メイン > 朝日新聞日曜版『書評』 > 2007年3月4日~3月11日
| ハリウッド100年のアラブ―魔法のランプからテロリストまで | |
![]() | 村上 由見子 朝日新聞社出版局 2007-02 売り上げランキング : 2966 おすすめ平均 ![]() ハリウッド 100年のアラブ 驚愕の書!Amazonで詳しく見る by G-Tools |
ハリウッド100年のアラブ 魔法のランプからテロリストまで
映画は、実は苦手だ。
話の筋や音響に加えて、絶大なインパクトの大画面映像で鑑賞する者に迫る。それが圧倒的すぎて五感を征服されるようで、どうも居心地が悪い。文章や音だけのほうが、想像力を働かせる余地があって、好きだ。
その苦手感、本書を読んで腑(ふ)に落ちた。映画では「悪者」と「正義の味方」の区別が、ただの人物描写によってではなく、肌の色や顔つき、行動様式で固定されるのだ。「悪者」は、映画を作る者が「怪しい」と感じるイメージを体現して登場する。褐色の肌で白い布を体に巻きつけ、一斉に尻を突き出した格好でお祈りをする、というような。
本書は、アラブやイスラム教徒がハリウッド映画でいかに「悪者」イメージを付与されてきたか、を概説したものだ。このテーマは欧米ではすでに多く取り上げられていて、9・11の直後には「Reel Bad Arabs」という大著(「映画の悪役アラブ」と「マジで悪いアラブ」の掛詞<かけことば>)が出版され、話題となった。見た目が「アラブ」っぽい住民が嫌がらせを受けるという、当時の米国社会の風潮に対するアラブ知識人の懸念が反映される。
中東がらみのハリウッド映画で最初に登場するのが、聖書ものだ。面白いのは、シバの女王にせよ天地創造に登場するエジプトの女性たちにせよ、たいがいユダヤ/キリスト教世界の正しい男たちをたぶらかす、毒婦として描かれていることだ。毒婦ナンバーワンのサロメはユダヤの王、ヘロデの義理の娘だが、ベリーダンスにスケスケの服と、欧米がアラブに持つ退廃イメージで登場する。
その一方で、アラブ男に略奪、陵辱されつつ惹(ひ)かれる白人女性、というステレオタイプも登場する。韓流ブームを彷彿(ほうふつ)とさせるルドルフ・ヴァレンティノへの熱狂は、「アラブに惹かれるおバカなオンナ」の象徴か。
こうしたオリエンタリズム的アラブ像は、ユダヤ人問題が絡んで一層、「悪役」度が高まる。アクション物、スパイ物でアラブがテロリスト視されることは、冷戦終結や9・11に始まったことではない。ヒーローは、当然のように欧米から現れて、大団円を迎える。
映画の怖さは、ここにある。活字だけで「正義」が語られるとき、読者はその正義を語る主語を読み替えたり疑ったりできるが、五感総動員で主人公に正義を語られると、批判的に読み替える余地もなく、圧倒的な悪のイメージが視覚的に確立してしまう。
「この世界のリアルとみなしたいものを映画の中に見出(みいだ)そうとする」と筆者は言うが、今のアメリカの政治自体が、ブッシュの見たい現実を実現する場だ。本書の映画解説の多くは、ブッシュ政権の対中東政策で見られるアラブ観との対比、相似性を念頭に置きながら、論じられている。
ところで、本書とは関係ないが、石原裕次郎主演の「アラブの嵐」という邦画がある、と友人が教えてくれた。アラブの反植民地運動に主人公が巻き込まれる。昔の邦画に、ハリウッド的オリエンタリズムから自由な視線があったというのが、おもしろい。【評 酒井啓子(東京外国語大学教授・中東現代政治)】
| ひとり日和 | |
![]() | 青山 七恵 河出書房新社 2007-02-16 売り上げランキング : 435 おすすめ平均 ![]() 絶妙な距離 おっさんは読むべし! おもしろかったですAmazonで詳しく見る by G-Tools |
今期芥川賞受賞作である。いろんな感想を私も聞きました。「絶賛されていたけど、どこがいいわけ?」「女の子の自立の物語なんだろうけどなんか薄味」。そして若い女性作家に必ずついて回る「こんなのは文学ではない」。
それはねえ、あなたの文学観が古いわけ。芥川賞選考委員の発想も古いけどね。小説の読み方にはいろんな角度があるわけで、たとえば鉄道と駅を軸に『ひとり日和』を読んでごらんよ。ちょっと違った景色が見えてくるから。
春、20歳の「わたし」は50歳も年上の吟子さんの家で居候をはじめた。家は細い道を一本挟んで私鉄の駅に隣接している。こっちからは電車が見え、ホームの端からは家が見える。このおもしろい場所が物語の舞台である。
夏、「わたし」は同じ私鉄の笹塚駅で、朝だけ売店の売り子のバイトをはじめた。そして同じ駅で働く藤田くんに恋をした。彼は朝のラッシュ時、向かいのホームの電車に人を押し込む整理員のバイトをしているのである。ふたりは親しくなるが、秋、ふたりの恋には暗雲が……。
鉄道を人生にたとえれば、なんて野暮(やぼ)な見立てはしないでおくけれど、駅の風景は登場人物たちにも重なる。
〈吟子さんは縁側に立ったまま、駅のホームを眺めている。/「さっきのおじいちゃん、帰ったの?」/「今から帰る。来たよ」/吟子さんは手を振った。ホームからは、あの老人が手を振っている〉
