メイン > 朝日新聞日曜版『書評』 > 2007年7月22日~7月29日
| ロストジェネレーション―さまよう2000万人 | |
![]() | 朝日新聞「ロストジェネレーション」取材班 朝日新聞社出版局 2007-07-06 売り上げランキング : 195 おすすめ平均 ![]() この世代を理解したい、他の世代の人に。Amazonで詳しく見る by G-Tools |
ロストジェネレーション さまよう2000万人
本当に穀つぶし?氷河期世代に光
ロストジェネレーション。ヘミングウェイの長編小説「日はまた昇る」のエピグラフに掲げられた言葉だ。定訳は「失われた世代」だが、本書の取材班が「今、25歳から35歳にあたる約2000万人」に名づけたロストジェネレーションの意味は「さまよう世代」である。言葉の由来を辿(たど)れば翻訳家の高見浩氏が、「日はまた昇る」の解説(新潮文庫)で示しているように「自堕落な世代」とか「だめな世代」が正解かもしれない。しかし、本書の取材班は、若い芸術家にパリの自宅をサロンとして開放していた女性作家スタインから「だめな世代」のレッテルを張られたヘミングウェイよりも、そう言われて「くそくらえ」と反発しノーベル文学賞を受賞するまでに変身した「さまよう世代」のヘミングウェイに光を当てる。
一握りのIT長者を除けば、本書に登場するロストジェネレーションの生活は総じて貧しい。それは、彼ら/彼女らが社会に出た時代は「就職氷河期」と呼ばれ、新卒者にとっても正社員の道は極めて狭かったからだ。その結果、前後の世代と比較すると「さまよう世代」には、日雇いや派遣といった非正社員だけではなく、生活費を親の年金や生活保護に依存する者も少なくない。そんな世代を見る「大人たちの感想」は厳しく、その典型が石原慎太郎・東京都知事の「フリーターとかニートとか、何か気のきいた外国語使っているけどね、私にいわせりゃ穀(ごく)つぶしだ…… 働く場所がいっぱいあるのに、なぜ働かないんですか」という言葉に表れている。これに対し本書の取材班は、「本当なのだろうか」と疑問を呈し、「3カ月で16社の面接を受けたが、すべて落ちた」り、「さまざまな分野についての知識や経験を身につけることができます」との宣伝文句に惹(ひ)かれて人材サービス会社に登録しても、紹介される仕事は日替わりの派遣ばかりというフリーターやニートの実態を次々と明らかにする。
「人は生まれてくる時代を選ぶことはできない」。だから、運が悪かったとあきらめるのではなく、「穀つぶし」のレッテル張りには「くそくらえ」と反発し、新たな生き方に挑戦するべきだ。その一例が本書でも紹介されている社会的企業ではないか。「担い手の多くがロストジェネレーション」の「新しいタイプのカイシャ」では、利益最大化よりも「福祉や雇用、教育、貧困といった社会の難題」解決が目的だという。また、「群れたくない」と言って人との関係を避けてきた世代が、取り壊し寸前の店舗を「素人の乱」で再興し、東京の商店街の一角に生活必需品を相互に融通しながら「月収15万円以下で暮らせる場所を……作り上げてしまった」のも、突飛(とっぴ)だが、既成概念に対する挑戦だと思う。
豊富な取材によって「見えにくい存在だった」ロストジェネレーションを可視化した本書は、日本におけるロストジェネレーションの潜在力を見事に描き出している。2000万人という巨大な人口の塊が、個の殻を破り共鳴し始めたとき、日本の社会に新たな日が昇るに違いない。【評 高橋伸彰(立命館大学教授・日本経済論)】
現代世界の戦争と平和
栗原 優 (著)
今日の世界では、一方で侵略戦争を否定する国際法の観念が広まりながら、他方から見ると各地で戦乱は絶え間ない状態である。この矛盾する現象を、私たちは理想と現実の違いとして理解すべきなのだろうか? 本書はこれを、「先進国の平和」という概念で説明するものだ。
「先進国の平和」とは、先進国同士が戦争をせず、発展途上国から先進国に戦争を仕掛けることがない体制のことである。確かに第2次世界大戦後、発展途上国では戦争が多発するのに、先進国は自分から発展途上国に出兵した場合を除けば、平和なのだ。本書では、戦後日本が戦争に巻き込まれなかったのも、「先進国の平和」の一環をなしていたからだとしている。
欧米では戦争の統計研究が盛んで、本書もハンブルク大学の戦争原因研究会などの成果に学んだものだ。著者はここ200年の戦争の統計から、近現代の戦争の原因はヨーロッパでもアジア・アフリカでも、国民国家の形成と結びついている場合が多いのを割り出している。逆に国民国家が成熟した先進国では、領土的な争いやマイノリティーとの紛争が戦争という形を取らなくなり、戦争の原因が減少する傾向があるという。また先進国への戦争は、相手が小国でも、他の大国を巻き込む大戦争に発展する恐れがあり、それが抑止力として働いていると推測している。
