メイン > 朝日新聞日曜版『書評』 > 2007年11月4日~11月11日
アレクサンドル2世暗殺 上
エドワード・ラジンスキー (著), 望月 哲男 (翻訳), 久野 康彦 (翻訳)
アレクサンドル2世暗殺 下
エドワード・ラジンスキー (著), 望月 哲男 (翻訳), 久野 康彦 (翻訳)
解放者皇帝はなぜテロを招いたか
本作の著者ラジンスキーは、先にラスプーチンの評伝を書いて専門の歴史学者から批判を受けた時、「私は歴史家と名乗ったことは一度もありません。私は歴史について書く小説家なんです」と答えたそうだ。
一八八一年三月一日の午後二時十五分頃、ペテルブルグの運河沿いの道路を走ってきたロシア皇帝の馬車に爆弾が投じられた。狙いは外れて馬車は無事だった。しかし不可解なことには皇帝は馬車を降りて岸辺の道路を歩き出し、そこに二発目の爆弾が投げられて今度は皇帝の足を粉砕した。
この破局的なクライマックスから書き始められるアレクサンドル二世伝は、『皇帝ニコライ処刑』『赤いツァーリ』『真説ラスプーチン』に続く《ロシアの悲劇四部作》の完結編にあたるという。前三篇(ぺん)はどれも膨大な史料や関係者の証言を盛り込んで読者を飽かせなかったが、本作も期待を裏切らない。豊富な情報量で圧倒するばかりでなく、正史の足枷(あしかせ)にとらわれない奔放な想像力を武器に使い、歴史の暗い秘密にかぶせられたカーテンを大胆にめくって見せる。
後進国ロシアをヨーロッパの列に加えようと一八六一年に農奴解放を実施し、「解放者皇帝」と呼ばれたアレクサンドル二世が、なぜ全ロシア社会の反感を買ったのか。ロシアの自由化の成果が、ヨーロッパがかつて知らなかった強力なテロ集団の発生だったのはなぜか。著者はこれら一連の《謎》に導かれて書き進む。過去に向かって発されるこの問いかけは、著者自身が比定するように、ゴルバチョフの自由化がなぜクーデターで倒されたかという現代ロシアの問題と反響し合っている。驚くなかれ、「言論の自由(グラスノスチ)」「雪解け」の二語は、アレクサンドル二世の時代に初使用されたキーワードだったのである。
著者が解きほぐすのは、皇帝爆殺に至るシナリオを織りなす複数の糸である。不徹底な改革は、宮廷保守派の不満と「人民の中へ(ヴ・ナロード)」を叫ぶ革命思想の両勢力を同時に増殖した。政治的陰謀はロマノフ家の遺伝的な情欲で彩られ、高邁(こうまい)な理想主義が、その徹底性の故に容赦のないテロリズムに反転する。著者もさすがに断言は保留しているが、アレクサンドル二世を皇位から除くという一点では反動派と「人民の意志」派の利害関係が合致したと見られなくもない。計画が何度未遂に終わっても、最後の暗殺者は逮捕の網を逃れた。
狂言回しとして登場するドストエフスキーの死をめぐる推理が刺激的だ。この作家が『カラマーゾフの兄弟』の続編を予定し、アリョーシャが皇帝を暗殺する構想を立てていた話は有名だが、ラジンスキーは同じ家にテロリストが入居していた事実に注目する。文豪が死んだ日に、隣室の住人が逮捕連行されたのはたんなる偶然であろうか。
本作の魅力は、宮廷から地下生活者までを重層させる声部の豊かさだ。分厚い社会風俗の渦巻きを皇帝と二十四人の執行委員会の対決に絞り込む作劇術に引き込まれる。行間に「テロとの戦い」の行く末が、黙示録の暗号のように書き綴(つづ)られていないだろうか。【評 野口武彦(文芸評論家)】
中華文明と中国のゆくえ
ワン ガンウー (著), 加藤 幹雄 (翻訳)
統治は権力行為である。民主主義国家においてもそのことにかわりはない。ただ権力の持続性は、権力を行使される側の同意に依存する。議会制民主主義はこの同意の調達を合理化する過程で生み出されたものだが、この合理化が100%果たされた国などない。権力が正統化されるスタイルは、国ごとの歴史的な経験に大きく依存する。
中国も、もちろんその例外ではない。というより、その歴史的な経験の厚みは他を圧している。この厚みを理解せずに抽象的な原則を振り回しても、中国を理解することはできない。
中国においてこの歴史的経験の厚みは、「文明」と「皇朝(皇帝を戴<いただ>く王朝)」の同一視という強固な枠組みを構成した。文明としての中国国家は、自らの道徳的価値の普遍性に関して外部からの挑戦を予(あらかじ)め免れるかたちで構築された自己理想の体系であり、皇朝としての中国国家は、現実の統治権力として、首都を掌握する軍事的勝利と「外国」からの承認とを根拠とする。
両者を同一視することの整合性の度合いが中国史のダイナミズムだというのが著者の見立てだ。ツールは単純だが、切れ味は鋭い。鄭和の大航海が突然停止になった理由から、孫文から袁世凱への権力移譲、果ては毛沢東のカリスマ性の根拠まで、縦横に見通しがきく。
