メイン > 朝日新聞日曜版『書評』 > 2007年1月7日~1月14日
| アメリカ―非道の大陸 | |
![]() | 多和田 葉子 青土社 2006-11 売り上げランキング : 250 おすすめ平均 ![]() 「あなた」系の完結編か? どこにも属さない人の視点Amazonで詳しく見る by G-Tools |
| 海に落とした名前 | |
![]() | 多和田 葉子 新潮社 2006-11-29 売り上げランキング : 5947 おすすめ平均 ![]() 様々なものを飛び越えていくことで、なんとも不思議な物語世界を見せてくれる短編集Amazonで詳しく見る by G-Tools |
旅の途上、着地することなき物語
はじめて多和田葉子の本を手にとったあなたは、おそらく面食らうだろう。それはあなたがこれまでに知っている「小説らしい形」とはいろんな意味でちがっている。
『アメリカ 非道の大陸』は、ベルリンに住み、ドイツ語と日本語で執筆活動を続けている彼女がはじめてアメリカを描いた連作だが、それはこんな風にはじまるのだ。
〈あなたは飛行機の中でうとうと眠りながら、そんなはずはないのに機体を外側から見ている自分に驚いていた。鈍い銀色の機体に氷の粒が何億も貼(は)り付いている〉
待って待って。「あなた」ってだれ?
ところがどっこい「あなた」がだれであるのかは最後までわからない。わからないまま小説らしきものは進行し、あなたはあれよあれよとおしまいの第十三章まで連れて行かれてしまう。「あなた」はその間、ニューヨークで詩の暗唱大会(フィギュア・スケートの競技会のような)を見物したり、シカゴで見知らぬ女性と摩天楼の最上階から地上を見下ろしてみたり、スーパーマーケットで買い物したり、「ネイティブ・アメリカン」の女性と博物館を訪れたり、フロリダで初対面の青年とマナティを見に行ったりする。
「あなた」がどの街でも初対面に近い人と行動をともにしているのは、アメリカという国の交通事情が関係している。車がないとすこぶる不自由な国に来たのに〈あなたは車の免許を持っていない。そのことを電話で言っても、まるで話が通じない〉のである。同じく「あなた」を主語にした『容疑者の夜行列車』がユーラシア大陸を列車で移動する物語であったのとは対照的だ。
個々の逸話の間に関連性はなく、物語がどこかに着地することもない。それで途方に暮れるのは、あなたが「小説らしい形」にとらわれているせいで、多和田葉子の小説はいつも旅の途上にある。途上だから当然オチなんてものはなく、一件落着感もなく結論も帰結もない。大団円なんてとんでもない。「閉じない」のだ、つまり。
主語が「あなた」である理由もそこにかかわる。もしこれが「わたし」、あるいは「ヨウコ」とかだったら、小説はたちまち「閉じた」ものになってしまうだろう。年齢や性別や職業や国籍や人種といった帰属に縛られない不思議な二人称「あなた」だからこその解放感。自分が乗る飛行機を外から眺める気分とも、それは重なるかもしれない。
『アメリカ』の1カ月後に刊行された短編集『海に落とした名前』の表題作は、飛行機事故の後遺症で、自分の名前も住所も経歴も忘れてしまった女性の物語である。
本人はそこにいるのに名前がない。
〈たとえ身体がなくても名前さえ分れば保険が下りるはずだが、逆に名前からはぐれてしまった身体の方は保険がもらえない。本当は名前ではなくて身体の方が医者を必要としているはずなのだけれど〉
名前のない「あなた」と名前を失った「わたし」。多和田葉子を読むってことは、ガイドブックのない旅の楽しさに似ている。【評 斎藤美奈子(文芸評論家)】
| 90年代の証言 宮澤喜一―保守本流の軌跡 | |
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長期的理念より状況対応型の「公僕」
第2次世界大戦後に官僚として連合国軍総司令部(GHQ)との交渉に携わり、政界に転じた後は首相退任後も含めて多くの要職に就いた「55年体制よりも長命な政治家」宮澤喜一。
本書は、その宮澤氏に、経済学者がバブル崩壊後の不良債権処理を尋ねた「第一部」と、戦後の外交について政治学者と対談した「第二部」から構成されている。
そこからみえて来るのは、時には二律背反的ともみえる宮澤氏の言動である。例えば、クリントン米大統領による米国製品輸入数値目標設定の要求を拒んで市場主義の一面をみせる一方で、バブル崩壊後は、編者が「遅れてきたケインジアン」と評したように、減税、公共事業、金融機関への公的資金投入と、国のお金を出し続けて政府債務を膨らませた。
政治的には、吉田退陣後に鳩山一郎氏らの公職追放解除組が台頭するのを嫌い、別荘にこもって本を執筆した護憲リベラル派の一方で、湾岸危機への対応で日本が国際世論から批判されたのを受け、PKO法案を成立させ、カンボジアで文民警察官が亡くなった際にも撤退しなかった。
