭(どうこく)
大地の慟哭(どうこく)秦 尭禹 田中 忠仁 永井 麻生子

PHP研究所 2007-05-19
売り上げランキング : 4599

おすすめ平均 star
star必読です。大迫力でした。

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

来年のオリンピックを控えた北京ならずとも、現在、中国の大都市の建設ラッシュはすさまじい。急速に進む中国の都市化、そして「世界の工場」とまで言われるようになった工業化を支えているのは、「民工」と呼ばれる農村からの出稼ぎ労働者だ。

いまや2億人はいると言われる民工は、いわゆる3Kの仕事を受け持ち、仕送りによって農村経済にも大きく貢献する。例えば03年には、それによって四川省の農民の純収入は50%増えたという。

本書は、中国で05年1月に出版され、多くの人に読まれた『中国民工調査』の邦訳である。著者は香港のエコノミスト。中国のいくつかの都市での実地調査と豊富な文献調査を組み合わせ、民工の生活の実態に迫り、それを多面的に描き出した。

一部の民工の実態の厳しさは想像以上だ。給料の遅配欠配は驚くに値しない。劣悪な労働環境による労働災害の頻発と社会保障の欠如、「民工米」と呼ばれる、食用に適さない古い米などを使った粗末な食事、性の抑圧と精神生活の不毛、民工の子供の就学難と学校でのいじめ、そして農村の留守家庭に残された子供への虐待やストレス。民工と農村は都市主導の変革の波に呑(の)み込まれ、血縁を中心とした農村の姻戚(いんせき)文化と社会システムは破壊されたと著者はいう。

中国の指導者は決して無為無策でいるわけではない。差別をなくし、民工に正式労働者と同じ待遇を与えるよう指示を次々と出している。また、女子労働者や熟練工の不足が広東などで深刻化し、賃上げ圧力となっている。

民工の苦難は高度成長に伴う過渡的な問題なのかもしれない。成功している民工だって少なくないはずだ。だが広い中国の場合、過渡期は相当長くならざるをえまい。制度上は差別を廃止しても、豊かな沿海大都市を除き、実態として民工全員に社会福祉を提供することは当面不可能である。差別意識の解消も簡単ではない。表はぴかぴかの摩天楼だが、その裏には長く、濃い影があることを本書は教えてくれる。【評 高原明生(東京大学教授)】

■2007/08/05, 朝日新聞 朝刊, 14ページ

とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起
とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起伊藤 比呂美

講談社 2007-06
売り上げランキング : 2878

おすすめ平均 star
starすごいです。
starすばらしかった
star長編詩?随筆?私小説?

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

伊藤比呂美の本には、詩でもエッセーでも小説でも対談でも、遠く離れた場所にいる女友達から来た、直近の消息と心境を知らせる手紙みたいな効用がある。細かい事情はわからなくても、本を通して彼女の近況を気にしてきた読者は日本中にいるはずだ。

『青梅』(人々に衝撃を与えた25年前の詩集である)の頃からそうだった。『良いおっぱい悪いおっぱい』(出産・子育てエッセーの嚆矢〈こうし〉というべき22年前の本である)からは彼女の娘たちも遠くで気にする対象に加わった。

『とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起』は彼女の最新の「消息」である。〈父は老いて死にかけです。/母も死にかけて寝たきりです。/夫や王子様には、もう頼れません〉という状況の中で、夫のいるカリフォルニアの自宅と父母のいる熊本とを、ときには一番下の娘を連れて、ときにはひとりで行き来する。最初の章は「伊藤日本に帰り、絶体絶命に陥る事」。介護の必要な親と世話のかかる夫と自立する前の娘を、太平洋のあっちとこっちにかかえる彼女は、そりゃもう満身創痍(まんしんそうい)である。それで巣鴨のお地蔵様にちょっと頼ってみるのである。

〈母の苦、父の苦、夫の苦。/寂寥(せきりょう)、不安、もどかしさ。/わが身に降りかかる苦ですけれど、このごろ苦が苦じゃありません、降りかかった苦はネタになると思えばこそ、見つめることに忙しく、語ることに忙しく、語るうちに苦をわすれ、これこそ「とげ抜き」の、お地蔵様の御利益ではないか〉とか嘯(うそぶ)きつつ。