その上で著者が強調するのは、中国が現在なお「皇朝国家」から「国民国家」へ脱皮の過程にあるということだ。日露ふたつの脅威に挟まれた前世紀初めの中国にとって、皇朝の論理の代替は、ナショナリズムとコミュニズムという狭い選択肢以外にはなく、蒋介石の党にせよ毛沢東の党にせよ、党は疑似皇朝としてしか持続性を持ちえなかった。
しかし疑似皇朝としての党の正統性にも限界が見え始めている。華僑知識人である著者が期待するのは、「文明」の概念が「皇朝」から切り離されることで、より開放的な国民統合の論理が構築されることだ。決して容易ではないその過程の必須の条件のひとつは、中国を孤立させないことである。【評 山下範久(立命館大学准教授)】
移民国としてのドイツ―社会統合と平行社会のゆくえ
近藤 潤三 (著)
7月の参院選の結果、衆参両院で多数を占める政党が異なるために重要な政策決定ができず、政治空白が生じていると批判する者がいる。しかし、統一以降のドイツでは、政府を支える連立与党が連邦参議院で少数派になるという逆転現象が常態化しているのにも関(かか)わらず、重要な政治決断が行われている。
その一つが、本書のテーマである移民問題。紆余曲折(うよきょくせつ)を経ながら、時間をかけて各党がお互いの主張をすりあわせて政策合意をしていく姿が克明に映し出されている。
まず、「ドイツは移民国ではない」という長年にわたる政府公式見解とは裏腹に、住民の約2割が外国人または本人や親などが移民という現実がある。そして、産業立国を目指すドイツにとって、大量に不足しているIT(情報技術)関連専門家など外国人技術者を招き入れたい経済界の意向と、労働者側の失業への懸念とが交錯していた。
こうした状況の中で、ドイツ社会民主党(SPD)のシュレーダー首相(当時)が、キリスト教民主・社会同盟(CDU・CSU)と調整を繰り返し、移民法を一旦(いったん)は成立させた。だが、連邦参議院(日本の参議院とは異なり、連邦各州の代表者たちで構成)の採決手続きの不備から出直しとなり、両院協議会を経て法案成立に至った。
そして、最終的に05年に施行された移民法は、高度な専門技術や資産を持つ自営業などドイツの経済活性化に寄与する者を誘致する一方で、移住を許可する外国人について人物照会を行うなど、与野党の妥協の産物であった。それでも各党の主張の違いを乗り越えて一致にたどり着いた背景には、首相や党首たちによるリーダーシップがあった。
その後も、所轄大臣まかせではなくCDUから出たメルケル首相自らがこの問題を担当し、政府や自治体、労使代表のほか、移民団体やメディア、宗教、学識者も加えた「統合サミット」の開催をはじめ、各党が歩み寄って移民の統合問題を解決しようとしている。翻って、わが国の政治はどこに進もうとしているのかと考えさせられる。【評 小林良彰(慶応大学教授)】
| 日本橋バビロン | |
![]() | 小林 信彦 文藝春秋 2007-09 売り上げランキング : 11840 おすすめ平均 ![]() ペダンチック 小説の醍醐味 日本橋東部の過去100年栄枯盛衰叙事詩Amazonで詳しく見る by G-Tools |
レトロだとかなんとかって東京の下町は、雑誌なんかにも特集記事が載る、いまや憧(あこが)れの対象だ。だけど私たちはほんとの下町を知らない。下町と聞いて日本橋をイメージする人も多くはないだろう。日本橋って安藤広重の東海道五十三次の? 橋の上には高速道路が走ってて三越と高島屋があって……。小林信彦が不機嫌になるはずである。
『日本橋バビロン』の舞台は現在の中央区東日本橋。隅田川にかかる両国橋の西岸である。かつてこの一帯は、両国または西両国と呼ばれていた。そして、その一角に享保8年(1723年)から続く老舗(しにせ)の和菓子屋・立花屋本店はあった。本書はこの和菓子屋の八代目と九代目、さらに十代目になりそこねた少年の三代にわたる物語なのだ。
叩(たた)き上げの製菓職人から立花屋に婿入りし、「お祖父(じい)さんは偉い人だった」とみながいう職人気質の八代目。自らオースティンを運転し、映画や演劇を好む趣味人だったがエンジニアになる夢を捨てて家業を継いだ九代目。二人の人生は東京下町の大正昭和の歴史そのものでもある。
最初の試練はいわずと知れた関東大震災。日本橋区はことごとく焼失し、改装したばかりの立花屋も焼けた。2度目の試練はこれもいわずと知れた東京大空襲である。
物語は九代目の長男である「私」の視点から町と一家の変転を丹念にたどってゆくのだが、これがまあ「ひとんちの話」であるというのに、えもいえずおもしろい。
〈「信(のぶ)ちゃん、戦争が始まったよ」〉。少年は〈新聞一面の敵艦の沈む写真をじっくり眺め、大きな活字で戦果を確認〉するために菓子のショウケースの上を飛んだ。
昭和の旧日本橋区を内側から書いた書物は一冊もない。だから書いたのだと著者は述べる。立花屋とはもちろん作者・小林信彦の生家なのだ。
敗戦から40年たって、立花屋があった場所を訪れてみると……という結末が、すばらしい。おおおおおお。祖父の執念、あんこに宿り!