ただし「先進国の平和」は真の平和主義に立脚するものではない。それは覇権主義を振りかざす先進国が、発展途上国に軍事介入する行動と表裏のものだという。それは戦争を敗戦のリスクの少ない対発展途上国への局地戦に限定しようとするものなのだ。
「先進国の平和」論には、シニカルなところがある。そこには平和実現の理想や人命尊重の価値観は、今日では豊かな先進国やその国民のエゴイズムと結びついた時にだけ実現するという理解があるからだ。著者は護憲派だが、憲法第9条を守ることがこうした世界の現実に一面で合致しているという、苦い現実認識に立脚した護憲派であるようだ。【評 赤澤史朗(立命館大学教授)】
| トランス・サイエンスの時代―科学技術と社会をつなぐ | |
![]() | 小林 傳司 エヌティティ出版 2007-06 売り上げランキング : 438 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
誰がどう「想定」し、責任を負うのか
本書を読んでいる最中に新潟県中越沖地震が起き、柏崎刈羽原発で火災、次いで微量の放射能漏れが報じられた。M6・8、震度6強という規模の地震は、設計の想定を超えていたそうであるから、原発の損傷はある意味では必然だったともいえる。
しかしこの「想定」とは、いったい誰の想定なのか。その「想定」の責任は誰が負うべきなのか。これらの問いがまさに本書のテーマである。
著者は言う。特定の状況を仮定したときに、どれくらいの確率でどのような帰結が生ずるかということについてならば、専門家の意見はおおむね一致する。しかしその特定の状況が起こる確率に対して、その帰結として生ずる事態への事前(および事後)の対処にかかる費用をどう評価するのかについては、専門家の意見の一致は崩れる。この設計ならこの震度までは耐えられるということについては、確実な判断ができるとしても、そもそもどのレベルの耐震性が社会的に要請されているのかの判断にまで、専門家に確実さの責任を負わせるには無理があるのだ。
著者が強調するのは、社会が科学技術をどのように受け入れるか、そのデザインを専門家まかせにしておける時代は終わったということである。逆にいえば、科学技術を受け入れる社会的な責任を、より広くかつ直接的に市民が共有すべきだということだ。
もちろん、専門家と非専門家のあいだの溝は掛け声だけでは埋まらない。なにか制度的な工夫が必要だ。本書はそのひとつとしてコンセンサス会議の手法を紹介している。公募で選ばれた市民パネルが、専門家との対話および市民パネル間の対話を通じて、技術の導入に関する意見をまとめ、行政に働きかける。それによって万人が合意する完璧(かんぺき)な「想定」が保証されるわけではないが、専門家は、非専門家との対話から、より社会的に適切な「想定」をなしうるし、非専門家もその「想定」についての責任を当事者として共有することになる。
「責任者」のつるし上げを繰り返すだけでは、問題は悪化の一途なのである。【評 山下範久(立命館大学准教授)】
| 中国の風刺漫画 | |
![]() | 陶 冶 白帝社 2007-06 売り上げランキング : 4643 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
いまや「漫画迷(オタク)」も登場、文化的岐路に
中国最大の漫画見本市「中国国際動漫産業博覧会」を視察した時、コスプレの最優秀チームを決める催しが、会場で人気を集めているのに驚いた。「動漫」とはアニメと漫画の総称である。漫画やアニメ、さらにはオタク文化までもが、国家主導で振興されている。だが、これまで中華人民共和国建国以降の「中国漫画」について、詳細に述べた書籍や研究は皆無であったという。本書は、その穴を埋める大切な仕事だ。
そもそも中国で初めて「漫画」という言葉が用いられたのは1923年。日本に留学し、竹久夢二の作風に影響を受けた豊子ガイ(ほうしがい)が帰国したのち、描き始めた風刺画を漫画と呼んだのが初見だという。
著者は、中国の漫画家たちが「政治性の考慮」と「表現の大衆化」という二つの法則を守ってきたと述べる。たとえば清朝末期の「反洋教漫画」や戦争期の「抗日漫画」など、49年までは風刺に重きを置きながらも列強の侵略や官僚統治者に対する批判が主だった。50年代には反米を訴える「国際風刺漫画」や新中国を賛美する「謳歌(おうか)漫画」が流布した。文化大革命の時代には「造反漫画」、76年以降は「四人組批判漫画」、80年代には開放改革を求める「傷痕漫画」が出まわる。
風刺漫画の変遷と、中国の人たちや国家が直面した辛苦と闘いの軌跡は、おのずと重なりあう。中国美術家協会漫画芸術委員会も「漫画は一種の風刺性、ユーモア性を備えている絵画である。……それは、政治闘争と思想闘争の一種の道具である」と定義する。中国漫画にかかわる人たちは、世にうごめく諸悪を暴露し、自由を獲得するために闘いを続けてきたのだ。