つまり、長期的な理念の自己実現を目指す政治家としての姿よりも、自分に与えられた、その時々の状況に対して真摯(しんし)に取り組む公僕としての姿が印象に残る。
しかし、何事にも常にまじめに取り組むだけに、政治家としての駆け引きは不得意であったようだ。例えば、日米繊維問題を解決して沖縄返還を実現したい佐藤内閣の通産相でありながら、繊維製品の自主規制は法的にできないと判断したことは、宮澤氏の後を継いだ田中通産相が繊維製品関係者に補助金を出すことで政治決着したのと好対照である。
その時々の状況のもとで精いっぱいやったのだとして、首相や閣僚としての結果責任を背負う姿が一連の発言から見えて来ないことには、一有権者としてやや不満が残るものの、政治家の本音を巧みに引き出した編者と、ありのままを率直に語った宮澤氏には敬意を表したい。【評 小林良彰(慶応大学教授)】
| アメリカの終わり | |
![]() | フランシス・フクヤマ 会田 弘継 講談社 2006-11-29 売り上げランキング : 777 おすすめ平均 ![]() ネオコンの適切な解説と優れた提言 「重層的多国間主義」の内実Amazonで詳しく見る by G-Tools |
改心でなく、ネオコンの原則回帰説く
著者は、いわずと知れた『歴史の終わり』の著者である。その著者が新保守主義(ネオコン)批判の本を書いた。冷戦後の世界における自由主義的な民主主義のグローバルな普遍性を強調してきた著者は、これまで自らも認める新保守主義の理論家でもあったので、これはかなりのスキャンダルである。しかし本書を、ただ改心した新保守主義者の自己批判や、まして懴悔(ざんげ)と捉(とら)えるのは、いささか浅薄な話である。
狭い国益を超え、自由や民主主義といった普遍的価値を重視して、そのグローバルな実現のために米国の国力を積極的に用い、究極的には国連や国際法の力を頼りにしないというのが、著者の説く新保守主義の本来的原則である。この原則自体への著者の信奉は、本書においても本質的に変わらない。ただ著者は、著者以外の現在の新保守主義者が、この原則の実際的運用において誤った傾向を帯びていることを指摘する。
その原因は、つきつめれば、もうひとつの原則の軽視に求められている。すなわち、急激な社会改造が社会そのものを破壊してしまう危険に敏感であるべきだという原則である。結果として新保守主義者たちは、独裁者さえ排除すればイラクが民主主義国家として自然に機能しはじめるかのような幻想を抱いて、国際社会の合意が不十分なままのイラク開戦を支持するという過ちを犯すことになったというわけである。
新保守主義の論理に内在したイラク戦争批判には、なかなかの説得力がある。だが、他の新保守主義者との違いを見せようとして著者がひねり出す「現実主義的ウィルソン主義」だの「重層的多国間主義」だのといったフレーズに、みかけほど大きな立場の転回はない。米国にまだ残るソフトパワーであれ、非政府国際機関であれ、利用できるものはなんでも利用しようという話に尽きているからである。つまりそれは新保守主義的発想のなかでの戦術路線の選択の問題なのだ。そこに示唆されるのは、むしろ新保守主義の思想的遺伝子の強さというべきだろう。【評 山下範久(北海道大学助教授)】
| 再起 | |
![]() | ディック フランシス Dick Francis 北野 寿美枝 早川書房 2006-12 売り上げランキング : 1615 おすすめ平均 ![]() すみません… 「自己蔑視」との決別。 お帰りなさい!Amazonで詳しく見る by G-Tools |
現存する作家の最高のシリーズは何か? ときかれたら、僕はすぐさまディック・フランシスの競馬シリーズをあげる。心を揺さぶるヒーロー像、新鮮な舞台、巧緻(こうち)なプロット、強烈なサスペンス、皮肉なユーモア、苦い現実認識と揃(そろ)っている。何よりもいいのは、真実味のある個性豊かな人物たちの息詰まるドラマだろう。それは四十作目を数える本書でもかわらない。
物語は、元騎手の調査員シッド・ハレーが、上院議員から調査を依頼される場面から始まる。持ち馬が八百長に利用されている疑いがあるというのである。調教師のビルと騎手のヒューが怪しかったが、間もなくヒューが殺されてしまう。ハレーに謎のメッセージを残したまま……。
『大穴』『利腕』『敵手』と続くシッド・ハレーものの四作目である。競馬シリーズは原則的に毎回主人公が異なるのだが、例外が二つあり、その一つがハレーもの。作者が最も愛着をもつ連作で、事実、前記三作は四十作の中でもベスト10に入る傑作たち。レース中の事故で片腕を失った男の再生と挑戦を描く物語は、競馬シリーズの典型をなすだろう。つまり、肉体のみならず精神の限界まで追い詰められ、誇りと勇気と克己と愛をめぐる、熱く激しいドラマが展開するからである。