私小説ではなく、とある商家と町の物語。雑誌の下町特集がバカらしく思えてくる。【評 斎藤美奈子(文芸評論家)】
| ミッドナイト・クライシス | |
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茅野裕城子は、当代きってのユーモア作家だ。ふつう中高年女性の妊娠・閉経を含む微妙な恋愛心理と聞けば、はなはだ深刻な素材のように響くかもしれないが、いったん彼女の手にかかると、抱腹絶倒の連作短編集が生まれ落ちる。
表題作の主人公・銀子は40代後半。親友のルリが亡くなり、残された彼女の夫・氏家と遺品を整理しネット競売にかけていくうちに、彼と親密な関係になるも、整理が一段落したあとには、もうひとりの親友・有為のいるサンフランシスコへ旅立つ。ところが再会した有為は、これまで「子供なんか必要ない」とくりかえしてきたものの、生理の遅れを理由に「妊娠したかも」と言い出す。「暗い出口のみえないトンネルの中で迷ってしまったよう」な閉塞(へいそく)感から来る現状打破への焦り、これをアメリカでは「ミッドナイト・クライシス」と呼ぶのだと、銀子は聞きかじる。
かくして生と死、生理と整理とが絶妙に絡み合う。と思いきや、何とこの症例名自体が「ミッドライフ・クライシス」の聞き間違いであったことが判明する。
続く2編「ペチカ燃えろよ」「ダライ・ママ」ではさらに、ヒロインたちの人生に衝撃的なひねりが加わり、長編と見ても味わい深い。【評 巽孝之(慶応大教授)】
| 龍の棲む家 | |
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親が突然、別人になってしまう。カフカの『変身』さながらの不条理な出来事が、身辺で日常茶飯のように起きている。虫に変身するわけでなく、外見はまったく変わらぬだけに、対処の仕方がむずかしい。
徘徊(はいかい)をはじめたとき、幹夫の父は子どもの昔に帰っていた。しかし、龍(りゅう)が淵(ふち)公園にくると、かれは、市長の開発計画を阻止して龍が淵の遺跡を守りぬいた市役所の土木課長に戻り、また社会福祉課の課長となって、引き取り手のない遺体を案じたりする。
その公園で出会った介護福祉士の佳代子は幹夫に、ひたすら寄り添うのが介護の原則だと教え、ふたりで父の記憶のなかの人物を演じつづけるうち、互いに共感を抱く。どちらも伴侶と別れたばかりだったし、妻を失った父は嫂(あによめ)の死のあと認知症になったのだ。登場人物は欠損によって共通している。
やがて佳代子が介護ヘルパーとして来宅し、家族の絆(きずな)が生まれようとした時、父の内面に龍が淵の龍のように潜んでいた「自然」が凶暴な本性を現す……。
一筋縄ではゆかぬ病気と介護を描いて巧妙だが、第一作『水の舳先(へさき)』からの読者としては、予定調和の物語を乗り越えてほしい、と願わずにいられない。【評 杉山正樹(文芸評論家)】
| 「自由」は定義できるか(木星叢書) (木星叢書) | |
![]() | 仲正昌樹 バジリコ 2007-09-26 売り上げランキング : 755 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
アメリカのイラク戦争の作戦名は、「イラクに自由を!」。自由の強制がいかに不自由をもたらしたかは、周知の通り。なぜそんなことが起きるのか。それは、「圧政からの自由」を目指したはずが、いつのまにか「アメリカ的な社会の実現への自由」の強制にすり替わってしまったからだ。そして、歴史を振り返ると、このすり替わりは「自由の追求」を始めるとしばしば起きることらしい。さらにその背景には、ホッブズ、ルソー以来、議論されてきた「自由」という概念の違いが関係していそうだ。本書を読むと、こういったことがわかってくる。
このように長い歴史を持つ「自由」問題だが、とくに現代では、「経済」を軸にして「自由」をイメージし、制度化しようとする人たちがその前提とする「自己決定」とその結果である「自己責任」の是非が論争のテーマとなっている。「自己決定」に異議を唱える人たちの主張は、社会的に抑圧されている人に真の「自己決定」はできないのだから、まずその「抑圧からの自由」が必要というもの。私も臨床の場で、心を病む人たちが主張する「自己決定」が病が癒えると簡単に覆る様子を見てきたので、その立場。