長篇(ちょうへん)詩だと本人はいっているけれど、詩なのかエッセーなのか小説なのかは、もはや判然としない。作中には古典だったり中原中也だったり宮沢賢治だったり、さまざまな文学の声が借用されて、それを読むのもまた楽しい。

詩人の「消息」が読者を引きつけるのは実用的な価値があるからだ。詩なのに実用的っておかしい? だけどほんとに効くんです。

性や出産や子の成長を描いてきた人が、50歳の坂にさしかかってぶつかる老いや病や死。四半世紀にわたる連続番組の重みがそこにある。【評 斎藤美奈子(文芸評論家)】

■2007/08/05, 朝日新聞 朝刊, 14ページ

近代による超克 上―戦間期日本の歴史・文化・共同体 (1)
近代による超克 上―戦間期日本の歴史・文化・共同体 (1)ハリー・ハルトゥーニアン 梅森 直之

岩波書店 2007-04
売り上げランキング : 13833


Amazonで詳しく見る
by G-Tools

近代による超克―戦間期日本の歴史・文化・共同体 (下)
近代による超克―戦間期日本の歴史・文化・共同体 (下)ハリー・ハルトゥーニアン

岩波書店 2007-06
売り上げランキング : 12595


Amazonで詳しく見る
by G-Tools

絡み合った多彩な思想の網の目描く

訳者もいうように、本書において展開される「戦間期日本の思想史」は、異国趣味的な関心から書かれた日本特殊論ではないし、またもっぱら日本人の専門的な思想史家を宛(あ)て名とした研究でもない。

「戦間期日本」という時空間で生み出された様々な言論と思想実践を、グローバルな経済的・政治的・文化的文脈に位置づけながら理解し、そうすることによって、(西洋的)近代を乗り越えようとする思想的試みが現れ出るプロセスの動態を浮かび上がらせていくこと。本書の試みは、まさしく「ポストモダンの思想史」と呼ばれるにふさわしい方法論的意識を内包している。

そうした方法論的意識を具体化するために著者がとっている戦略は、きわめて複雑なものとなっている。1942年の「近代の超克」座談会をはじめとして、村山知義、戸坂潤、権田保之助、和辻哲郎、九鬼周造、三木清、柳田国男、折口信夫などと実に多彩な人々の思想が俎上(そじょう)に載せられ、それらが網の目のように絡み合いながら、戦間期日本における「近代」「モダニズム」をめぐる思想空間を作り上げていく様子が詳細に描かれる。

だから本書は、戦間期日本における思想を時系列に沿ってマッピングした「列伝記」ではない。読者は、時間的に行きつ戻りつする込み入った議論を追尾することによって、複雑に絡み合った言論のネットワークのダイナミズムを――ときに同時代における国外の思想との照応関係を確認しつつ――体感することとなるだろう。すべて読み通した後に、(少々難解な)「序」における著者の問題意識が、遡及(そきゅう)的にじわじわと伝わってくる本である。

複雑な記述スタイルであるとはいえ、もちろん道標がないわけではない。様々な思想家たちが微妙な差異を伴いながら用いている「日常性」といったキーワードなどは、一つの手かがりとなるだろう。丁寧な訳者解説もある。このチャレンジングな思想史の試みが日本でどう受け止められるか、注目していくこととしたい。【評 北田暁大(東京大学准教授)】

■2007/08/05, 朝日新聞 朝刊, 14ページ

憲法9条の思想水脈
憲法9条の思想水脈山室 信一

朝日新聞社出版局 2007-06
売り上げランキング : 10130


Amazonで詳しく見る
by G-Tools

参院選での自民党大敗北のひそかな原因の一つが、憲法改正に性急な首相への不安では、と思えてならない。そんな改正論議の中心である憲法9条を支える平和思想の成り立ちを、丁寧に、丁寧に追っている。

戦争が古来、大きな災禍であった以上、洋の東西を問わず、不戦への道を説く思想は、長い歴史を持つ。一挙に国際政治の荒波に投げ出された明治以降の日本にも、東西の不戦思想の影響を受けた中江兆民ら多くの論者が現れる。特に、日清・日露の経験は、その願いを切実なものにした。

ただ、国内外を問わず、現実主義者から「夢想」と遠ざけられたのも確かだ。でも、その「夢想」が無駄であったともいえない。国際連盟、パリ不戦条約、そして国際連合とその夢の一部は形を変え実現してきた。9条の精神は、日本人を含む長い人類の英知の結晶であり、決して「押しつけ」うんぬんで片づけられるほどやわなものではない。