とはいえ今回は、謎解きに徹していてドラマの部分が弱い。しかし八十五歳の新作なのに、若々しく快調な語りは心地よく読者を掴(つか)んで離さない。体が熱くなるほどの昂奮(こうふん)にみちた傑作たち(『血統』『度胸』『興奮』『罰金』)と比べたら、悪役の邪悪さや脇筋も足りないが、それでも人間性に対する温かく深い理解が前面に出ていて、後味がいい。フランシスの水準作だが、それでも現代ミステリにおけば充分(じゅうぶん)に佳作に値する。
ともかく競馬シリーズは、一度も馬券をかったことがない人間でさえも夢中になる、小説好きなら必ずや虜(とりこ)になる素晴らしい小説の宝庫だ。真摯(しんし)で清廉な生き方をする男たちの物語という点で、突飛(とっぴ)と思わないでほしい、いまブームをよぶ藤沢周平のファンにも強くお薦めしたい。【評 池上冬樹(文芸評論家)】
| 僕僕先生 | |
![]() | 仁木 英之 新潮社 2006-11-21 売り上げランキング : 2182 おすすめ平均 ![]() 戯言シリーズ+封神演義?の面白さ 歴史、冒険、恋愛の見事なコラボ 壮大なスケールのファンタジーAmazonで詳しく見る by G-Tools |
かつてヴィム・ヴェンダースの映画『ベルリン・天使の詩』(一九八七年)に登場した天使は冴(さ)えない中年男の姿で現れ度肝を抜いたが、以後二〇年、本書は中国の仙人を何と戦闘美少女の姿で描きだす。
舞台は楊貴妃とのロマンスで知られる玄宗皇帝を頂点に抱く大唐帝国が、第二の黄金時代を迎えているころ。主人公の青年・王弁は、中国大陸東部の光州の屋敷で、元官僚の資産家である父の恩恵を受け、何の勉強もせず何の定職にもつかず、気ままなニート生活を送る身。だが、不老長寿の夢に取り憑(つ)かれた父のたっての頼みで、彼は黄土山で人間に妙薬を与えているという美少女仙人「僕僕先生」に弟子入りする。
この師匠は真の無の境地を究めるどころか、あえて人間の世界と運命をともにし人間の感情を尊重することを選び、自分自身を「出来の悪い落ちこぼれ」と卑下してやまない。そう、この師弟「ボク」と「キミ」は、案外似たもの同士ゆえに恋人同士とも見まごう。
ふたりが悠久の時すら一気に超えてしまう「世界をぬける」旅を続け、混沌(こんとん)の暗闇など多くの障壁を切り抜けていくさまは、まさに圧巻だ。第一八回日本ファンタジーノベル大賞受賞作。【評 巽孝之(慶応大教授)】
| 世界に格差をバラ撒いたグローバリズムを正す | |
![]() | ジョセフ・E. スティグリッツ Joseph E. Stiglitz 楡井 浩一 徳間書店 2006-11 売り上げランキング : 229 おすすめ平均 ![]() アメリカのずるさを知った 現実的で前向きな政策提言に注目 割り引いて読むならばAmazonで詳しく見る by G-Tools |
「グローバル化はそもそも、すべての国、すべての人に未曽有の恩恵をもたらすはずだった」。しかし、現実はその効果が発揮されないまま、貧困が放置され格差が拡大していると著者は言う。いまのグローバル化を統治しているのは、公平な経済ルールや公正な国際機関ではなく、アメリカの「私益」だからだ。
実際、補助金で自国の農業を保護しながら、得意なサービス分野では市場開放を強制したり、新薬の生産を独占する一方で、途上国からは薬草に関する伝統的な知識を掠(かす)め取ったり、資本の自由化を求めながら、経済危機の際には真っ先に資金を引き揚げるアメリカの主張や行動がまかり通っているかぎり、グローバル化の果実は世界の隅々まで行き渡らない。
どうすれば「アメリカのやりたい放題」に終止符を打ち、グローバル化を「うまく機能」させることができるのか。本書にはドルに代わる世界紙幣の発行など様々な対応策が示されている。その実現に向け、著者はあえて「公正なグローバル化を求める声」に応えられる国は「アメリカ以外にありえない」と指摘する。背景には、すべての人間の平等を謳(うた)った建国の精神に、今こそ立ち戻るべきだという著者の思いが潜む。【評 高橋伸彰(立命館大教授)】
| NHK vs 日本政治 | |
![]() | エリス クラウス Ellis S. Krauss 村松 岐夫 東洋経済新報社 2006-11 売り上げランキング : 105355 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
中立、非論争で政治に寄与
NHKと政治との関係は、常に問題にされてきたテーマである。本書は、米国の政治学者が学術研究書のみならず、新聞や雑誌、業界誌までも駆使して、戦後の日本政治におけるNHKの政治報道が担ってきた役割、そして、NHKという組織と日本政治との関係性に斬(き)り込んだ労作である。
その検証範囲は、NHKの制度と組織、報道取材と編集プロセス、人事、労使関係、技術開発、ニュース内容の変容など、多岐にわたる。
興味深いのは、NHK特有の中立的で非論争的な報道こそが、戦後の日本政治の正統性を描き、その安定性にも寄与したとの分析であろう。自民党による長期政権とその影響力を排除しようとする内外の反発とのバランスのなかで、NHK内部に、その報道を注意深く管理するシステムが生成されていったのだと論ずる。