しかし著者は、このように抑圧からの全面的解放を求め始めると、冒頭のアメリカのような“究極の自由”の幻想にとりつかれ、他人にも強制する危険性がある、と警告を発する。そして、自己決定論の是非を問うことよりも重要なのは、多くの人がそれを十分に行使できるように支援するシステムを作ること、と提案する。まさしくその通りだが、実現は簡単ではない。
「自由」について概説的にわかりやすく述べ、さらに現代社会が直面する「自由をめぐる混乱」をリアルに切り取った意欲作であるが、やたらと「サヨクの人々に文句を言われるのは承知の上で」といったフレーズが出てくるのにはかなり辟易(へきえき)した。「自分こそ正義」と思い込む人に著者が反感を覚えるのは理解できるが、その人たちにこそ本書を読んでもらう必要があったはずなのに残念だ。【評 香山リカ(精神科医)】
| 虫食む人々の暮らし (NHKブックス (1091)) | |
![]() | 野中 健一 日本放送出版協会 2007-08 売り上げランキング : 1199 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
糞虫(ふんちゅう)、コオロギ、ケラ、セミ、イモムシ、タガメ、カメムシ、アリと聞いて、その共通点がおわかりだろうか。みんな昆虫という答えはあたりまえすぎる。
ではこのリストに、クロスズメバチ、イナゴ、蚕のさなぎなどを加えたらどうか。疑心暗鬼ながら、もしかしたらと思う人もいることだろう。そう、いずれもみな、世界各地で食用に供されている昆虫なのだ。それにしても糞虫(牛などの糞を丸めて食べるコガネムシ)やカメムシを食べるなんて、およそ考えられない。だって、臭(にお)いがすごそうじゃないか。
人文地理学が専門の著者は、世界各地の昆虫食を研究テーマの一つとしている。昆虫食イコール下手物(げてもの)食と速断してはいけない。伝統的に行われている昆虫食も、食文化の一部なのだ。その証拠に、昆虫食が行われている土地でも、採れる虫ならなんでも食べているわけではない。しかも、採集方法や調理方法などには、それぞれ秘伝ともいうべき流儀がある。
日本の一部で行われている蜂採りは、地域の人たちにとっては、娯楽であると同時に季節の風物詩でもある。著者によれば、クロスズメバチの巣を庭に移植して収穫時期を待つことまで行われているというからすごい。
東南アジアや南アフリカの市場では、季節になると嗜好(しこう)品として虫が売られており、産業として成り立っているという。それ以上に重要なのは、人と自然とのつながりの中で、昆虫食の文化が維持されているということだ。豊かな自然が残されており、自然を熟知していてこそ、成り立つ文化だということだろう。
そこでカメムシの食べ方だが、南アフリカでは、熱湯をかけて臭み抜きをした上で干物にし、そのまま食べる。一方ラオスでは、そのまま焼いたり炒(いた)めたりして食べる。これは、虫の種類や嗜好の違いによるものなのだろう。
では糞虫は? お目当ては糞玉の中にいる丸々と太った幼虫なのだが、これは収穫時期が肝心。絶食してさなぎになる直前じゃなきゃいけない。なんとも奥の深い話だ。【評 渡辺政隆(サイエンスライター)】
| マルクスの亡霊たち―負債状況=国家、喪の作業、新しいインターナショナル | |
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マルクス=エンゲルス共著の『共産党宣言』(1848年)冒頭は、誰もが知っている――「亡霊がヨーロッパに取り憑(つ)いている――共産主義の亡霊が」。
そしてシェークスピアの『ハムレット』(1600年頃)冒頭が「誰だ?」の一言で始まり、第一幕第五場にて元国王である亡父と対面したデンマーク王子が「時代の蝶番(ちょうつがい)が外れてしまったのだ」と呟(つぶや)き、第三幕第一場の名独白冒頭へ続くことも、誰もが知っている――「生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ」。
フランス系ポスト構造主義思想家デリダの後期代表作は、250年ほども隔たるこれらふたつのテキストを一気に接ぎ木してみせるという、驚くべき離れ業で幕を開ける。しかも、西欧形而上学(けいじじょうがく)の歴史においては、比喩(ひゆ)として以外まともに取り上げられることのなかった「亡霊」が中心テーマなのだ。なぜか?