憲法草案に深くかかわった幣原喜重郎・元首相は、述べる。「戦争放棄は正義に基づく正しい道であって日本は今日この大旗を掲げて国際社会の原野を単独で進んで行くのである」。こんな言葉がまぶしすぎる時代は、少し悲しい。【評 四ノ原恒憲(編集委員)】

■2007/08/05, 朝日新聞 朝刊, 15ページ

14歳からの政治 2
14歳からの政治 2浅古 瑞紀/柳田 隆太/渡部 謙太郎

ゴマブックス 2007-07-13
売り上げランキング : 20412


Amazonで詳しく見る
by G-Tools

関心深め、考える手がかりに

先週の参院選で投票率こそ微増したものの、20代に限ってみれば相変わらず「投票する方が少数派」という深刻な状態にある。将来、選挙権が18歳に引き下げられたら、どれだけの若者が投票所に足を運ぶのかが、今から懸念される。

その最大の原因は、わが国で、子供に「政治」を教えることに及び腰で来たことにあるのではないだろうか。特に、子供の頃から政治の仕組みや政治への参加方法などを教える米国とは対照的である。

こうした状況を踏まえて、3人の中学生が財政や平和、少子化などについて、日頃、疑問に思っていることを、それぞれの担当責任者である大臣や知事が説明したのが、本書である。

それだけに中学生が読んでもわかりやすいようにまとめられており、将来の有権者が「政治」に関心をもち、「政治」に対する自分自身の考えをもつための手がかりとなる本である。

ただし、憲法9条の解釈などについては、別の説明も可能であるだけに、1人の政治家だけに語らせるのは無理がある。もっとテーマを絞り、中学生が複数の政治家に対する聞き手となって紙上ディベートにしてもよかったのではないか。【評 小林良彰(慶応大教授)】

■2007/08/05, 朝日新聞 朝刊, 15ページ

残留日本兵の真実―インドネシア独立戦争を戦った男たちの記録
残留日本兵の真実―インドネシア独立戦争を戦った男たちの記録林 英一

作品社 2007-06
売り上げランキング : 9889

おすすめ平均 star
star「日本兵」は「戦い続けた」のか?
star資料としての重要性
star若い世代に期待

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

1次資料を発掘して跡づけ

第2次世界大戦後にインドネシア独立戦争に参加した残留日本兵は、約千人に及んだという。本書は、インドネシア名をラフマットという残留日本兵小野盛が記した独立戦争期の第一次資料を発掘し、インドネシア独立の複雑な政治過程を丁寧に追いながら、彼が独立戦争に身を投じた過程を跡づけたものである。

著者は、残留日本兵の独立戦争への参加動機とされる、「アジア独立」をめざしてという理由づけは、むしろ後になって作られた説明であると推測している。ただし残留の動機は何であれ、元日本兵たちが軍人としての知識や経験を元手に、日本の国家や軍を離れた一個人として異国で生きようと決意したのは事実である。しかし自力で独立を勝ち取ったとするインドネシアのナショナリズムの論理は、独立に協力した元日本兵を「厄介者」に変えてしまう面があった。

本書は、一個人のアジアとの交流史という観点を強調しているが、小野の後半生を含め残留日本兵の人生は、高度経済成長期以降には、一度は捨てたはずの日本との関係に大きく規定されたようにも見える。なお著者は84年生まれであり、資料の博捜ぶりなどその早熟の才能に驚かされる。【評 赤澤史朗(立命館大教授)】

■2007/08/05, 朝日新聞 朝刊, 15ページ

宿澤広朗 運を支配した男
宿澤広朗 運を支配した男加藤 仁

講談社 2007-06-02
売り上げランキング : 182

おすすめ平均 star
star意志の強さ
star人間「宿沢広朗」
star努力は運を支配する

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

立木義浩撮影による秀逸な表紙のポートレート。だが、それは「遺影」なのだ。  宿澤広朗(しゅくざわひろあき)は昨年6月17日、心筋梗塞(しんきんこうそく)により急逝。享年55という早過ぎるラグビー界の至宝の死を多くの人が悼んだ。