放送法というフォーマルなルールが明確に存在するがゆえに、政治勢力からのインフォーマルな影響力の行使に脅かされる一方で、経営安定化のために技術開発に邁進(まいしん)すれば、国の産業政策に組み込まれていく。そんなNHKの宿命を、鮮やかに解き明かしていく。
現在進められているNHK改革論議に、多くの示唆を与えてくれる一冊である。【評 音好宏(上智大助教授)】
| 中世の旅芸人―奇術師・詩人・楽士 | |
![]() | ヴォルフガング ハルトゥング Wolfgang Hartung 井本 〓二 法政大学出版局 2006-12 売り上げランキング : 9558 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
四半世紀ほど前、中世の民衆史が日本でも流行したが、本書の描くヨーロッパの中世像は驚くほど新鮮で奥深い。著者は社会の辺縁にアウトローとして生きた旅芸人に光を当てながら、宗教的な倫理が浸透し現世の欲望を否定したはずの、ヨーロッパの中世キリスト教社会の表向きの顔を、次々に剥(は)がして見せる。
封建時代、日常の重たい秩序や規制に縛られた民衆は、旅芸人の刺激的な演劇、見世物(みせもの)、卑猥(ひわい)な語り、色っぽい踊りから、束(つか)の間の心の高揚、生の喜びを得た。
観客は農民や都市の民衆だけでない。宮廷の王侯貴族も旅芸人を手厚くもてなし、神に仕える聖職者も現世的欲望を抑えられず、司教や大修道院長さえ旅芸人の上演に没頭したという。社会から排斥されつつ、求められる。旅芸人は蔑視(べっし)と喝采の狭間(はざま)に生きた両義的な存在だった。年の市や村の広場、宿屋兼食堂、教会、墓地等、旅芸人の活動の場に著者が拘(こだわ)るのも嬉(うれ)しい。
古代ローマの演劇・見世物との繋(つな)がりと断絶を論じ、中世旅芸人の起源を明かす。宮廷内での多彩な演劇、祝祭の記述を読むと、中世がルネサンスの宮廷文化を先取りしていた様子も分かる。演劇史の見直しを迫る書でもある。【評 陣内秀信(法政大教授)】
| 「大菩薩峠」論 | |
![]() | 成田 龍一 青土社 2006-10 売り上げランキング : 27829 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
作者中里介山が「世界第一の長編」と豪語した大河小説『大菩薩峠』は、近代日本の地平に聳(そび)える巨峰である。
頂上では、盲目の剣士机龍之助をはじめ数多の作中人物の群像が、山霊のように奇怪な乱舞を繰り広げながら読者を待っている。
これまで登攀(とうはん)をこころみた読者には何回かの波があり、この巨大作の読み方自体が思想史の関数だったといえる。一九五〇年代の「土俗」、七〇年代の「民衆」、九〇年代の「ユートピア」と各世代に固有のキーワードを登山用具にして踏破をめざしてきた。本書で著者が仕掛ける解読装置は「帝国」である。
着眼点は、物語内時間と執筆時間との極端な不均衡だ。介山が大正二年(一九一三)から昭和十六年(一九四一)まで無慮二十八年の歳月と一万四千枚を費やして描いた《もう一つの幕末史》は、安政五年(一八五八)から慶応三年(一八六七)までのわずか九年間である。
永遠に明治を迎えない幕末の時間が内側に折れ込んで密度を高める一方で、作者の属する時間は満州事変から日米開戦へと日本の「帝国」が膨張の頂点を極めようとしていた時代であった。著者は昭和五年(一九三〇)に折り返し地点を想定し、『大菩薩峠』の物語は「絶えずその時点での問題をとり込みあらたな論点として提起していく」と指摘している。介山の幕末史は同時代史の射影である。無制約に無限増殖する人物と事件の全体がポストコロニアリズムの文脈で展望されている。
あらゆる『大菩薩峠』論の試練は、理論のハーケンを打ち込めばぼろぼろに崩れる日本社会の《無思想》との直面である。かつて堀田善衛が「人民自体の音無しの構え」と表現した不気味な受動性、現代に即した譬(たと)えでいえば、《憲法第九条なんてこともあったかな、は、は、は》と空笑いを響かせる根源的な無関心の岩壁が立ちはだかる。一度は装備を捨て、素手で取り付くしかないだろう。
大菩薩峠は《魔の山》である。登り切ったと思うと、向こうの尾根筋に机龍之助の背姿がまた見えてくる。【評 野口武彦(文芸評論家)】
| 満鉄全史 「国策会社」の全貌 | |
![]() | 加藤 聖文 講談社 2006-11-11 売り上げランキング : 1343 おすすめ平均 ![]() ややこしい。Amazonで詳しく見る by G-Tools |
「満州」は中国の領土でありながら、多くの日本人が特権的な利益を享受できる、戦前日本の代表的な「外地」であった。その地で最大の日本企業が南満洲鉄道株式会社、いわゆる満鉄である。その満鉄は、06年11月に創立百周年を迎えた。これを期して新進とベテランの研究者が、それぞれ満鉄に関する著作を公刊している。