いっぽう近年では、中国の子供たちも日本産のストーリー漫画に夢中だ。若い世代には「漫画迷」、すなわちオタクも増えている。著者は、従来型の中国漫画への関心が薄れている現状に懸念を示す。闘争の道具である風刺漫画の伝統と、ストーリー漫画という表現手段が、今後いかに融合し、新たな創造につながるのか。中国における漫画文化は岐路にあるようだ。【評 橋爪紳也(大阪市立大学教授)】
ビッグイシュー突破する人びと―社会的企業としての挑戦
稗田 和博 (著)
ジョニー・デップやブラッド・ピットといったスターから、アンパンマン、ミッフィーに至るまで個性的な面々が表紙を飾る、一見フリーペーパーのような小雑誌。このちょっとおしゃれな感じの(しかし内容的には硬派な)小雑誌は、大阪や東京の街中でホームレスの販売員たちによって販売されている。定価は200円。売れれば110円が販売員の収入となる。ホームレスの自立支援を理念として創刊された『ビッグイシュー日本版』である。
本書は、この雑誌の立ち上げの事情や、販売のシステム、理念的背景、販売員や読者の『ビッグイシュー』との関(かか)わり方などを書きとめたドキュメンタリー。営利追求を前面に掲げた企業活動ではないが、収益を問わないボランティアでもない。2003年に立ち上げられたこのメディア・プロジェクトを、様々な角度から描き出している。
情報化の進展のもと、空間や人間関係のバーチャル化がいわれる今、あえて媒体やコミュニケーションの物質性を重視する『ビッグイシュー』。「自己責任」論とは異なる地平で「自立」のあり方を模索する方向性を含めて、そのプロジェクトから私たちが受け取るべき示唆は大きい。【評 北田暁大(東京大准教授)】
| オリエンタルズ―大衆文化のなかのアジア系アメリカ人 | |
![]() | ロバート G.リー 貴堂 嘉之 岩波書店 2007-06 売り上げランキング : 4910 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
オリエンタリズムと聞けば、かつてパレスチナ系知識人サイードが定義したとおり、西欧が東洋を支配しやすいよう捏造(ねつぞう)した紋切り型のイメージ群が思い浮かぶ。フジヤマ、ゲイシャ、ハラキリや、吊(つ)り目で弁髪、奇怪な衣装などなど。
さて本書のタイトルは、サイード理論を承(う)けながらも、西欧人にとってはとてつもない魅惑とともに恐怖をもかきたてる在米東洋人を指す。たんなる海外からの来客(フォーリン)ではなく、見過ごしにできないほどまとまった人数で北米に住み着くようになった「永住外国人」(エイリアン)の集団を、さて模範的な民主主義国家たるべきアメリカは、いったいどのように遇してきたのか――。
米国ブラウン大学で教鞭(きょうべん)を執る、自身が中国系アメリカ人の著者は、19世紀以来、20世紀末に至るまで、東洋系が白人支配階級にとって民族的かつ性的な脅威にもなりえてきた経緯を、ブレット・ハートからアンブローズ・ビアース、「散り行く花」から「ブレードランナー」「ライジング・サン」におよぶ多くの文学作品や映画作品を例に、克明に分析していく。ことはアメリカに限らず、現在世界全体の問題であることを実感させてくれる一冊だ。【評 巽孝之(慶応大教授)】
| 袖のボタン | |
![]() | 丸谷 才一 朝日新聞社出版局 2007-07-06 売り上げランキング : 821 おすすめ平均 ![]() 大洋に浮かぶ小舟の上で揺られているような心地にさせられるAmazonで詳しく見る by G-Tools |
人間世界の万象に知的好奇心を向けながら、それらをコラムという形にまとめあげた36篇(へん)の文明批評。
そこには天皇の「恋歌(こひか)」が何故(なぜ)いま姿を消したか、日本人とプロ野球の関(かか)わりなど、題材はすこぶる広い。
戦前の日本では、スポーツは教育と結びついていてプロは軽視されていた。この底には金銭への蔑視(べっし)や、蔑視するふりをする「いかがはしい精神主義」などがあったらしい。アメリカからもたらされたプロ野球が、打率や防御率、ゲーム差など数字によって明快で能率的な認識の方法を日本人に教えたという。「プロですから」という高々とした言いまわしに、アマチュアと峻別(しゅんべつ)した職業と技術の然(しか)るべき関係を日本人はアメリカから学んだと述べる。一つの文化論だ。
ふだんあまり気にもとめていなかった事柄に対する物の見方になるほどと小さく頷(うなず)かされる。論旨の道筋にも淀(よど)みがない。
そこには批判や憤慨だけではなく機知やユーモアもあり、こだわりもある。「批評」は多分に偏屈でなければ務まらない。それが今の時代こそ必要なのだ。