本評伝の著者・加藤は47年生まれ。企業社会に生きた人々や老いをテーマにしたノンフィクション作品で定評がある。そうしたスポーツ専門ではない立場で銀行家(バンカー)としての軌跡に重心をおいて描いたところに、この本特有の妙味がある。宿澤はラグビー界の重職を長年務めながらも、最終的には三井住友銀行の専務執行役員。二足のわらじを履きこなした33年間の熾烈(しれつ)な日常が明らかになっていく。

加藤の本には、「突然の解任」と題された章があるが、永田洋光が宿澤を描いた『勝つことのみが善である』(ぴあ)では、そうならない。「いくら尻を叩(たた)いても変わらない(ラグビー協会の)サロン体質に業を煮やし、あるいは絶望して、自分から(理事を)やめたと考える方が自然」とあり、気になる。

いずれにせよ宿澤は、頭取や協会会長になる可能性のあった人物。加藤は「努力によって運を支配してきたが、達成寸前にして運に見放される」人生と、孤高のリーダーを哀惜する。【佐山一郎(作家)】

■2007/08/05, 朝日新聞 朝刊, 15ページ

すべての終わりの始まり
すべての終わりの始まりキャロル・エムシュウィラー 畔柳 和代

国書刊行会 2007-05
売り上げランキング : 1558

おすすめ平均 star
star国書刊行会の短編集ははずれがないですね

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

心地よく常識ゆさぶる破壊の力

半世紀ものキャリアを誇るアメリカ女性作家キャロル・エムシュウィラーは、すでに生ける伝説である。ジェイン・オースティンとともにフランツ・カフカを愛する彼女は、長短編問わず多数の傑作を書き継ぎ、ネビュラ賞やディック賞、世界幻想文学大賞など華麗な受賞歴を重ねてきた。必ずしも大向こう受けしそうもないその作風を称賛したのは、フェミニズムとSFの双方の視点より「他者(エイリアン)」の意義を知り尽くした、『ゲド戦記』で著名なアーシュラ・K・ル=グウィンや、その好敵手たる男装作家ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアといった猛者たちだった。

日本独自の編集になる本書が揃(そろ)えた19の短編も、雰囲気こそ奇妙とか不思議とか不条理と評されるかもしれないが、語り手の巧みな叙述から、他者そのものの驚くべき深みや多様性をえぐりだし、わたしたちの日常を塗り替えていく手つきは、まさに文学的名匠というしかない。

表題作では離婚歴のある女性が、地球強奪の第一歩として猫の大虐殺を企(たくら)む異星人と結んだ共犯関係を告白し、「見下ろせば」ではヘビと猫を丸呑(の)みする鳥が「聖なる〈三〉」を体現する神として語り、「おばあちゃん」では孫娘が、人命救助に命を賭け天候や環境まで変えてしまうスーパーウーマンの武勇伝を回想し、「育ての母」では養母が、言葉や歌を教え込み愛情深く育んだ人間ならざる「あの子」との別れを惜しみ、「ジョーンズ夫人」では独身姉妹が、ふとしたことから遺伝子工学の産物らしき異形の老人を迎え入れ、新たな家族像を構築していくさまが綴(つづ)られる。

だがいちばんスリリングなのはむしろ、ごくあたりまえの人間たちが扱われる時だろう。「セックスおよび/またはモリソン氏」の語り手は、そもそも男女という二つの性を自明と思うこと自体が間違っているのかもしれない、「私たちの中にきっと『ほかの者』がいるはずだ」と確信する。

わたしたちの常識を心地よくもゆさぶる、これは小さくても破壊力満点の贈り物だ。【評 巽孝之(慶応大学教授)】

■2007/08/05, 朝日新聞 朝刊, 15ページ

古代の風景へ
千田 稔 (著)

大和は国のまほろば。

奈良盆地の東端を桜井から天理へと続く山の辺の道は、歩く人々を不思議な懐かしさで包み込む。この独特な風景は、周辺一帯が「大和王権の誕生の地」であった歴史と無関係ではなかろう。

風景の原義は、《空気と光のたたずまい》にすぎない。眼(め)の前の山川草木に特定の立体感を与えるのは、その土地の歴史の残像だ。著者の視線が向かう先々で、風景から歴史が身を起こしてくる。