若手の加藤聖文は、満鉄は鉄道会社というより、日本の国家戦略を推進する「国策会社」としての政治性が特徴だという観点から、コンパクトな通史を描いてみせる。特に山本条太郎・松岡洋右らの満鉄総裁を始め、満鉄をリードした多くの人物に光をあてることで、生き生きとした満鉄経営史を描いている。だが政治性ということの半面は、中国の軍閥と民族運動、日本の政党、外務省、軍部の織りなす内外の政争に巻き込まれることも意味していた。その対立を超えて一貫した満鉄経営の方針を持てなかったことが、満鉄の悲劇だったと加藤は捉(とら)えているようである。
ベテランの小林英夫の著作は、小林がこれまで進めてきた満鉄調査部研究の総集編となるものである。加藤の師でもある小林は、満鉄調査部が「満州」の経済調査の域を超えた政治的な調査に携わっていたことを重視している。調査部はロシア革命後からソビエトの革命政権の調査を開始し、それは45年の独ソ戦の報告まで続いた。また30年代中葉には日本軍の華北分離工作の先兵となって、軍に守られつつ華北の経済資源調査を行ったという。小林の研究は、調査部員の意識や生活にまで及んでいて興味深い。
両書で気がついたのは、満鉄の経営戦略にも調査部報告の中からも、「満州」の日本人の周囲で独自の経済発展を遂げていた中国人の姿が、ネガ像のように浮かび上がってくる点である。おそらく「外地」で特権を謳歌(おうか)していた多くの日本人には、「遅れた」中国しか見えなかったであろうが、満鉄の当事者は経済的実力を蓄えつつある中国人の世界を意識していた。今日の日中関係を考える上でも、示唆的な本といえよう。【評 赤澤史朗(立命館大学教授)】
| 失われた町 | |
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世界は理不尽なものなのか。だとしたら、人間だけはその理不尽さに抗(あらが)うことができるのだろうか。読了後も静かなめまいがずっと続くような小説だ。
デビュー作『となり町戦争』で町どうしに戦争をさせた著者は、今回は町をまるごと消滅させた。共通しているのは、いずれも「理由はないが不可避」という点だ。
町の消滅とは何か。それは、「およそ三十年に一度、何の前触れも、因果関係もなく、一つの町の住民が忽然と姿を消す」ことだという。消滅したのは月ケ瀬町という町だが、人々はそれを新聞に載る数行の「お知らせ」で知るしかない。消滅に関心を持ちすぎたり住民が失われたことを悲しんだりするだけで、消滅がさらに広がる「余滅」と呼ばれる現象が起きる可能性があるからだ。同時に、国民の中には消滅に関わりを持つ人への差別感情も存在する。町の消滅はなかったことにしたい、そしてなるべく関わりたくないというのが、行政と国民に共通する思いなのだ。
「悲しむことさえ許されない」というこの恐るべき「管理された無関心」の中でも、やはり少数の例外者はいる。この消滅現象に関わる唯一の行政機関である消滅管理局の人々と、町に住んでいた家族や恋人を失った痛みを抑制しきれない人々だ。「余滅」に巻き込まれるリスクを背負いながらも次回の消滅を防止する対策を講じようとする管理局の職員の中には、何らかの形で自らも過去の消滅事件と関わりを持ち、それゆえに社会では差別されている人も少なくない。
その少数の例外者たちを追いながら、淡々と物語は進む。管理局の「消滅予知委員会」で働く白瀬桂子もそのひとり。感情の抑制を義務づけられている桂子の孤独を癒やすはずの恋人は、彼女が前回の町の消滅での「汚染者」であることを知ると、あわてて去って行く。「別れ」にすでに慣れてしまった桂子の心を次に動かしたのは謎のカメラマンだったが、彼もまた「澪引(みおび)き」ということばを残して「西域」と呼ばれる国外の地へと帰ってしまう。町の消滅も人の喪失も、仕方のない運命なのだろうか。それとも、人はそれを知恵と努力で回避できるのだろうか。それは桂子に限らず、物語に登場するすべての人物にとっての問いでもある。
この小説を、私たちは幾通りにも読むことができる。まずはSFとして、家族や恋人の喪失と再生の物語として、そして理不尽が横行する現実世界のメタファーとして。消滅した月ケ瀬町を財政破綻した夕張市に置き換えてみると、とたんにこの幻想的な話がシビアな行政批判にも見えてくる。救いは、全編を通じてかすかな「希望」だけは決して失われていないところだ。理不尽を「宿命」などと考えて受け入れずに抗うことこそが、絶望の中にある人間に残されている最終的な権利なのではないか。
娯楽作品としてもっと気軽に楽しむこともできそうだが、読む者にどうしてもそれを許さないだけの静かな迫力が、この小説には潜んでいる。【評 香山リカ(精神科医・帝塚山学院大学教授)】
| どれくらいの愛情 | |
![]() | 白石 一文 文藝春秋 2006-11 売り上げランキング : 454 おすすめ平均 ![]() この作品で「直木賞」を!! 今一番お薦めの作家。 思考の動きの順Amazonで詳しく見る by G-Tools |