これが吟子さんなら、若い「わたし」はまだ笹塚駅のホームでうろうろしている。
〈「ときどき、電車に乗ってる人がすごくうらやましく感じるんだ、電車に乗ってどっかに行く用があるってことに。あたし、笹塚駅くらいしか行くとこないからさ」〉
ここを踏まえると、彼女が就職して別の私鉄沿線に引っ越すのも、吟子さんの家を車窓から眺めるラストシーンもすばらしく効いてくる。
ところで私の友人は「吟子さんの家の駅が特定できた」といっていた。東京の私鉄、京王線の急行も止まらぬ小さな駅だ。駅名は内緒(ないしょ)。吟子さんが驚くといけないからね。【評 斎藤美奈子(文芸評論家)】
| どくとるマンボウ回想記 | |
![]() | 北 杜夫 日本経済新聞出版社 2007-01 売り上げランキング : 468 おすすめ平均 ![]() ただの「マンボウ」ではなく「どくとるマンボウ」という題名で出版されたということは…。Amazonで詳しく見る by G-Tools |
躁ウツ病のどくとるマンボウがいて、ウソつきの狐狸庵(こりあん)先生がいた。とちりの虫の安岡章太郎氏がいて、ダンディーな吉行淳之介氏がいて、怒りっぽい阿川弘之氏がいた。どこに? 一九七〇年代半ばの中学生や高校生の書棚に、である。
あの頃は、作家がさかんにエッセー集を刊行していたせいか、オジサンの作家と若い読者との距離がいまよりずっと近かった(と、同時代の実感として思う)。肝心の小説は読んでいないくせに、マセた中高生が「安岡サンって面白いぜ」「吉行サンの『腿膝(ももひざ)三年、尻八年』ってすごいよな」とおしゃべりする、そんな時代が確かにあったのだ。
なかでも名コンビといえば、やはり、どくとるマンボウ・北杜夫氏と狐狸庵先生こと遠藤周作氏――『楡家(にれけ)の人びと』も『沈黙』も読んでいない中高生に「愛読者」を名乗られるのは、両氏には不本意な話だったかもしれない。それでも、僕はユーモアあふれる両氏のエッセーが大好きだった。お二人の丁々発止の対談が大好きだった。「僕たちは」と広げても、そうそう、と許してくれる同世代は数多いのではないだろうか。
狐狸庵エッセーは、もう新作を読むことは叶(かな)わない。しかし、マンボウ氏は健在――それがなによりうれしい。
題名どおりマンボウ氏が来し方を振り返って綴(つづ)った本書、亡くなった友人知己を偲(しの)ぶ文章には、さすがに寂しさは隠せない。ことに軽井沢での遠藤周作氏との思い出(ここでピンと来たひとは『狐狸庵VSマンボウ』の読者のはずです)をたどり、〈楽しかっただけに、寂しさもひとしおである〉と締めくくるくだりには、読み手もまた胸を締めつけられてしまう。
だが、その一方で、老いの日々と家族を綴る章では〈坐(すわ)りきり老人〉の飄々(ひょうひょう)としたユーモアが読者の心をやわらかく包んでくれる。気力がない、と妻に叱(しか)られ、娘に叱られ、マカオのカジノに連れて行かれて〈頼むからあとは静かに死なせてくれと願うだけである〉……。このおトボケのぼやき節こそが、僕らの愛するマンボウなのである。【評 重松清(作家)】
| 帝国のはざまで―朝鮮近代とナショナリズム | |
![]() | アンドレ・シュミット 糟谷 憲一 名古屋大学出版会 2007-01 売り上げランキング : 19635 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
日清戦後に芽生えていた「近代国家」
韓国や北朝鮮は、ナショナリズムの強い国だという印象がある。そしてそれが「反日」的であるのは、日本の植民地化への民族的な抵抗の中で形成されたためだと理解されているように思う。
しかし本書はこうした近代朝鮮のナショナリズム形成についての理解を、それが生み出された時点に立ち返って、修正するものである。近代朝鮮の民族主義を生み出す決定的なきっかけになったのは、日本の植民地化が始まる以前に、資本主義世界体制への編入を迫る西欧の衝撃であったというのが、ここでの説明である。
そのナショナリズムを作り出した媒体は、日清戦争後の1895年から、次々とソウルの知識人によって創刊された新聞だった。それらの新聞に見られた「文明国」に追いつこうとする知識人の民族主義の論理が、第2次世界大戦後の韓国・北朝鮮のナショナリズムの原型になったというのである。
著者はカナダのトロント大学の教授で、本書は主に日清戦後から1910年の韓国併合までの時期の、漢文やハングルで書かれた新聞・雑誌や教科書を丹念に追いかけたものである。著者にはこの期間が、朝鮮にとって自前で近代国家を形成しようとした時代であったという認識があるように思う。その動きは、これまで世界の中心と思われていた中国が、周辺の「非文明」国に過ぎなかったという世界認識の変化と結びついていた。そしてその近代国家形成は日露戦争以後、「文明化」の論理を振りかざした日本の国家によって挫折させられ、そこに国家によらない、民族「精神」を強調した民族主義が生成していくのである。