それに、この本の機知に富んだ題名と和田誠のイラストがピタリと合っているのが愉(たの)しい。【評 前川佐重郎(歌人)】
| 地方財政改革の政治経済学―相互扶助の精神を生かした制度設計 | |
![]() | 小西 砂千夫 有斐閣 2007-07 売り上げランキング : 1966 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
「市町村の充実」へ実現可能な提言
「地方自治」を英語では、Local Self‐Governmentと言い、直訳すれば「地方自己統治」という意味になる。しかし、日本の地方自治の実態は、およそ自己統治から遠く離れたものである。
そもそも日本では、地域のことは地域の自己決定と自己負担で行うという「自治の原則」と、同一負担で同一水準のサービスを享受する「均衡の原則」の二つの相矛盾する理念を抱えてきたことに、混乱の一因がある。
そして、ややもすれば後者に比重が置かれ、中央政府にいったん、税収を集めてから地方へ再配分するために、地方の歳入と歳出の均衡がとれず、中央政府にも過剰な財政負担がのしかかってきた。
本書は、機関委任事務を廃止した第1次地方分権や小泉内閣での三位一体改革を経て、安倍内閣における道州制論議に至る地方財政改革の本質を解きほぐし、今後のあるべき改革案を提示する。
具体的には、三位一体改革では、国庫補助負担金を削減して地方税へ移譲するとともに、地方自治体の歳出を圧縮して地方交付税を減額し、自治の原則の比重を高めようとした。だが、その結果、東京などの都市部では補助の削減分より増収分が多く、逆に地方では増収が少ない割には多くの補助が削られて疲弊したと著者は指摘する。
そして国税から地方税に移譲するだけでは都市と地方の税収格差が生まれてしまうため、地方の標準的行政サービスを保障するための国税の税源を増やしたり、個人住民税などの地方税の充実強化をはかることで、地方自治体の歳出の財源を満たすべきであると主張する。
また豊かな大都市と国、貧しい町村と国の間で事務負担の見直しを行い、場合によっては町村から国への権限「逆」移譲もあり得るとする。
著者の主張の背景にあるのは、市場原理至上主義に基づく地方財政改革を排し、相互補助の精神による地方財政全体のプライマリーバランスを図るというものである。従来の議論を丁寧に整理した上で、豊富で実現可能な提言を示した好著である。【評 小林良彰(慶應大学教授)】
| 猫風船 | |
![]() | 松山 巖 みすず書房 2007-06-16 売り上げランキング : 2027 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
真っ赤な、大きな舌が空中からベロリと垂れ下がり、下界に向かって「この世はみんな嘘(うそ)だよ」と警告する。
冒頭作「アカンベー」の第一行からいきなり出現するショッキングな光景である。
読者がふだん現実の世界だと思っている外界は、本当は誰かが操作している巨大なイメージ画面であり、その内いつか綻(ほころ)びが生じて、あられもなく剥(む)き出しの実景が露呈するのではないか。
本書に連作掌篇(しょうへん)小説の形で収められた四十一場の白昼夢は、どの一つをとっても、予知夢に特有の濃厚な臨場感に満たされている。
いつ行っても、初対面なのに顔なじみのような気がする老人と出会える「ホホエミ食堂」。病院で永遠に診察の順番が回ってこない「みんな待っている」。新築の家の壁に書き込まれた文字が、至る所で自己増殖してゆく「落書き」。告別式に列席した黒いスーツの人々の群れがビルの屋上からの飛び降り待ちの行列に加わる「烏(からす)たち」。
次のドアの向こうには何が待ち受けているのか。作者は特別な探知器に導かれるかのように、都市空間のあちこちに埋め込まれたハッチから現実そっくりの異界に降り立ち、先々で《魂のフィールドワーク》を繰り広げる。
住民も不思議になつかしい人々だ。「天使のくせに」にはデブで酒臭く、身体(からだ)が重すぎて空を飛べない天使が出てきて哀愁をそそる。団塊の天使がいるのだろうか。「泣き虫サンタ」には、夢でよく感じる原罪的な無限責任感が漂っていてやるせない。現在時は幻在時に居住まいを変え、迷路は歩いてゆけば冥路につながる。「新住民」では、何年も前に死んだ知り合いがにこやかに微笑(ほほえ)みかける。
そして極め付きは「とてもセクシー」で描かれるシオサイトの超高層ビル群。暑い。道路には熱帯植物が繁茂している。異常な高温でビルも通行人もクニャクニャに変形しているのに、誰一人それに気が付いていない。
この回廊に連なる親しげな異界風景は、幻想の産物ではなく、予知像の正確なスケッチなのではあるまいか。【評 野口武彦(文芸評論家)】
| ロバート・アルトマンわが映画、わが人生 | |