本書のもとになったのは、カリフォルニア大学リヴァーサイド校にて1993年4月に行われた会議の講演草稿であり、同年中に公刊された。当時といえば、1991年に米ソ冷戦が終結し、アメリカを中心とした自由主義が覇権を握り、先代ブッシュ大統領が新世界秩序の構想のもとに湾岸戦争を行った時代。1992年11月に選出されたクリントン大統領に政権交代してもなお、グローバリゼーションの名の下に世界のアメリカ化が続き、マルクスと共産主義は、まったくの過去の遺物として葬られようとしていた時代であった。
折も折、ヘーゲル学者コジェーヴの学統を継ぐフランシス・フクヤマが、冷戦解消直後、1992年に『歴史の終わり』を刊行して、ベストセラーとなる。もともとコジェーヴは、戦後アメリカにおけるマルクス主義的「共産主義」の最終段階は人間を動物性にまでおとしめると断言したが、1959年の日本旅行をはさんで軌道修正し、そうした歴史の終わりにはさらに風流な、よりスノッブな極致があるのであり、それこそは日本的な「ポスト歴史性」だと考え直す。
デリダはそうしたコジェーヴの解釈をシニシズムに彩られた楽観主義と一蹴(いっしゅう)、その理論を発展させたフクヤマもまた、人類の一貫した方向性のある歴史がテロリズムやホロコーストを経由しても「結局はリベラルな民主主義へ導く」と断定した点において軽率で、情状酌量の余地が少ないと批判する。というのも、民主主義とはとうに実現している制度であるどころか、たえず事実と理念とのあいだで失敗し隔たりをもち、「その間隙(かんげき)のなかでしか現れることのできない約束の理念」すなわち「来るべき民主主義」であるからこそ有意義なのだから。存在するか存在しないかのどちらかではなく、存在か非在かを決定するぎりぎり手前のところで踏みとどまる思考の水準において、「亡霊」が特権化されている。マルクスの『資本論』第1巻(1867年)冒頭は商品の使用価値のみならず神秘的性質を洞察したが、そこに斬新なる亡霊の理論を適用することで最大の批評的クライマックスを迎える本書は、あたかも上質のゴシック・ロマンスにも似た感動を与えるだろう。【評 巽孝之(慶応大学教授・アメリカ文学)】
| 有頂天家族 | |
![]() | 森見 登美彦 幻冬舎 2007-09-25 売り上げランキング : 146 おすすめ平均 ![]() 奥ゆかしさ・バカバカしさ・妖艶さ ぷりぷりのけぽっ 有頂天家族Amazonで詳しく見る by G-Tools |
桓武天皇の御代、万葉の地をあとにして入来たる人々の造りあげたのが京都である――と、これはあくまで人間の見た歴史だ。狸(たぬき)に言わせれば、平家物語に出てきた武士、貴族、僧侶のうち、三分の一は狸だし、天狗(てんぐ)に言わせれば、王城の地を覆う天界は、古来、彼らの縄張りであった……?!
人を食った出だしの小説である。京都にはいまも、人間と狸と天狗が「三つ巴(どもえ)」で暮らしているというのだ。
本書は、あのジェントルでいけずで奇っ怪な「京風ホラ話」にして、時代を超えたラブコメディーの傑作『夜は短し歩けよ乙女』で人気沸騰中の著者による新作長編だ。今度もまた、氏がテリトリーとする京都の街を舞台に、作者十八番の「偽電気ブラン」や「腐れ大学生」が登場し、あやしいキャラクターがぞろぞろ。なにしろ語り手は、存命中は洛中に名をとどろかせた大狸の「阿呆(あほう)な」三男坊。準主役に、その敵対家と天狗先生たち、マドンナに、天狗顔負けの術を習得した「半人半天狗」の美女という具合だ。
狸鍋となって死んだ父、宝塚歌劇団狂いの母、四人揃(そろ)ってさえない息子たちの家族愛あり、報われぬ老いらくの恋あり、化かし合いあり。森見風ボキャブラリーを駆使した古風で斬新な文体には、くすぐる小ネタも満載で、どんどん読ませる。
『夜は短し……』では現実世界と魔界のあわいが絶妙に書かれていたが、本作は実在の街(と思われるもの)を舞台にしながら完全に異世界ファンタジーである。人間界を舞台にしながら人間との相違・対比があまりない。そこがわたしにはちょっと勿体(もったい)ない気がした。狸、天狗にしか持ちえぬ視点や世界観、言ってみれば「異類のもたらすセンス・オブ・ワンダー」をもっと体験したかった。作者の前作群においてたとえ人間同士の間にも「異類への驚異」が充(み)ちみちていたように。それにしても、独自のみやびな文体作りの武器であったある種の「含羞(がんしゅう)」から、森見氏はいい意味で解放されつつあるのではないでしょうか。さらなるブレークの予感がする。【評 鴻巣友季子(翻訳家)】
| さまよえる工藝―柳宗悦と近代 | |