中篇三作と長篇一作が収録された作品集である。三十九歳の女性が人生の岐路にたつ「20年後の私へ」、有名作家の死を巡って編集者夫婦に亀裂が入る「たとえ真実を知っても彼は」、不倫中の若い女性が答えを見いだす「ダーウィンの法則」、そして五年前に別れた女性との関係を描く長篇「どれくらいの愛情」だ。
いずれも隠された事実を小出しにして主人公の状況を追い、より苦悩を深めていく。白石一文は抜群の語り部だが、本書でも巧妙に物語を運び、人間ドラマを前面に出す。読者は物語の面白さに引きこまれ、人物たちに感情移入して、生きることの困難さに立ち会うことになる。そう、白石はここでも、生きることの意味を一つひとつ問いかけ、問題点を剔出して力強いメッセージを示す。つまり、人生は充分に生きるに値し、人は人を幸せにするためにあり、愛を失うことを決しておそれてはいけないし、絶望は深い愛を知る手だてでもある、と。
そんなふうに紹介すると辛気臭く思われるだろう。帯に「これが2006年の涙です」とあるが、涙腺を刺激する話でもない。作者は読者が抱く欲望にそうのではなく、むしろそわない方向に連れ出して深く心に感じ入らせる。
人物たちがごく普通に「お告げ」「魂」「生まれかわり」「運命」等の言葉を使うので読者を選ぶところがあるが、それは作者が「目に見えないものの確かさ」を意図したからである。「目に見えるもの」がすべてではなく、むしろ目に見えないものの中に大切なものがあることを訴えている(たとえば「20年後の私へ」で語られる“若々しい、自由な心”というくだりの、何と感動的なことか!)。
小説がもつ人生論の側面を、これほど強くうち出す作家も、近年では珍しいだろう。だが昔から文学は、如何に生きるべきかを熱く論じる書物として大衆の支持を受けてきたのではないか。白石一文の小説はいわば、文学のど真ん中直球である。僕らはストレートに繰り出される数々の箴言にうたれ、人物たちの真摯で切実な思いに心を熱くする。忘れがたい人生讃歌集だ。【評 池上冬樹(文芸評論家)】
| シネマ〈2〉時間イメージ | |
![]() | ジル ドゥルーズ Gilles Deleuze 宇野 邦一 法政大学出版局 2006-11 売り上げランキング : 1474 おすすめ平均 ![]() 時代を超えた名著Amazonで詳しく見る by G-Tools |
映画手法の転換、作り手の苦闘の物語
第二次大戦後、イタリアでネオレアリズモという映画運動が起こる。ロッセリーニを先頭に、現実の荒々しい感覚を伝える映画が作られる。
そして一九六〇年前後、フランスでヌーヴェル・ヴァーグが巻きおこる。ゴダールらが映画作りの文法を変えた。
ドゥルーズは、この二つの出来事とともに、映画は古典時代から現代に入ったと主張する。映画の古典時代と現代を分かつものは何か。それは〈運動イメージ〉から〈時間イメージ〉への転換である。
映画の最小単位であるショットは物や人の動きを映しだす。これが〈運動イメージ〉である。運動は、時間という変化する全体のなかで存在するが、映画で時間を表現するためには、ショットを組みあわせて編集し、間接的に再現するほかない。東京駅で電車に乗る人のショットに、同じ人が大阪駅で降りるショットをつなげば、そのあいだの時間の経過が表現できる。この映画の約束事を支えているのは、感覚運動的な連続性だ。
ところが、ネオレアリズモとヌーヴェル・ヴァーグは、この感覚運動的な連続性を破壊し、運動イメージのスムーズな連鎖による時間の間接的再現を退けた。代わって現れたのが、一つのショットのなかで直接的に時間を露(あらわ)にする〈時間イメージ〉である。
主人公が秩序ある空間のなかで目的に向かって行動する〈運動イメージ〉に対して、人間が無秩序のなかで彷徨する〈時間イメージ〉が映画の最前線を占めるようになる。
「現代的な事態とは、われわれがもはやこの世界を信じていないということだ。……引き裂かれるのは、人間と世界の絆である」
ことは単なる映画の手法の変化ではなく、世界の不可逆的な変化であり、それを感知した映画の天才たちがこの恐るべき事態にどう対処したかという戦いの物語である(その苦闘のなかでドゥルーズも自ら命を絶った)。映画を論じることが、即、人間精神と世界の深みを潜りぬけることに通じる稀有の書物であり、約20年前に書かれたが、世界が混迷を深めるいま、現代的な意義はかえって増している。【評 中条省平(学習院大学教授)】
| 江戸時代のロビンソン―七つの漂流譚 | |
![]() | 岩尾 竜太郎 弦書房 2006-11 売り上げランキング : 1374 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
四周を海に囲われているのに、日本人の気持ちは案外、海に開いていない。海辺の風景は破壊に晒され、海洋レジャーも未発達。それに不満な著者は、江戸時代に多く存在した漂流を通じて、日本人と海のダイナミックな関係を掘り起こす。