本書の理解に立つと、韓国・北朝鮮のナショナリズムも近代日本のそれと一部で共通性を持ち、その違いは比較可能なものとして認識できるように見える。韓国や北朝鮮のナショナリズムは、それらの国の大衆の論理としてある。これと向き合うことなしに、私たちは隣人と親しくはなれない。隣国のナショナリズムを、東アジア規模で客観的に位置づける試みといえよう。【評 赤澤史朗(立命館大学教授)】
| 東京アンダーナイト―“夜の昭和史”ニューラテンクォーター・ストーリー | |
![]() | 山本 信太郎 廣済堂出版 2007-02 売り上げランキング : 573 おすすめ平均 ![]() 関連人物相関図が面白い これはまさに昭和の裏面史だ! 傑作ノンフィクションに拍手!Amazonで詳しく見る by G-Tools |
夜の世界には疎い私でも、ニューラテンクォーターは知っている。昭和の時代に東京・赤坂で栄華を極めたナイトクラブの名前である。いまだ見ぬこの妖(あや)しくもエネルギッシュな“おとなの世界”で力道山が刺されて死去した、というニュースは、幼児の私にも強烈な印象を残した。
「昭和の華やぎの象徴」と「惨劇の舞台」というふたつの顔を持つニューラテンクォーター。このクラブの数奇な歴史が立ち上げから閉店までを見守った経営者によってつづられた本書が、面白くないわけはない。しかも著者は、力道山が暴力団の男性にナイフで刺されるその瞬間のほぼ唯一の目撃者だ。トイレから出てきた力道山が鉢合わせした男の胸を突き、組み合ったふたりが離れたとき、男の手にはナイフが光っていたという。四十年以上前の一夜が、高度成長まっただ中の日本の風景とともに鮮やかによみがえる。
ショーのために来日した大物ミュージシャン列伝の章も興味深いのだが、児玉誉士夫や横井英樹との関係がつづられたダークな部分もまた、この店と日本の否定しがたい一面。それにしても、この店に心血を注ぎ、いま「さらば昭和」と決別しようとする著者の潔さよ。【評 香山リカ(精神科医)】
| トンボとエダマメ論―何が夢をかなえるのか | |
![]() | 猪口 孝 西村書店 2007-02 売り上げランキング : 3216 おすすめ平均 ![]() 指令。エダマメで、トンボをロックオンせよ。 高名な政治学者の自伝的人生論Amazonで詳しく見る by G-Tools |
奇妙な題名だが、「トンボ」は、著者の子供時代の趣味であったトンボ採りに由来する。本当にやりたいことを続けていれば、いつか芽が出ると、夢を持つことの大切さが説かれる。
「エダマメ」は、すき間産業として手がけたエダマメ栽培で成功した人が故郷・新潟県にいることとの関連で、人がやらないことを見つけて進む戦略性が重要であると主張される。
著者は、東大教授や国連大学上級副学長を歴任した国際政治学者である。本書は、著者が中学1年のときに半年で6回もの大手術を受けるなどの困難に出あいながらもじたばたせず、運に身を任せたり、学問の道に入った後も他人と違うこと(国際政治学)を違うやり方(計量分析)をすることで周囲と差を付けたりしてきた体験を豊富なエピソードを交えて振り返ったものである。
執筆の動機には、深刻ないじめ問題に何か手を差し伸べたいとの思いもあるようである。うまく行かないことがあっても、決して自分を責めず、好きなことや得意なことを情熱をもってあきらめずにやり続けることが成功の秘訣(ひけつ)であるとの言葉は子供たちだけでなく、受験生やまもなく定年退職を迎える団塊世代へのエールのように思える。【評 小林良彰(慶応大学教授)】
| 数学する遺伝子―あなたが数を使いこなし、論理的に考えられるわけ | |
![]() | キース・デブリン 山下 篤子 早川書房 2007-01 売り上げランキング : 1642 おすすめ平均 ![]() すべての数学嫌いへAmazonで詳しく見る by G-Tools |
この世に「数学の遺伝子」なるものはないという言明から本書は始まる。ヒトは言語能力を獲得したときに数学をする能力も獲得した。数学の能力は、言語を生み出した心的能力の新たな用途にすぎないという。つまり書名にある「遺伝子」とは、誰もが生まれつき持っている「能力」のことを指す比喩(ひゆ)的表現なのである。
それにしてもなぜ、言語能力と数学が関係するのか。私たちは、目の前にない何かや誰かについての、さまざまな情報をやりとりする。いわば“噂(うわさ)話”。これが言語の主たる用途である。
数学研究もまた“噂話”であると著者は語る。自然界のパターンや抽象的な存在の属性や相互の関係、すなわち目の前にないものを扱うからだ。数学者がちょっと特殊なのは円周率πの物語に心ときめかせ、さまざまな数やパターンとの関係性が心に浮かぶ人という点なのだとか。
数学者にして言語学者でもある著者は、数学の勉強は思考のプロセスを身につけるための教養科目であるとも主張する。国語だけでなく、数学の基本的な能力は誰もが身につけるべきだとも。数学能力の起源から数学リテラシーの必要性までをも明快に語った刺激的な本である。【評 渡辺政隆(サイエンスライター)】
| 氷結の森 | |