![]() | ロバート・アルトマン デヴィッド・トンプソン 川口 敦子 キネマ旬報 社 2007-06 売り上げランキング : 2094 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
独自の「群像劇」監督雄弁に語る
好きな映画といったら、ふつう作品ひとつひとつで決まる。だが、何の気なしに観(み)て夢中になった作品のいくつかが、たまたま同一の監督の手になるものとわかる体験が何度も続けば、偶然は偶然ではなくなる。そのとき初めて、自分の好きな監督の固有名が、神話的な輝きを帯び始める。こうした特権的地位を占める映画監督のひとりが、わたしにとってはロバート・アルトマンだった。
1925年、アメリカはミズーリ州カンザス・シティのドイツ系カトリック家庭に生まれ、反ハリウッド系インディーズの代表格となり、独自の「群像劇」で広く影響力をふるった男。
スー族酋長(しゅうちょう)シッティング・ブル、西部興行師バッファロー・ビルからリチャード・ニクソン大統領、それに画家ヴァン・ゴッホまで、歴史上の挫折者たちに何らかの犠牲者のすがたを洞察し共感し続けた男。
そして、ヴェトナム戦争の渦中に、とびきりのブラックユーモアを刷り込んだ戦争映画『M★A★S★H』(1970年)から30年代英国カントリーハウス殺人事件を扱った豪奢(ごうしゃ)なるミステリ映画『ゴスフォード・パーク』(2001年)まで、華麗な受賞歴を重ねるも、昨年2006年、遺作『今宵(こよい)、フィッツジェラルド劇場で』の発表を機会にようやく、最初にして最後のアカデミー賞(名誉賞)が授けられるに至った男。
本書は、いまもなおポール・アンダーソンら崇拝者が後を絶たない、映画監督のための映画監督その人が、自己の映像世界をあますところなく語った画期的メモワールである。
その「群像劇」の基本は、あたかも浜辺で「砂の城」を建てるがごとき、儚(はかな)くも美しい一瞬の夢をめざすものであり、それは具体的には、対位法やフーガを基礎にジャズ的即興演奏を展開していくのにも似た、いわば音楽的方法論で映像を再構築するものである。何しろ、初期の実験的作品『イメージズ』(1972年)で主演を依頼したスザンナ・ヨークが、妊娠を理由に出演を断ってきたときにも受けつけず、あっさり主演の役柄を妊婦に変えてしまったのだという。
こうした即興的解決は、文学と映画の折り合いをつけるさいにも発揮される。
たとえば、ハードボイルドの巨匠レイモンド・チャンドラーの名作を映像化した『ロング・グッドバイ』(1973年)で強調される「堕(お)ちた偶像」の背後には、グレアム・グリーン原作、オーソン・ウェルズ出演の『第三の男』が介在していたこと。たとえば、レイモンド・カーヴァーのミニマリズム文学全体を一個の物語体系と見なすという神業を発揮した『ショート・カッツ』では、原作には存在しないジャズ・シンガーのテスと、その娘でクラシック・チェリストのゾーエという母娘が活躍するが、そこにはカーヴァー夫人であったもうひとりの才能豊かな作家テス・ギャラガーが投影されていることなど――。
アルトマンの映画そのものが高度な文学批評になりえていたゆえんをも、本書は雄弁に語ってやまない。【評 巽孝之(慶応大学教授)】
| バン・マリーへの手紙 | |
![]() | 堀江 敏幸 岩波書店 2007-05 売り上げランキング : 1540 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
バン・マリーとは仏語で「湯煎(ゆせん)」「湯煎鍋」のこと。直火でがんがん熱するのではなく、湯を張った鍋を間に挟むことで、ゆるやかな温(ぬく)みをもたらす。著者はこれを自分の思考法に重ねあわせ、本や音楽をめぐる日々の発見や考察を湯煎にかけていく。前作の小説『河岸忘日抄』に結晶した揺蕩(たゆた)いためらうことの滋味は、こうして出てきたのかと感慨深く読んだ。
堀江氏の心は、やすやすと動くもの、きっぱりと線引きするものには寄り添わないようだ。例えば、室生犀星に宣伝文を頼んできた佃煮(つくだに)店主の話がある。犀星が「(看板を書く)ペンキ屋さんに頼んだら」と断ると、なるほど、そうします、とあっさり去っていく。氏が呆(あき)れるのは、大作家に対する不作法もさることながら、「AからBへと……利便性だけに釣られて平気でひとを横切っていく」さもしさなのである。
著者は「挟むひと」だ。挟む人はひたすら直線的に前進するのを拒む。中間地帯を好み、焼き芋の加熱法や、サンドイッチの懐の深さを愛し、仕事のメモはいったん本などに挟む(しばしば失〈な〉くす)。その精神は、コラージュや引用などにも繋(つな)がるという。「なぜか道ならぬ道へ逸(そ)れていく気持ちの流れを抑えることができない」という行(くだり)に、私は大いに共感した!