日本にも、ロビンソン・クルーソーさながらに孤島で生き残りに成功し帰郷した漂流者が多い。だが鎖国政策の幕藩体制の下、その情報は封印され、陸の論理を強めた近代には忘れられたという。帆柱一本の千石船しか許されない江戸時代。沿岸航法に頼ったが、嵐が来れば漂流に繋がった。しかも和船は頑丈で長期漂流に耐えたから、日本に漂流記の類が多いというのだ。
南海の孤島、鳥島がまずその舞台。三つの漂着事例を読むと、水と火の調達、魚釣りの工夫、アホウドリを食料ばかりか衣服の材料にしたサバイバル精神に驚かされる。他の漂流船の残骸で船を建造し、帰還した話も凄い。北方のアリューシャン列島、東南アジアの島でのサバイバルでは、欧米やロシア、中国の船に救出され、列強の思惑に振り回された和製ロビンソンが少なくない。
海の論理の復権とサバイバル力の再評価を説く文明批判の書でもある。【評 陣内秀信(法政大教授)】
| 酔いがさめたら、うちに帰ろう。 | |
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なぜ酒を飲むのか、飲んでいることを忘れたいからだという、「星の王子さま」に登場する問答を幾度も思い浮かべた。語り手の「僕」は酒をやめられず、家族に暴言を吐き、離婚されているのだが、そのことを思いだしては飲み続ける。血を吐き、倒れ、意識を失い、このままでは死ぬと医者に断言されても、飲む。
「僕」が強制的にアルコール依存症のための病棟に入院させられるときは、心底ほっとする。ところがこの病棟にいる人々が、一癖ある人ばかり。特殊な環境のなかで、患者たちの妙に子どもじみた欲求が爆発する様は、情けないやらおかしいやら。病人食の「僕」は、みんなの食べるカレーが食べられないことに心底腹をたてるし、食事係をめぐって、大の大人が「ぶっ殺してやる」と叫ぶほどの喧嘩をはじめたりする。軽妙な語り口が、陰惨さなど感じさせず、人の元来持っている滑稽さを浮き上がらせる。
いってはいけない場所は避けて生きる。それが正論だが、人生は正論にはおさまらない。生きることはかくも理不尽である。それでもこの小説が絶望に彩られていないのは、「帰りたい」、そう切望する場所を、理不尽な「僕」が諦めることをしないからだろう。【評 角田光代(作家)】
| ミュージカルが“最高”であった頃 | |
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昨年観たミュージカルでは、三宅裕司率いる劇団SETの「ナンバダ・ワールド・ダンシング」が最高だった。座長たちの即興のみならず、それを支える大沢直行の脚本に舌を巻いた。何しろ、ヒップホップに始まり「踊り」自体の起源をめぐるおもしろおかしい旅に身を任せるうちに、「日本とは何か、西欧とは何か」なる生真面目な問いかけが迫ってくるのだから。
そんなとき、英米演劇批評の権威・喜志哲雄の最新刊を手にしたのは、うれしい奇遇だった。著者はミュージカルの起源をイギリス作家ジョン・ゲイの『乞食のオペラ』(一七二八年)に求め、アメリカにおける本格的ミュージカルの確立をジェローム・カーンの『ショー・ボート』(一九二七年)に見定めたうえで、その黄金時代を一九六〇年から八〇年のあいだと断言する。評価の尺度は明快だ。著者にとってミュージカルとは音楽優位ではなくあくまで言語芸術であり、精緻な脚本で決まる「文学」にほかならない。
この基準で古典とされる作品すら斬りまくり、意外な作品をクローズアップしていく手並みは、まさに名人芸。ミュージカルの真の楽しみ方をじっくり伝授してくれる、これは最高のマニュアルである。【評 巽孝之(慶応大教授)】
| 江戸時代の身分願望―身上りと上下無し | |
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最近の日本では「士」の付く資格が増えてきているという。その心理の奥底には「士分化願望」が流れていると著者は見る。
江戸時代二百六十年は「兵農分離」と「四民平等」の間に挟まれている。支配層になった武士は、無事太平と安民を責務とするだけでなく、社会のお手本となるべき「規範身分」に位置づけられた。「武士になりたい」という欲求には出世欲と向上心とが微妙に結びついている。
著者は江戸時代の士農工商すべての階層に見られる上昇志向を「身上(みあが)り」願望と名づける。またその対極に、一揆・打毀(うちこわ)しなどの形態で間歇(かんけつ)的に出現する「上下無し」の平等願望を置き、両極間の振幅に歴史の位相を見出す。
参照される実例はたっぷりある。農村小作人の本百姓化、幕府旗本のいじらしい昇進運動、屋敷奉公を望む町娘の「玉の輿」夢想、金を出した町人に武士身分を与える売禄(価格表まである!)、儒学者になって士分に出世するルート、幕末の危機に剣技をもって武士身分に取り立てられる登竜門。新選組の登場が社会心理から説明されると、なるほど「浪人」と「浪士」は違うのだと納得する。