![]() | 熊谷 達也 集英社 2007-01 売り上げランキング : 1756 おすすめ平均 ![]() むしろ自然との共存の視点を! 期待しましたがAmazonで詳しく見る by G-Tools |
『相剋(そうこく)の森』『邂逅(かいこう)の森』(史上初の山本賞&直木賞ダブル受賞)に続く「森」シリーズ、マタギ三部作の完結編である。
舞台は大正年間の樺太とロシア。マタギの柴田矢一郎は日露戦争で優秀な狙撃手として活躍したものの、もはや人を撃つことへの嫌悪感から銃をおき、故郷の秋田を離れて遠くサハリンで漁師や樵(きこり)の仕事を転々としていた。姉の仇(かたき)として義理の弟の辰治が十年以上も矢一郎の命を狙って追跡していたからだ――。
その二人の雪原での逃亡と追跡、酷寒の間宮海峡の横断、ロシア、中国、日本の諜報(ちょうほう)戦、そしてロシア赤軍のパルチザンとの死闘など盛り沢山(だくさん)な内容である。精神と肉体が軋(きし)みをあげる限界までヒーローを追いつめ、銃をふたたび手にもたざるをえない男の内面をしかと捉(とら)えるあたりも周到だし、実にオーソドックスな(ほとんど海外ミステリなみの)冒険小説である。
ドラマを作り上げる手腕もたしかだが、注目すべきは、シベリア出兵、尼港事件など歴史的な大事件のただなかで、男が戦争・愛国・民族・家族の意味を探り悩むことだろう。その意味でまさにこれは現代の小説である。悲惨な尼港事件のくだりがとくに胸をうつ。【評 池上冬樹(文芸評論家)】
| 水俣学講義 第3集 (3) | |
![]() | 原田 正純 日本評論社 2007-01 売り上げランキング : 31954 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
水俣病の正式発見から50年余が経過した。この間、水俣病は何回も「終わった」と言われてきた。チッソの工場廃水に原因があると政府が認めた68年、被害補償を拒んだチッソを患者原告が訴え裁判で勝訴した73年、1万人超の被害者に対する医療救済が政治的に解決(和解)された95年、そして最高裁が被害を放置した国と県の責任を認めた04年。しかし、いずれの「終わった」にも、本書の編著者であり、50年近くにわたり現地で水俣病と向き合ってきた原田氏は「終わっていない」と反論する。
事実、チッソの工場廃水に含まれていた有機水銀が不知火海に流れ込み、食物連鎖を通して中毒を起こした経緯や、その責任が明らかになっても、被害者と家族の苦しみは終わらない。なぜ、原因物質の特定が遅れ、危険な廃水が続けられ、被害者の認定や補償に時間を要し、行政の責任が棚上げされてきたのかを学問的に究明しなければ、同じような被害が繰り返される恐れがある。
原田氏が大学の授業として「水俣学」をはじめたのは、若い人に「水俣という鏡にいろいろなものを映して……それぞれの水俣を見つけて」ほしいと思ったからだ。専門家と素人の壁を越える「水俣学」の講師は多彩であり、3期目の講義には作家の石牟礼道子氏や経済学者の宮本憲一氏に加え地元の小学校教諭も登壇している。毎年変わる講師陣に共通するのは「公害は弱者を直撃する」、だから学問の目的は「弱者に置」くべきだという認識だ。
1期目の講義録によれば、「所得倍増計画」で有名な元総理大臣の池田勇人氏は、通産大臣時代に「水銀と水俣病を関連付けるのは早過ぎる」と閣議で発言し、原因究明にブレーキをかけたという。水俣病の鏡には「あらゆるものが残酷なまでに映し出されてしまう」。「社会のしくみや政治のありよう」だけではなく、専門知識に囚(とら)われて胎児性の水俣病を見過ごしかけた医師の苦い経験も例外ではない。それが、私たちが忘れてはならない水俣病の「教訓」でもある。【評 高橋伸彰(立命館大学教授)】
| 聖母の贈り物 | |
![]() | ウィリアム・トレヴァー 栩木 伸明 国書刊行会 2007-02 売り上げランキング : 748 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
カバーの折り返しに、頑固そうな老人の写真。ああ、このじいさんか、と私は思う。深くくっきりと刻まれた皺(しわ)。尖(とが)った耳。眼(め)は鋭い。鋼のような視線。だが口角はかすかに上がり、微笑(ほほえ)みのようなものが浮かんでいる。ウィリアム・トレヴァー。この本の作者。顔から受ける印象は、彼の作品にそのまま通底する。
あるアンソロジーでこの作家に出会った。容赦がないのに、どこか一箇所(かしょ)、絶望を裏返す温かみのある作品で、一読、しびれた記憶がある。本書はその彼の、本邦初となる短編コレクション。
三部作「マティルダのイングランド」は、なかでも柱となるすばらしい作品だ。田園屋敷を舞台に、その一角の農場に住む「わたし」の半生が描かれる。途中、第二次世界大戦が勃発(ぼっぱつ)し、父や兄、姉の恋人が兵役に。父は帰らず、母は新しい男を見つける。生地店で働くその人は、やがて「わたし」の父になるが、「わたし」は生涯、彼を好きになれない。