湯煎の力で、仏語の前置詞一つから世界史地図が広がる。倒れた老木の上に若木が育つ「倒木更新」という現象に、弱さゆえの強大な力が見えてくる。運河に独特の「暗さ」は「人工的なものが自然の一部になり了せようとする時」に出るエネルギーの暗さだという引用があるが、その水路は地図に記されず、何かを運ぶ可能性を「どんより浮かべて」いる。私はここを読んでハタと、堀江氏も手がける翻訳という仕事を思った。翻訳書というのはなにか宿命的な「暗さ」をまとうものだが、あれは日本語の一部になろうとする人工物の、運河の暗さだったのか。
と、本題から逸れた思いが湧(わ)きあがるのも、ゆるゆると頭をほぐしてくれる魅惑的な湯煎力のなせる技である。【評 鴻巣友季子(翻訳家)】
| 思考のエシックス―反・方法主義論 | |
![]() | 鷲田 清一 ナカニシヤ出版 2007-06 売り上げランキング : 722 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
難解でも癒やされる「哲学の言葉」
むずかしい本である。
この本を理解するために必要であるらしいフッサールの「現象学」ってなに?
というような私が読んでどうするの? という本である。
が、「分からない」本を読む面白さというものがある。
とくに著者が鷲田清一というのがいい。言葉と文体が好ましく、癒やされるのだ。
「思考の緻密(ちみつ)さは思考の器官がみずから磨くナイフとしての『方法』によって極められるものなのか」とか。「ナイフではなくて絨毯(じゅうたん)のような、目のつまった濃(こま)やかなまなざしというものがあるのではないか」とか。意味はよく分からなくても、ウーム、しびれる。
また、「人間をただ人間として愛するということは、はたして可能なのであろうか」とあれば、思わず本を閉じ、「だったらヒューマニズムってなに?」と、私の思いを浮遊させていったり、「自由とは?」「国家とは?」と、深夜に、ひとり、女がキッチンで頬杖(ほおづえ)をついて、物想(ものおも)いにふけったり。そんなかけがえのない時間を持つことができる。
ただ、むずかしい本を読むには、著者への信頼が不可欠だ。世間には内容の不備を隠蔽(いんぺい)するための難解さもあり、むずかしい、というだけで尊重してしまう向きもある。
その点、本書は保証付き。著者には、『「聴く」ことの力』という名著があり、母の介護で心身が弱り果てていた頃、その本によって救済されたという深い体験がある。
鷲田清一は、フツウの人の生きる現場を支える「哲学の言葉」の持ち主なのである。
そして、この本はその「臨床哲学」という領域を提唱する著者の立ち位置を知るためにも必要な論文集だ。
それにしても、哲学の専門家であるということは、なんと困難なことか。カントとか、スピノザとか、哲学史上のさまざまな著名な学者たちの言説を批評的に読み解かねばならない。
そのためにどれほどの「知力」が求められるのだろう。そう思うと眩暈(めまい)を覚える。
「分からなくっていい」を前提として本を楽しめる気楽さは、読者の特権である。【評 久田恵(ノンフィクション作家)】
| いい子は家で | |
![]() | 青木 淳悟 新潮社 2007-05 売り上げランキング : 1025 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
一昨年、初の小説集『四十日と四十夜のメルヘン』(新潮社)で「すげえ新人が登場した!」と読書界を震撼(しんかん)(または当惑)させた青木淳悟の第2作品集はとびきりヘンテコリンな家族小説だった。
今般の文学界は家族の小説ばやりで、反目したり和解したりとみな大忙しだ。それに比べたら『いい子は家で』の一家は平和である。だけど小説はヘンなの、カフカ的に。
息子の靴の臭(にお)いをやたらと気にして洗わせろと迫る母。仕事を辞めて家に舞い戻ってきたとたん、ゲームに没入して話が通じなくなる兄。定年退職して家にいる父との会話はギクシャクして慣れないコントみたいになり、しかも視点人物であるこの家の次男は〈想像力が豊かというのか、ただ空想癖が強いだけか、彼はたまに目に見えないものを見てしまうことがあ〉る。
ゲーム機のコントローラーを握る兄の腕はセラミックの筒になり、喫煙者である父の耳からは得体(えたい)の知れないものが噴き出し、空腹のあまりバターに手を出した彼は〈両手をついて床の上のバターを顔に寄せる。においを嗅(か)ぎ、表面を舌で舐(な)め、それからにむり、にむり、噛(か)んで食べた。/ふと顔を上げ、手の甲で頬(ほお)をこすると、やっぱり。彼は自分の手を舌で舐(な)めてきれいにした〉。うわっ、人間がネコに変身しちゃってる!