現今の格差社会も新たな身分社会とはいえないか。【評 野口武彦(文芸評論家)】
| 不埒な希望―ホームレス/寄せ場をめぐる社会学 | |
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野宿者の現実を「可視化する」試み
東京・新宿駅の西口通路に、円筒を側面から斜めに削ったような形をした奇妙なオブジェが、所狭しと通路脇に配置されている。公共空間に設(しつら)えられたベンチのようにもみえるが、先端が尖(とが)っているので腰をかけることはできない。建築史家の五十嵐太郎氏が排除系オブジェと呼ぶそれらの奇妙なオブジェ群の「展示場」は、かつて段ボールハウスに住まうホームレスたちの「居住地」であった。都市の野宿者たちの姿を不可視化しようとする欲望が、いわば物理的な環境設計の次元で結晶したものといえよう。
本書は、都市空間を「紳士化」しようとする言説と欲望によって、社会的に不可視化されようとしている「野宿者」たちの、生の実践を克明に記述することを企図した七編の論文によって構成されている。日雇い労働者たちが集う「寄せ場」、新宿駅西口地下の「ホームレス」、野宿者たちを労働者として再選別していく場としての自立支援センター、寄せ場に集う外国人や女性野宿者の置かれた状況とアイデンティティー、屈曲と困難を孕(はら)んだ野宿者たちの「抵抗」、「ホームレス襲撃」における「加害」の重層性……。
後書きにも書かれているように、すべての論文に通底しているのは、野宿者たちが置かれた「埒(らち)のあかない」問題を明らかにしようとする意志である。それらは、自立支援によって野宿者たちの身体を、管理しようとする行政や、「情報の受け手が安心して悲惨を消費できる距離を保証」すべく野宿者を脱色するマスコミの姿勢と異なり、野宿者たちの生の現実を徹底的に可視化しようとしている。公共空間において幽霊化されつつある野宿者の身体を、都市空間へと奪還する試みといってもいいだろう。
排除系オブジェに覆われた通路を通って帰宅し、夕方のニュースで「悲惨」を安心して消費するとき、「見えなくなっている」「見ないことにしている」リアル。著者たちの力強い文章によって、読者は自らの目を覆う「目隠し」を取り外さざるをえなくなるはずだ。【評 北田暁大(東京大学助教授)】
| ベビー・ビジネス 生命を売買する新市場の実態 | |
![]() | デボラ・L・スパー 椎野 淳 ランダムハウス講談社 2006-11-23 売り上げランキング : 2991 おすすめ平均 ![]() それは許されることなのか、そうでないのか。読む終わっても自分なりの答えが出ない… 生殖医療の喜びと怖さ 医師よりAmazonで詳しく見る by G-Tools |
「市場」の存在認め、枠組みを作れ
著者は、国際商取引の専門家。数年前に初めて生殖医療や養子縁組の現状を調査して驚いた。代理母6万ドル、卵子5万ドル、養子縁組3万ドル……これはもはや「市場」だ。それなのにこの世界の顧客は市場に参加しているという自覚がなく、商売の基本ルールがない無政府状態にある、と。
子宮や遺伝子や子供を商品とみなして利益を得る人がいる限り、市場の存在を認め、政府が主導権を握り規制の枠組みを作ることが必要ではないか。それが本書の主張だ。
道徳上の解決は目指さないという前提が挑戦的だし、市場と聞いただけで嫌悪感を覚える人も多いだろう。だが、市場の構造を理解するという一点を切り口に不妊治療や養子縁組の歴史をたどることで、何が市場を活性化させたかが実に明瞭になるのだ。
治療が失敗しても顧客が医師を非難せず、価格について議論することさえない不妊治療。技術の進歩で自分と血のつながらない子供を産めるようになり、市場化が加速した代理出産。不妊治療と養子縁組が「互いの代替品」としてもつ密接な関(かか)わり……どれも善意の当事者の神経を逆撫でしそうな記述ばかりだ。仮にも子供や子宮を財産権の対象として論じようとする試みが現状追認につながるという批判もあるかもしれない。
だがどんな純粋な物語が背後にあろうと、大金の動く商取引という側面は否定できない。子供を得ることは個人の営みだとしても、長期的に見れば、保険負担や男女産み分けによる遺伝的構成の変化を通じて社会に影響を与える。背景に経済的不平等や人身売買の疑いがあればなおさら、そんな重要な判断を当事者に任せたままでよいかという疑問もある。硬直した生命倫理の議論に突破口を開くためにも、著者のような手法で論点整理してみることもひとつの手かもしれない。そこからこぼれるものがかえって明確になり、よりよい市場をつくる力となる可能性もある。
著者は調査の過程で数々の悲劇を知り、どうすれば子供を守れるかと考えて何度も涙を流したという。市場を「流通」するのは生身の人間だ。【評 最相葉月(ノンフィクションライター)】







「自己蔑視」との決別。








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