多感な彼女の心に寄り添ううち、私は「わたし」になりぼろぼろ泣いた。それだけでも十分のはずだったが、トレヴァーは、単なる感動に物語を落とさず、さらに、痛烈で荒々しい神秘をそこに加える。
物語はここに一人の老女を配するのだが、彼女の存在が、「よくできた家族小説」の枠を壊し、呆然(ぼうぜん)とするような人生の深淵(しんえん)へと、読者を突き落とすのである。そこに至っては、涙も引っ込む。
トレヴァーの作品には、こうしてリアリティを積み重ねた地上から、不意に離陸する瞬間がある。その聖なる一瞬に作品の命がある。高みから見下ろす著者の視線は、非情さをもって真実を照らし出すが、そのとき読者には涙でなく、より深い、沈黙の慟哭(どうこく)がわきあがるのだ。
宝石のような一編、表題作を始めとして、本書には、そうなるしかなかった生の悲惨が、至る所、癒えない傷のように口を開く。この作家は、そうした運命の只中(ただなか)にいる人々を、決してすくい上げず、ただ見つめる。あまりに強く見つめるので、私にはそれが「愛」のように見える。【評 小池昌代(詩人)】
| 神話論理〈1〉生のものと火を通したもの | |
![]() | クロード レヴィ=ストロース Claude L´evi‐Strauss 早水 洋太郎 みすず書房 2006-04 売り上げランキング : 4632 おすすめ平均 ![]() ついに! 論理があまりに粗雑で恣意的に過ぎ、読む価値があるか疑問Amazonで詳しく見る by G-Tools |
| 蜜から灰へ | |
![]() | クロード・レヴィ・ストロース 早水 洋太郎 みすず書房 2007-01 売り上げランキング : 10464 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
歴史から構造へ、精緻な神話研究
「20世紀思想の金字塔」と称(たた)えられる書物です。あまたある構造主義文献のなかで未踏の巨峰だったのですが、ついに邦訳が出始めました。原書は40年ほど前に4部作として刊行され(邦訳は5分冊)、この前半の2作は南アメリカ先住民の神話を扱っています。
出発点はボロロ族の神話です。
ある少年が母親を犯す。父親は息子に復讐(ふくしゅう)するため、岩山に巣を作る鳥をとれと命じ、息子が上ったすきに、梯子(はしご)がわりの棒を外してしまう。息子は苦難の末、親兄弟を探して祖母と再会する。その夜、激しい雨が降り、祖母のかまどの火以外、村の火がすべて水で消えてしまう……とまあ、そんな話です。
レヴィ=ストロースは、この神話を他の無数の神話と比較しながら、これが水の起源の神話のように見えて、火の起源の神話であること、また、火による料理の起源の神話にも属すること、さらに、食物に火を通す操作は、空と大地、生と死、自然と社会を媒介する行為であること等々を読み解いていきます。
第1巻のタイトルが「生のものと火を通したもの」となっているのは、この2項対立のなかに、自然から文化へ、という人間の決定的な移行が刻まれているからです。
第2巻のタイトルは蜂蜜とたばこのことで、蜂蜜は火を通す必要のない料理以前の物質、たばこは火を通して料理の彼方(かなた)へ行く物質を代表します。この二つのテーマをめぐって神話は料理の周辺へと拡大し、宇宙論的な「構造」をもっていることが証明されます。
その手際の鮮やかさに感嘆する、とひと言で片づけたいところなのですが、レヴィ=ストロースの論証たるや、良くいえばステンドグラスの薔薇(ばら)窓のように精緻(せいち)かつ華麗、悪くいえば気が遠くなるほど複雑で煩瑣(はんさ)です。この書物については「難解」との定評(?)がありますが、難解というより、あまりにも「徹底的」なのだというべきでしょう。
レヴィ=ストロースが用いる主な論法は、類似(よく似た神話を集める)と対比(そこから2項対立の構造をとりだす)という比較的単純なものです。しかし、その実践の異様な徹底性ゆえに、読者は論理のつながりを追うのに一瞬たりとも気をぬけないのです。
この分析の怪物的な徹底性が、人間の思考の枠組みを大きく転換させました。それは歴史から構造へ、という転換です。
19世紀には人間が「歴史」を経るにつれて高度な文明を実現するという考えが信じられていました。しかし、20世紀の後半にいたって、レヴィ=ストロースはその考えをひっくり返してしまいました。未開民族の神話には明確な精神の「構造」があり、西欧近代の文明を作った精神構造と未開の神話に見られる精神構造のあいだに優劣はない、と。
近代理性の作りあげた世界が袋小路に入りつつあるいま、合理的な設計図に基づく製作より、ブリコラージュ(手持ちの材料と道具による即興的な仕事)を重視する野生の思考の柔軟さこそ、私たちに必要なものでしょう。レヴィ=ストロースの忍耐強く繊細な神話研究はそのことを強く示唆しています。【評 中条省平(学習院大学教授・フランス文学)】
| フィッシュストーリー | |
![]() | 伊坂 幸太郎 新潮社 2007-01-30 売り上げランキング : 722 おすすめ平均 ![]() クロスオーバー作品 いい意味で軽い話 1冊で何度でも楽しめる♪Amazonで詳しく見る by G-Tools |