やがて日本国全体の異称になる「やまと」は、もともと大和の国の一郷の小地域名から発祥している。その場所はどこであったか。それを検証する第一章「周濠(しゅうごう)と聖水」では、地理に想像力の補助線を加え、三輪山と巻向山(まきむくやま)との間に新羅(しらぎ)系・出雲系両集団による権力争奪の対峙(たいじ)ラインを引く。従来の三輪王権論と一線を画して、この土地に卑弥呼の推戴(すいたい)に至る倭国大乱(わこくたいらん)の跡を仮想するのである。

風景に歴史を探るとは、自然地形に古代人の眼差(まなざ)しを注ぐことだ。「聖なる土地」だった飛鳥は、多武峰(とうのみね)を視界に入れることでその聖空間性がよみがえる。その秘密を解くヒントは近年発掘された亀形石造物にある、という見方がユニークだ。宮都構想の大本に、多武峰の神仙境を背に載せた亀がいるという道教思想の影響を見出(みいだ)すのである。

キトラ古墳の壁画をめぐる論も多くを教えてくれる。話題になった星宿図を高句麗起源とする説に従い、被葬者を百済(くだら)王家に連なる人物と「憶測」するのであるが、同時にそれを窓口にして、唐・新羅の連合軍と百済を支援する倭(やまと)との対立軸という「東アジアの地政学的な情勢」を読み取る視点が鋭い。

日本最古の都城とされる藤原京は、唐の長安をコピーして日常的な風景を直線で分断する「計画都市」だったが、周囲に香具山(かぐやま)・畝傍(うねび)・耳成(みみなし)の大和三山を配していた。

藤原京から平城京へ、さらに長岡京・平安京へとめまぐるしく移り変わった歴代宮都の遺跡は、「血で血を洗う政争」の残骸(ざんがい)だ。歴史は地理に宿る。古代の風景は眺める側の現在地を見返してくる。【評 野口武彦(文芸評論家)】

■2007/08/05, 朝日新聞 朝刊, 15ページ

獣の奏者 I 闘蛇編
獣の奏者 I 闘蛇編上橋 菜穂子

講談社 2006-11-21
売り上げランキング : 428

おすすめ平均 star
star完璧じゃない主人公
star久々にすごいファンタジーを読みました!!
starこの本は、凄い!

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

獣の奏者 II 王獣編
獣の奏者 II 王獣編上橋 菜穂子

講談社 2006-11-21
売り上げランキング : 434

おすすめ平均 star
star混沌の最中に終りになるのか
starもっと書き込んで欲しいというのは高望みか?
star鮮やかに描かれた物語の世界です

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

児童文学の世界では『精霊の守(も)り人』などの「守り人」シリーズで知られる人気作家。本書は「闘蛇(とうだ)編」「王獣(おうじゅう)編」の2巻で計11万部になる。

主人公は、人も馬も一瞬でかみ裂く「闘蛇」を世話する母に育てられ、獣に強くひかれる少女エリン。大きな翼を持った「王獣」の子と出会い、竪琴の音色で言葉を交わす。人には決してなつかない獣と気持ちを伝えあう、その特殊な能力が王の耳に入り、エリンは国の存亡を巡る争いに巻き込まれてゆく。

帯には「ファンタジー嫌いの人にこそ読んでほしい!」。従来のファンは20代の女性が中心だが、文芸評論家の北上次郎さんが「日刊ゲンダイ」で「年少読者だけに読ませておくのはもったいない」と絶賛、大人向けメディアでの書評が続く。ファンタジーが苦手な「おじさん」の心までつかんでいるようだ。

編集担当の長岡香織さんによると、子供の関心が獣など微視的であるのに対して、大人は「異世界ながら社会制度、政治、経済がしっかりくみたてられている」「相手と理解しあう難しさを描いている」と自分に引きつけて読んでいるという。国がなぜ生まれ、王はどこから来て、法や軍隊がどのように作られたのか、綿密な舞台設定で、人間は自然を操れるのかという壮大なテーマを突きつける。「あいまいな魔法や正義はありません。情報の多い現代社会では見えにくい大事なことが、異世界を通して浮き上がってきます」

「本の雑誌」では今年上半期ベスト1に選ばれた。長編だが、序章を「ちょい読み」すれば、2冊一気に読んでしまう。

■2007/08/05, 朝日新聞 朝刊, 16ページ

Edit

 
Copyright (C) 2004-2006 Ambitious Kanda, All Rights Reserved.