![]() | 土田 眞紀 草風館 2007-08 売り上げランキング : 4652 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
近代日本の工芸史である本書のタイトルは、近代日本の美術の世界で曖昧(あいまい)な地位に置かれていた工芸の担い手たちが、自己の固有の美と存在理由を求めてさまよってきた歴史を、一言で示したものだ。近代日本において織物や陶磁器、漆器などの工芸品は、古めかしい前近代的な産物と理解されていた。それらは個性的な創作とは対極の、型どおりの職人仕事として低く見られていたのである。
本書はこの中で近代の工芸作家たちが、どのように試行錯誤しつつ古い殻から抜け出そうとしたのかを跡づけている。そしてその近代工芸の立場を表現した一つが、思想家の柳宗悦(やなぎむねよし)の民芸の思想だったと位置づけるのである。
民芸が近代工芸の思想だとは、不思議な印象を与えられるだろう。なぜなら民芸品は、地方の無名の工人によって作られた、昔ながらの庶民の実用品だとされたからである。でも、柳の日本民藝(みんげい)館に所蔵された数々のコレクションは、伝統的な価値観から自由な、柳の個人的な「眼(め)」で選ばれた美しい工芸品であった。素朴な美しさを打ち出した民芸の立場は、しばしばアマチュアのもつ新しさを尊重する近代工芸の世界に、一致するものであった。
ただし著者は、作られた工芸品とそれを作る人の思惑との間に、さまざまなズレがあったことを重視している。古い職人世界の否定が、直ちに近代的なデザインの作品を生み出したわけではない。その種のズレは、柳の民芸の思想と彼が蒐集(しゅうしゅう)した民芸品との間にもあった。柳は朝鮮の陶磁器の美を「悲哀の美」と説明したが、彼の朝鮮関係のコレクションはそれに限らぬ多様な美しさに満ちていた。
美術館では近年、見捨てられていた近代日本の工芸品に光をあてる試みをしてきた。学芸員だった著者もその担い手の一人である。本書はこの流れに立って、作られたもの自体が訴えかける美の主張を拾いあげて、そこから近代日本の工芸やその思想の意味を考えようとしている。ものとの対話から生まれた近代日本の工芸史である点に、その新鮮さがあるといえよう。【評 赤澤史朗(立命館大学教授)】
| 捨てられるホワイトカラー―格差社会アメリカで仕事を探すということ | |
![]() | バーバラ・エーレンライク 曽田 和子 東洋経済新報社 2007-09 売り上げランキング : 360 おすすめ平均 ![]() 転職活動ルポ 中国・インドに侵食されるアメリカAmazonで詳しく見る by G-Tools |
失業者に扮して職探しに挑戦
貧困と無縁だったホワイトカラーの専門職や管理職が、アメリカでは生活不安に晒(さら)されている。より良い職を求めて自発的に失業することはあっても、会社から「捨てられる」ことはないと信じてきた「中流の立派な」人たちが、いまや「突然に解雇や休業を言い渡されるのではないかと心配してい」るのだ。
コラムニストの著者は、アメリカでミリオンセラーになり昨年邦訳された『ニッケル・アンド・ダイムド』を書くために、ワーキング・プアを体験したが、本書ではホワイトカラーの失業者に扮して職探しに挑戦する。小銭で食いつなぐ生活と比べれば、「負担が少ないものになるだろうと」高を括(くく)っていた著者は、「やがて、そのすべてが間違っていたことを思い知らされる」。捨てられたホワイトカラーが希望通りの職に就くのは「ラクダが針の穴を通る」よりもむずかしいからだ。実際、何百もの会社に履歴書を送り、1回数百ドルも支払って職探しの指南を受け、エレベータースピーチ(自己PR)の練習に励んでも、まともな会社から「面接をしたい」と返事がくる確率はゼロに近い。
1年近くに及んだ著者の職探しの成果も、わずか2カ所から採用の申し出を受けたにすぎない。それも会社から保険や化粧品の販売委託を受け、売り上げに応じて手数料が入るだけで、健康保険の「特典」もなく「多くの人々が、破産したり……貧困ラインすれすれの収入を稼ぐためにあくせく働いている」ような仕事である。
捨てられたホワイトカラーの多くは失業保険を打ち切られても、貯金が底をつくまで職を探し続け、最後は「社会の階層を下降」していくという。アメリカでは……が、日本でも……になる前に、「報われる保証はない」会社に忠誠を誓うよりも、「経営者の独断や横暴から身を守るために」日本のホワイトカラーは団結すべきではないか。一生懸命働けば安心と安定が得られると喧伝(けんでん)する会社の「おとり商法」(本書の原題)に、いつまでも騙(だま)されていてはならないのである。【評 高橋伸彰(立命館大学教授)】