四つの中・短篇(たんぺん)を収録した作品集である。深夜の動物園で毎晩うつ伏せになっている謎の男の動機をさぐる「動物園のエンジン」、泥棒が行方不明の男を探すうちに古い村の奇妙な風習を知る「サクリファイス」、ある作家の文章がさまざまな人々に影響を与える「フィッシュストーリー」、そして空き巣の男と女たちが野球選手の救済に奔走する「ポテチ」である。
『オーデュボンの祈り』でデビューしてまもないときに発表した「動物園のエンジン」から書き下ろしの「ポテチ」まで、およそ六年間に発表された作品が並ぶが、これを読むと伊坂幸太郎の軌跡がわかる。つまり謎解きから、謎含みの洒脱(しゃだつ)な小説へという流れである。隠されたものを明らかにすることで終わるミステリから、謎を何らかのシンボルにして人生の意味や人間の関係性を探る普通小説への転向といったらいいか。
その代表的なのが、「フィッシュストーリー」と「ポテチ」だろう。特に後者が特徴的だ。自殺未遂騒動からはじまり、不思議な出会いがあり、やがて繋(つな)がりが生まれ、隠された関係性を示しながらも、それぞれの夢や希望を託す方向に物語は収束していく。表題作では謎の作家の文章が象徴的だったが、「ポテチ」では野球という行為が人物の関係性のレベルと欲望の充足の比喩(ひゆ)として機能している。展開はオフビートで語りはクール、それでいて人物たちの精神的距離の踏破という、古き良きメロドラマを温かく描いて読者を十二分にもてなす。実に心憎いではないか。
帯に“伊坂作品を彩る名脇役たちが巻き込まれる、新たな事件の数々”とあるように、ここでは長篇の『ラッシュライフ』『重力ピエロ』ほかに出てきた脇役たちが主人公をつとめる。長篇を読んでいなくても愉(たの)しめるが、長篇ですでに紹介したからか、筆がやや抑えられすぎて、肖像がもうひとつ鮮やかに際立つには至っていない点もある。
とはいえ、作品同士が緩やかにリンクしていく伊坂文学においては優れたサイド・リーダー的側面をもつ。ファンには見逃せない好著だろう。【評 池上冬樹(文芸評論家)】
| 「世界地図」の誕生―地図は語る | |
![]() | 応地 利明 日本経済新聞社出版局 2007-01 売り上げランキング : 447 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
科学的に作成された正確だが味気ない現代の地図と異なり、様々な思いや意味が込められた古い時代の綺麗(きれい)な地図は我々を魅了する。本書は、人間が世界をどう認識し、地図に描いてきたのか、という大テーマに挑み、世界史を斬新な視点から読み直す。
前半の主役は、東西の代表的な文化圏で作成された中世の世界図だ。どれも文明あるいは宗教独自の世界観を表現し、個性豊かで見て楽しい。
仏教圏からは法隆寺蔵五天竺(てんじく)図が登場する。仏教伝来で世界に目を広げた日本が生んだこの世界図は、仏教の故郷、憧(あこが)れの天竺=インドを中央に大きく表現し、中国をわざと小さく描いている。一方、キリスト教の世界観を表すヘレフォード図は、聖なる方位の東を上にとり、その果てにエデンの園を置く。中央に地上の聖地エルサレムを中心とする世界、下方に現世の人間世界である三つの大陸を描く。未知の世界には荒唐無稽(こうとうむけい)な動物や怪獣の姿がある。
中国は中華思想らしく、宗教観ではなく王権思想がもつ世界観を地図に描く。天子の立つ王都を中心に、華(文明の地)と夷(野蛮の地)を選別して世界を構成するのだ。中世にはイスラムの先進性が際立っていた。シチリアでつくられたイドリースィー図は、自己中心的世界観や宗教的世界観に縛られず、東西の広範囲を地図に自由に描いたのだ。
これら中世の世界図は、どれも思想性や芸術性に富む力作だが、世界観の表明が前面に出過ぎ、世界地図と呼ぶには科学性、実用性に欠けると著者は言う。その全(すべ)てを備えた地図の傑作は、大航海時代のポルトガルが生んだカンティーノ図なのだ。時はルネサンス。古代のプトレマイオス図の英知の復活も背景にあるが、それを大きく革新し、最先端の航海・測量・地図作成の技術で実証的精神に基づく世界地図がここに初めて誕生した。アフリカ、ブラジル等の正確な描写は驚きだ。海洋世界帝国ポルトガルの栄光を賛美する華麗な地図でもある。世界を探索する面白さに加え、イスラムやポルトガルが世界史に果たした偉大な役割を本書は再認識させてくれる。【評 陣内秀信(法政大学教授)】
| 平安京のニオイ | |
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花の都と歌われた平安京には、ナマの人間の生活臭が充満していた。
眼(め)をつぶり、耳も塞(ふさ)いで鼻だけを外界探知のアンテナにすると、もう一つの感覚次元の世界が、《嗅覚(きゅうかく)像》というべき不思議な立体感をもって浮かび上がってくる。
著者が「匂(にお)い」の問題に関心を抱いた動機は阪神・淡路大震災だったという。肺に侵入する埃(ほこり)の匂い・焼け跡の咽喉(のど)を刺すような焦げ臭さ・詰まったトイレの悪臭が研究心をそそり、古代の京都に《鼻》を開かせたのである。