この小説を支配しているのは、理性ではなく感情でもない、感覚だ。大脳の辺縁系っていうんですか、ものを考えたり知識をためたりするんじゃなく、動物なんかとも共通する原始の脳。その脳で日常生活をおくり、家族の姿を眺めたらこんな感じかも、と思わせるところがある。
次男の目で〈一軒ごとに一名ずつの男性が屋根にしがみついているように見える〉とも記される家族。〈仮に「父なるもの」が屋根の上に置かれているとしたら「母なるもの」はきっと家の中にあるのだろう〉。同時収録の「ふるさと以外のことは知らない」では同じ状況が別の視点で綴(つづ)られる。1回目は困惑、2度目で少し納得、3度目にはたまらなくおかしい。2LDKは異次元への扉なのだ。【評 斎藤美奈子(文芸評論家)】
| 娘と映画をみて話す民族問題ってなに? | |
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あやふやな区別、政治が決定
世界で起きている紛争やテロの背景には、必ずといってよいほど「宗教」か「民族」がかかわっている。しかし、日本にいるとこれらの問題には疎くなってしまう。
本書は、「むずかしい」のひとことで片づけられがちな民族の問題を、「ホテル・ルワンダ」「ライフ・イズ・ミラクル」などよく知られた映画を題材にして解説した格好の入門書だ。ヨーロッパによる異民族“発見”の歴史、民族と国民の違い、移民や多文化主義が抱える問題点などこの分野を理解する上で欠かせない基本的な知識が、父親が娘に語るというスタイルでわかりやすく語られる。
本書を貫いているのは、「区別は常にあやふやなもので、それを決定づけるのはいつも政治」という考え方と、そこで区別され、排斥されてきた先住民族などの少数者側に立とうとする著者の姿勢だ。よく民族問題は「血の問題」だから解決は不可能、という人もいるが、そういう人には著者の次の言葉を贈りたい。「民族と民族の出会いは、いつもヨーロッパの側から一方的に不平等な関係の中で記録され、意味が与えられていった」。こんなことを娘に言える父親は、実際にはあまりいないだろうが。【評 香山リカ(精神科医)】
| 格差社会ニッポンで働くということ―雇用と労働のゆくえをみつめて | |
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格差を肯定する人は、勝者が高い報酬を得るのは当然であり、敗者には再挑戦の機会を与えればよいという。これに対し労働の光と陰を研究者の立場から見つづけてきた著者は、格差が拡大するなかで敗者を駆り立てるのは、勝者への憧(あこが)れではなく今の生活「から脱出しなければ……という切実な思い」であり、「ちゃんと生活できる」なら「大切なものを犠牲に」してまで「再チャレンジなどしたくないと考えるのがふつうでしょう」と反論する。
非正規労働者の増加についても、「IT革命によって高度な労働と単純な労働が分化し」たからという説明は安易すぎると批判する。実際、「半日ほどの訓練でできる」単純労働でも「責任は求められ」る。データの入力作業では「桁(けた)を間違えることは許されないし」、製品検査でも不良品を見過ごすことはできない。精神的な疲労に苛(さいな)まれる点ではどの仕事も同じなのだ。
働く者の権利を行使して、経営者に雇用条件の見直しを要求するのは労働組合の責務である。その意味で、企業や政府だけではなく、正社員中心の組合にも責任があるという著者の指摘は、現在の日本における格差問題の本質を突いていると言えよう。【評 高橋伸彰(立命館大教授)】
| ロックデイズ 1964-1974 | |
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70年代の初頭だったか。「ロックを通じてでも、革命的に世界を変えられるんじゃないか」などと、結構まじめに論議した時代のことを、思い出してしまった。ベトナム反戦から、ヒッピーなど様々な反体制的な動きと若者文化に密接にかかわりながら、ロックが一挙に時代の音楽となった季節があった。そんな64年から74年までの、アメリカでの現場の雰囲気とミュージシャンの肉声が、この本からは聞こえてくる。
筆者は、「ローリングストーン」誌の創刊編集者、元「ニューズウィーク」誌記者。その他数多くのメディアに音楽の記事を寄稿してきた。今回、収録されたのは、その原型となったリポートだけに、完成した記事では削り落とされた筆者の生の多くの言葉が、かえって現場での臨場感を読むものに伝える。
文章に登場するのは、ビートルズ、ストーンズ、ジャニス・ジョプリン、B・B・キング、ボブ・ディラン、オーティス・レディング、フー、ジミ・ヘンドリックス、ラビ・シャンカール、ジム・モリソン……。
すでに、世を去った人も多い。往時茫々(ぼうぼう)。貴重な資料であると共に、ある年代の読者には感慨を、若い読者には「知識」をプレゼントしてくれるだろう。【評 四ノ原恒憲(編集委員)】
| 未完の建築家フランク・ロイド・ライト | |
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最高傑作は「生涯そのもの」
落水荘、帝国ホテル、グッゲンハイム美術館……。数々の名作で知られ、日本にも作品の残る米国人建築家の評伝である。建築家には作品を創作した人生と、実際に生きた等身大の人生がある。その双方に目を配り、少年時代から最期までを一気に読ませる。