| ウェブ炎上―ネット群集の暴走と可能性 (ちくま新書 683) | |
![]() | 荻上 チキ 筑摩書房 2007-10 売り上げランキング : 903 おすすめ平均 ![]() 問題を解決するための本というよりも、こんな問題ありますよと紹介する本 おおむね良好。 丁寧に論じてますよAmazonで詳しく見る by G-Tools |
インターネットの企業や官庁、個人のホームページあるいはブログ(日記形式のサイト)に非難が集中し、ときには閉鎖にまで追い込まれる。ネットの世界では「炎上」と称されるこの現象は、なぜ起きるのか。そもそもネット閲覧はひとりでするものなのに、なぜある時点から集団暴走が起きてしまうのか。
本書では、「炎上」のメカニズムが丹念に解き明かされていく。その原因のひとつ、「サイバーカスケード」とは、最初は個人の考えや発言であったものが、結果的に集団として極端なパターンに流れてさらなる集団行動を引き起こす、というネット特有の現象を指す。しかし、極端化はいつもネガティブとは限らず、「遺失物を探せ」などポジティブな行動につながることもある。
次々と紹介される「炎上」の実例を見ながら、そこに可能性を感じるか恐怖を感じるかは、その人次第。著者のスタンスは中立的で、まず「実態を把握することが必要」と言っている。ただ、「炎上」の被害を受けた経験のある人にとっては興味津々のテーマだろうが、ネットを利用しない人にとっては、これ全体が「存在しない世界の話」かも。その乖離(かいり)が、最大の問題なのではないだろうか。【評 香山リカ(精神科医)】
| 仮説の検証 科学ジャーナリストの仕事 | |
![]() | 小出 五郎 講談社 2007-09-26 売り上げランキング : 2421 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
どう科学と向き合うべきか
メディアが、専門知識のない一般の人にも解(わか)るように「科学」を説明しようとするとき、より慎重な姿勢が要求される。安易な解釈や演出に逃げ込めば、メディアと科学の不幸な関係を招いてしまう。私がそのことを肌で感じたのは、この1月にデータ捏造(ねつぞう)が発覚した「発掘!あるある大事典2」問題の外部調査委員を引き受けた時である。
著者も指摘するように、この事件は「科学番組」全体の信頼を揺るがせることとなった。「納豆がダイエットに役立つ」という仮説は成り立つだろうが、真面目(まじめ)に取材・検証すれば、誤りにすぐ気づくはずだ。ジャーナリストは科学とどう向き合うか。その作法を体験的に綴(つづ)ったのが本書である。
特に著者が責任者として84年に放送した「核戦争後の地球」の制作過程と、その「反響」と向き合った様子を記録した本書の後半は圧巻である。放送後、こういう番組を作るためなら受信料を払うと書いた放送ジャーナリストがいる一方、一部のメディアや研究者からは、「欺瞞(ぎまん)」「偏向」の番組として、非難・圧力が加えられる。
著者たちの攻防には、放送が何を伝え、何を守るべきなのかを改めて考えさせられる。【評 音好宏(上智大学教授)】
大量破壊兵器―廃絶のための60の提言
大量破壊兵器委員会 (著), 川崎 哲 (翻訳)
核世界の矛盾に切り込む
英、仏、スペイン、ロシア、アラビア、中国語に続いて、やっと日本語で出版された。大量破壊兵器(核、生物、化学兵器)の廃絶をめざして、世界の専門家たちがまとめた60の提言がわかりやすく解説されている。専門家委員会の代表は、イラクへの国連査察委員長をつとめたスウェーデンのハンス・ブリクス氏だ。日本からは西原正・前防衛大学校長が加わった。
生物・化学兵器ではすでに禁止条約が発効している。そこで提言では、完全な履行と加盟国の拡大を進めることが重要との見方を示す。生物兵器に関しては、「生命科学を敵対的な目的で使おうといういかなる試み」も禁止条約違反であることを再認識すべきだと強調する。
核兵器も、生物・化学兵器と同様に非合法化すべきであるとも強調する。一見非現実的に見えるが、今日の核世界の矛盾に鋭く切り込む、勇気に満ちた提言だ。核不拡散条約(NPT)は、(1)米英仏ロ中の5カ国に核保有を当面認めたうえで、それ以上の拡散を防ぐ(2)5カ国は核軍縮を誠実に交渉する、という枠組みだ。だが現状のままでは、そんな予定調和は幻に終わりかねない。紙背から専門家たちの危機意識がまっすぐ、突き刺さってくる。【評 吉田文彦(論説委員)】
| 犬身 | |