ニオイには、漢字にすれば「匂」「薫」「香」「臭」の種別があり、明瞭(めいりょう)な《格差》がある。著者は公卿日記や文学作品から拾い出せる匂いのレパートリーを網羅し、王朝社会の上から下まで隈(くま)なく嗅覚の回路を行きわたらせる。
平安京のニオイは、いわば同心円の構造を備えている。中心には上流貴族が帰依した浄土教の仏を荘厳(しょうごん)する妙香。その周りに、貴族の男女が衣服に焚(た)きこめる上品な薫香。「追風」「移り香(が)」などと優雅に表現される芳香だ。香りの趣味は、それで個人が識別されるほど微妙だった。何しろ『源氏物語』の登場人物である薫に至っては、「御人香(おんひとが)」といって体臭までが仄(ほの)かにかぐわしいのである。
その外側にひしめくもっと猥雑(わいざつ)な生活臭になると、いよいよ『今昔物語』の出番になる。平安貴族の特権的な生活圏から一歩外に出れば、もうそこは糞尿(ふんにょう)臭と獣臭が漂う下層庶民の居住区である。路傍排泄(はいせつ)が当たり前だから、古代の京都は糞尿都市だった。
日常でも貧困の匂いを発しているその地域は、地震・大火・洪水・疫病といった災害で集中的に被害を受ける。風葬が普通だった京都は、さらに遺棄死体が河原はおろか道路や御所の門前にも山積する酸鼻な死臭都市に一変した。
物の匂いからは驚くほど深い歴史の光景が開けてくる。平安京の住宅地が、左京の北東部と鴨川以東に発展した原因を死臭の有無に求めているのは卓見といえよう。日頃デオドラントに馴(な)らされた現代人に、嗅覚の意味を再発見させる良書である。【評 野口武彦(文芸評論家)】
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老コーチに忠実な「修行僧」という80年代瀬古イメージとは落差のある意外性に、この本ではしばしば出くわす。
マラソン15戦10勝の華麗な戦績とは裏腹に、高校時代から20歳での初マラソンまでは、根性なしで粘り強さも欠いたという。
勝つために探し続けた答えを初公表する理由に、著者は引退後20年が経(た)っても記憶に残る選手が限られていることを挙げる。「それは寂しすぎることだ」とも記す。
じっさい宗茂・猛兄弟(54)、瀬古(50)、中山竹通(47)、谷口浩美(46)、森下広一(39)と続いてきた男子マラソン界は停滞している。練習やレースでペース感覚を磨く際に、今の選手は時計をチラチラと見すぎているとの指摘も鋭い。「継続は力なり、されど惰性の継続は退歩なり」ともいう。
創意工夫の数々を次々に編み出せたのは、走ることの意味を考え続ける情熱があったから。レースで勝つための経験則と信念が「マラソン練習とは、42・195キロを、長い距離だと感じないようにしていくこと」で始まる巻末の至言「百カ条」に結実した。
読みやすいが、内容は濃い。ランナー以外の競技者にも役立つ、創意に富む一冊だ。【評 佐山一郎(作家)】
| ニッポンの小説―百年の孤独 | |
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タカハシさんは小説家である。小説とは何かを考えずにはいられず、そして考えたことを人に伝えずにはいられないタイプの小説家でもある。だからこんな本まで書いてしまった。
『ニッポンの小説』。こんな偉そうな書名を自分の本につけられるのは、高橋源一郎か保坂和志くらいだろう。でも副題は「百年の孤独」である。なんか辛(つら)いみたいなのだ小説は。
その辛さをなんとか伝えようとタカハシさんはもがく。ニッポンの小説は「死者の代弁」ばっかりしてきたが「死」なんかほんとに書けるのかとか、小説と詩はどうちがうとか、どうして人は「無価値な人間に思われるように、できるだけ下手な文章を書きたい」と思わないんだろうとか。
この本には2種類の固有名詞が出てくる。漢字で名前が表記される人と、カタカナで表記される人と(固有名詞が伏せられている人も、イニシャルだけの人もいる)。
一言でいえば「日本語文学百年の制度を疑う大型評論」だが、そうまとめられることをタカハシさんは全力で拒む。だから日本ではなくニッポン、高橋源一郎自身も「疑う人」としてのタカハシさんを装う。フタバテイシメイの孤独を共有しちゃった人の書だ。【評 斎藤美奈子(文芸評論家)】
| 境界知のダイナミズム | |
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「境界知」とは、著者たちが編み出した新概念だ。
たとえば、誰しも自分と世界のズレを感じたことがあるだろう。だが年齢を重ね経験を積むにつれ、誰しも自分のほうを世界に合わせていく「常識(コモンセンス)」を覚える。だが古代ギリシャで「共通感覚(センススコムーニス)」といえば、五感の統合を意味した。いまこそ、そうした古典的な「共通知」を回復し革新的な「境界知」を模索すべき時だ、と本書は訴える。