それにしても、これほどまでに型破りで豪胆不敵、かつ魅力的な人物も珍しい。奔放に恋に落ち、支払い不履行は常習犯、度を超した衝動買いを反省することもない。経済的にも倫理的にも問題だらけ、言動には常に矛盾が見え隠れする。いっぽうで3度も住居を焼失、恋人と彼女の子供たちを使用人に惨殺されるなど、不運な出来事に遭うことも稀(まれ)ではなかった。しかし挫折のたびに、見事に人生を立て直した。
建築家は巨匠の名に安住することはなく、作風は晩年まで変貌(へんぼう)し続けた。完結や完璧(かんぺき)を求めず、あえて異端であり続けようとする姿勢は、日々の暮らしも同様であった。
建築家の最高傑作は、芝居がかった生涯そのものであった。その生き様と死に様に、誰もが驚き、笑い、感動し、呆(あき)れかえり、元気をもらう。建築に関心のない読者も、人物像に魅了されるはずだ。【評 橋爪紳也(大阪市立大教授)】
| ドーダの近代史 | |
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書名のドーダは、漫画家の東海林さだお起原で、「ドーダ、マイッタか」という究極の自慢のフレーズの由。本書にサブタイトルを付けるなら《近代史を動かした自己愛の研究》とでもなろうか。
幕末から昭和の二・二六事件までの歴史人物が大勢登場するが、事実上、前半は西郷隆盛論、後半は中江兆民論をなしていて、その合わせ技が本書の妙といえる。
ドーダは「自己愛に源を発するすべての表現行為」であり、さらに「陽ドーダ」対「陰ドーダ」、「外ドーダ」対「内ドーダ」というサブ・ジャンルに分類される。
西郷隆盛の謎もこれで解ける(!)。討幕運動の中心で活躍していた西郷が、幕府瓦解(がかい)と同時に精気を失い、西南戦争で暴発するまで長い抑鬱(よくうつ)状態にあったのはなぜか。著者にいわせれば、ドーダのベクトルが陽から陰に転じたからに他ならない。今も変わらぬ西郷人気の秘密も、「自己愛を否定してみせる」のがいちばん強力な「陰ドーダ」だからであるとされる。
明治日本で「東洋のルソー」といわれた中江兆民は、「外ドーダ」の典型として語られる。別名を「お手本ドーダ」というそうだ。権威ある外国の思想家に憑依(ひょうい)されてオピニオン・リーダーになるタイプである。フランス留学時の楽屋話も面白いが、論のポイントは、自由民権を鼓吹した兆民さえもが、西南戦争勃発(ぼっぱつ)の直前、「内ドーダ」の西郷隆盛を担ぎ出してクーデターを起こそうと考えていたというエピソードであろう。
著者の主張では、近代日本の病根は西郷崇拝に象徴される「禁欲の超人」の礼賛にある。現実にはありえない理想的人格に照らして、才能ある政治家・軍人は「君側の奸(かん)」として葬られ、破滅的な戦争に突っ込んでゆくという近代史の構図が提出される。
ドーダというと語感は軽いが、その言葉を使うことで何かが明瞭(めいりょう)に見えてくる《用語視野》が開けているのは間違いない。独創的なるが故に独断的な物言いは、ドーダ人間が本質的に「愛情乞食(こじき)、称賛乞食なのである」という一語で免罪されている。【評 野口武彦(文芸評論家)】
| ホメイニ師の賓客 上―イラン米大使館占拠事件と果てなき相克 (1) | |
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反米の潮流の原型となったギャップ
28年前、イラン革命の真っ最中に発生したテヘランでの米大使館占拠事件。その後現在まで続くイラン・米関係の決定的対立の原因であり、イラン革命がイスラーム色を強める契機となった、歴史的事件である。
その全容を、人質となった大使館員の視点から描いた本書を読むと、占拠に至るまでの米政権の無防備さ、読みの甘さにまず、驚く。大事には至らないだろうと思っているうちに、あれよあれよとイラン人学生たちが大使館に侵入する様。慌てて重要書類を端から廃棄する館員たち。なによりも、革命でイランから逃亡した国王をすんなり受け入れた当時のカーター政権の問題が、指摘される。この時まで米国はまだ、イラン新政権からそこまで反発されるとは思っておらず、イラン革命を歓迎すらしていた。
そして極めつきは、ずさんな人質救出作戦だ。米軍が送り込んだ救出部隊の航空機はイラン中央部の砂漠で砂嵐に遭い、戦いもせず炎上した。今の米国の、イラクでの立ち往生ぶりを彷彿(ほうふつ)とさせる。
本書は、15カ月近くもの間人質となった米大使館員へのインタビューに基づいた再現ドラマとして構成される。特に印象的なのは、「見張り」の学生たちとのやりとりから見えてくる、米・イラン間の認識のギャップだ。学生たちはひたすら、米国がイランに対して行ってきた陰謀と工作を暴こうとする。館員たちは、それをイラン人の根拠のない思い込みと考え、何で自分たちがこんな目に、と反発する。
このギャップは、その後埋まるどころか中東全域に広がり、反米の一大潮流を作り上げている。米国が中東をほしいままにしている、と反感を募らせる中東の人々に対して、その米国の出先機関の多くは、中東にほとんど関心もなく、深く食い込んでいるという自覚もない。相変わらず米国は、「発展途上国の敵意に慣れっこ」なままだ。ここに9・11やイラクでの反米の高まりの原型がある。
作者は、映画「ブラックホーク・ダウン」の原作者。本書も迫力ある映画になりそうだ。【評 酒井啓子(東京外国語大学教授)】





