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寡作で知られる松浦理英子の待望の新作である。『裏ヴァージョン』から7年、『親指Pの修業時代』から数えれば14年。もー長かったよ。だけど待っててよかったよ。
こんなとき、犬だったらどうするだろうか。クウンと鼻を鳴らす? 尻尾(しっぽ)をぱたぱた振る? 本を舐(な)めたり甘噛(が)みするだろうか。『犬身』は、もしも自分が犬だったらと妄想させる小説なのだ。
狗児(くじ)市で『犬の眼』というタウン誌の編集に携わっていた房恵は「種同一性障害」を自認するほどの犬好き。犬になりたい――その願望が現実となる日が来て、房恵は人間としての生活をたたみ、本当にふさふさとした毛の仔犬(こいぬ)になってしまった。しかもオス犬。名前はフサ。愛犬を亡くした女性陶芸家にひきとられ飼い犬らしく去勢手術をほどこされ、なでられたりじゃれついたり、至福の生活がいつまでも続く、はずだった。
が、家政婦ならぬ飼い犬は見た! 飼い主の女性一家の尋常ならざる家族の関係を、そしてあってはならぬ光景を見てしまったのである。ワンワンワンワンワンワン。
『吾輩(わがはい)は猫である』以来、猫や犬を語り手にした小説は手をかえ品をかえ書かれてきた。だが『犬身』は、擬人化された犬ではなく、擬犬化された人の物語だといえるだろう。そこでの「犬」は人間社会の観察者という仕掛け以上の意味をもつ。身体は仔犬のフサ、頭脳は人間の房恵。であればこそ生じる、独特のおかしみともどかしさ。
〈梓がフサの毛をまさぐれば、完全に受け身になって梓の愛撫(あいぶ)に浸りたくて、腹を上に向けてひっくり返り「もっと」と促す〉。性愛を超えたそんな犬と人との接触に対置されるのは、ときに支配/被支配に転じ、暴力にさえ転化する(鬼畜みたいな?)人の男女の性的な営みだ。
房恵を犬に変えたニヒルな狼(おおかみ)人間・朱尾(あけお)がめちゃめちゃクール。彼とフサの間でかわされる批評的な会話が小説全体をひきしめる。『八犬伝』『ホテル・ニューハンプシャー』『実録鬼嫁日記』!? 多彩な意匠を織り込んだビタースイートな変身譚(たん)である。【評 斎藤美奈子(文芸評論家)】
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現代の売春を見つめ「聖なる」説を論難
読んで驚く本というものがまま、あるものだが、この本もその類(たぐ)いの一冊であった。まず、内容が想像とはかなり違う。書名こそ売春史だが、読んでみると、『日本売春論史』とでも言った方が近い。いや、それよりも『日本売春論争史』の方がピッタリするか。これを読むと、学界の定説というものがいかに時代やそのときの状況により変転していくものかがわかって一般読者は仰天するに違いない。
さらに、著者の攻撃的な筆致にも一驚を禁じ得ない。売春史においては遊女の起源を天皇直属の職能人と見る故・網野善彦氏や、巫女(みこ)など宗教系のものを祖としているという佐伯順子氏の学説などがあり、どちらも遊女の起源を聖なるものとしているが、著者はそれらを文学的幻想として、激語で論難している。一方で、女性が自分の性を売る自由を認めようという在野の風俗研究家・松沢呉一氏の論も一刀両断である。論争史どころか、この本自体がそういう論戦の火ダネではないかと思える。不謹慎を素人の特権として言わせてもらえば、こういう高名な研究者たち同士のやりあいにはプロレス的な興奮を覚えてしまうのである。
なにも、こんなひねくれた読み方を人にすすめるわけでは決してない。しかし、良くも悪くも著者の個性派学者としての特質はこういうところに表れていて、攻撃的になったあたりの文章はメリハリの利いた名調子であり、読んでいて痛快である。正確さだけがとりえの無味乾燥な文章を書く学者も少なくない中で、貴重な存在だ。また、著者は単に人の誤謬(ごびゅう)を指摘するばかりでなく、話題になった自書『江戸幻想批判』の、遊女の平均寿命の件に関しては素直に誤りを認めて撤回するという、学者としてのフェアさもきちんと見せている。
そして、歴史学に興味のある若い人たちは、その論争の経緯から、歴史の事実というものは一つだけではなく、見方によりいく通りもの解釈が出来るということが学べるだろう。著者の主張を鵜呑(うの)みにせず、一定の距離さえ置いて読めば、学問の醍醐味(だいごみ)である“驚き”を存分に楽しめる。【評 唐沢俊一(作家)】


ペダンチック
小説の醍醐味
日本橋東部の過去100年栄枯盛衰叙事詩








中国・インドに侵食されるアメリカ