「境界知」とは、たんに異文化への「違和感」を克服していくだけではなく、むしろ違和感を居心地の悪さのまま刻々と操り、社会を生き抜いていくための知能である。ここではそれが、たとえば左利きが右利き中心に設定されている社会へ感じるバリアといったごくわかりやすいエピソードから、幼年期を抜けて魅惑的な冒険をくぐり抜けていくときに乗り越えなければならない一線や、人間型ロボットが人間に酷似すればするほど生じてくる不気味さの感覚まで、多様に例証される。
「ふつう」になじむために違和感を抑えるのではなく、むしろ違和感を育む境界知を武器にして「ふつう」のほうを造り替えてしまうこと――知性の未来をめぐる最先端リポートは、「考えるヒント」満載だ。【評 巽孝之(慶応大学教授)】
| 地域再生の条件 | |
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7年前の地方分権一括法施行で、地方自治体に法令解釈権が付与されるようになり、地方が独自の施策を以前より展開できるようになった。さらに「三位一体改革」により、国から地方への補助金削減と地方交付税見直し、税源移譲の三つを同時に行うことで地方分権が進み、「地方の時代」が到来するはずであった。
しかし、現実には補助金削減にあたり、補助項目の削減ではなく補助率の削減で対応した省庁も多く、地方自治体の現場を自らの足で歩き回った本書の著者によれば、小さな権限移譲と補助金・交付税の大きな削減で、疲弊する自治体が増えているという。また、「平成の大合併」により自治体の規模が大きくなり、行政の目が行き届かなくなっていると指摘する。
こうした地方を再生するためには、国主導の全国一律な施策ではなく地域主体の施策に委ねるべきである、と著者は強調する。例えば、第2次産業では、50年に及んだ全国総合開発計画(全総)で建設された新産業都市建設をみても、国より自治体の経費負担が多かったにもかかわらず、そこからもたらされる税収は自治体より国に多く入っており、結果として自治体の赤字が膨らんでいるという。
第1次産業政策についても、長年のコメ増産奨励から一転して減反という国の農政に振り回された農村の悲哀ははかりしれない。
本書に登場するのは無論、暗い話ばかりではない。国の減反政策に反対して自主流通米生産を始めた秋田県大潟村の取り組みや、少量多品種で脱コメ農業に成功した自治体の例も紹介されている。スローライフを求める都市住民を巻き込んで棚田を残そうとする千葉県鴨川市など、独自の試みを展開する自治体の努力を著者は評価する。
地域再生のためのグランドデザインを地方自治体で作る際に、首長や行政だけの主導とならないよう、住民参加が求められることは言うまでもない。それには、地方議会も首長や行政への斡旋(あっせん)業務でなく、本来の二元代表制に基づく議員発議条例を積極的に作るべきであろう。【評 小林良彰(慶応大学教授)】
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「新霊性文化」がこの時代に持つ意味
人生の苦しみには、普遍的なものと時代ならではのものとがある。前者は病気や貧困、家族との別れなどであるが、最近は「生きる意味がわからない」など自己喪失感に苦しむ人たちも増えている。後者の苦しみは、決して科学の進歩やお金によっては救われない。
「私って何?」という問いの答えを求めていま、多くの人たちが「スピリチュアル世界」と呼ばれる目に見えない霊的な領域に関心を寄せている。伝統的宗教とは少し異なる装いで「死後の世界」や「人から出ているオーラ」について語られるテレビ番組は、軒並み高視聴率だ。
70年代から80年代にかけてニューエイジ系の若者を中心に起きた「精神世界ブーム」と呼ばれた同様の社会現象を鋭く分析した島薗進は、『スピリチュアリティの興隆』で、より広い層に浸透しつつあるスピリチュアル世界への関心を「新霊性文化」と名づけて考察した。
その世界に傾倒する人たちへの詳しい聴き取り調査のパートがとくに迫力があるのだが、そこにも病苦から逃れるためにではなく、環境保護活動や自己解放の探求から霊的世界へと接近していった人たちが登場する。今の社会で「よく生きよう」と思えば、既成の組織や運動の限界にぶち当たり、自(おの)ずと“目に見えないより広い世界”に足を踏み入れずにはいられないのだろうか。
従来の科学や宗教の限界とスピリチュアル文化の興隆の関係については、論集『スピリチュアリティといのちの未来』でより詳細に議論されている。
著者は「多様で、かつ生活に根を下ろした形」でこの新霊性文化が広がることについておおむね肯定的なようだが、中にはすべての答えを「守護霊」などに求めようとし、自分の頭で考えることをやめる人もいる、といった弊害もあると思う。また、生きることの意味もわからなくなり霊的世界に逃避せざるをえないほどのひどい現実、という問題も深刻だ。「新霊性文化の限界と問題」いう観点も忘れてはならないだろう。【評 香山リカ(精神科医)】












期待しましたが



論理があまりに粗雑で恣意的に過ぎ、読む価値があるか疑問

いい意味で軽い話







