メイン > 朝日新聞日曜版『書評』 > 2006年9月24日~10月1日
| テヘランでロリータを読む | |
![]() | アーザル ナフィーシー Azar Nafisi 市川 恵里 白水社 2006-09 売り上げランキング : 340 おすすめ平均 ![]() おもいやりの心を養うための想像力Amazonで詳しく見る by G-Tools |
秘密読書会で読む「禁制文学」
イスラーム革命後のイラン・テヘラン。ホメイニー師率いる新体制が、監視の目を光らせる息苦しい社会のなかで、大学を追われ、一切の教職から身をひいた著者が、密(ひそ)かに開いた読書会。そのメンバーは、「傷つきやすさと勇気が奇妙にも同居」する、皆、どこか一匹狼(いっぴきおおかみ)的な女子学生七人だった。
彼女たちは、ほぼ毎週、木曜日の朝、著者の自宅に集っては、ナボコフやフィッツジェラルド、ヘンリー・ジェイムズ、オースティン……などを読む。室内に入り、着用を義務付けられた黒いコートとヴェールをぬぐと、その下から現れるのは、鮮やかな色彩、官能的な肉体、そして裸の個の精神だ。
西欧的な価値観を持つものは、退廃的と批判され、反イスラーム的とみなされれば、直ちに逮捕・投獄。安易な処刑・暗殺もたびたび。そういうなかで、西洋の小説を読むのは、ひどく危険な行為である。外国書籍は流通をとめられ、本屋からは、外国文学が消えていくような状況にあった。
革命の翌年には、イラクとの戦争も勃発(ぼっぱつ)。心身の自由を奪われたとき、ひとは生きているという感覚を失う。そして、外側で形作られている異常な「現実」に拮抗(きっこう)するほどの、もうひとつの「現実」=小説世界を求め、そのなかで、鮮明な生の感覚をとりもどしたいと願うのだ。
彼女たちは、ナボコフの「ロリータ」を、いま、このとき、このイランという国で生きる「わたし」の立場から、ダイナミックに読んでいく。多くの人が読んできたような、中年男ハンバートが少女・ロリータに対して抱く妄執や恋愛の話ではなく、「ある個人の人生を他者が収奪した」悲哀の物語として、徹底的に、ロリータの側に立って読むのである。この国で女であることの生き難さが、一人の人間が誰かの「夢の産物」となってしまうことへの憤りへと通じ、その哀しみに切実な共感を広げていく。
著者は言う。「小説は寓意ではありません。それはもう一つの世界の官能的な体験なのです。……彼らの運命に巻き込まれなければ、感情移入はできません。感情移入こそが小説の本質なのです。小説を読むということは、その体験を深く吸い込むことです。さあ息を吸って」
感情移入とは、なんと懐かしい言葉だろう。そしてこれはなんと普遍的に響く言い方だろう。もしかしたら、わたしたちがなくしかけているのも、この素朴な行為、あらゆるものへの感情移入なのかもしれない。
全体主義を憎み、抗い続けた著者は、やがてイランを離れアメリカへ渡る。けれど負った傷、様々な思い出は、記憶のなかから消えるはずもない。理不尽な処刑で死んだ学生もいる。読書会のメンバーはといえば、国を出て結婚し子供を産んだ者もいるし、国に残った者たちは、その後も集まり続け、本を読み、書き、ある者は教職についたとある。生きることと読むこととの熾烈(しれつ)な関(かか)わり合い。フィクションの力を改めて信じたくなる。透徹な勇気を与えられる本である。【評 小池昌代(詩人)】
| ブロンズの地中海 | |
![]() | 司 修 集英社 2006-08 売り上げランキング : 6745 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
不思議な小説である。あるとき「私」は、とうに亡くなった姉から電話を受ける。鏡台の引き出しに隠してあるノートを持って、パリにいってほしいと姉は告げる。そうして「私」はパリに向かい、ここから舞台は、現在と過去、かつて姉が滞在していた一九三九年のパリが交差する。
語り手の姉、カヨは、その年、画家である恋人を追いかけてパリへとやってきたが、彼は模写しか描けないことに絶望して自殺してしまう。残されたカヨは、美術学校に通うユダヤ人女性と愛し合うようになるが、やがて迫りくる戦禍に、パリを去りマルセイユへと逃れていく。
一九四四年、マルセイユを占領していたドイツ軍から全市民に退去命令が出されると、カヨは日本領事館の面々とスペインを目指し逃亡する。が、フランス側に捉(とら)えられ、捕虜になる。戦後日本に戻るが、原因不明のまま失明し、自動車事故で亡くなっている。
亡くなったはずの姉とパリで落ち合った「私」は、かつて彼女がたどったパリ、マルセイユ、ペルピニャンへと旅をする。第二次世界大戦時のフランスを緻密に再現しながらも、浮かび上がるのは、体験の悲惨さではなく、それよりさらに強烈な光である。パリに生きた芸術家たちの息遣いと、その後も在り続ける芸術の力。それらが鮮烈な光となって、作中に点滅している。
著者は、藤田嗣治が見たパリを、ボーヴォワールが見たパリを、ベンヤミンの見たマルセイユを引用しつつかいま見せ、セザンヌの生きたエクスを、ダリの愛したペルピニャン駅を、マチスが暮らしたニースを鮮やかによみがえらせる。戦争が、いや、時代が何を奪い何を奪えなかったのかが、幻想的な旅のなかに立ち表れる。美という、人の闘いよりもよほど強靭(きょうじん)なものが強い色彩を放っている。
失明したカヨはかつて弟に「目が見えなくなってからものがよく見えるようになった」と言った。亡き姉と過去を経巡る「私」とともに、まさにカヨに手を引かれ、目を閉じたまま感じるような小説である。【評 角田光代(作家)】
| 脳のなかの水分子―意識が創られるとき | |
![]() | 中田 力 紀伊國屋書店 2006-08 売り上げランキング : 109 おすすめ平均 ![]() 水分子と意識の関わりが見えてきません。 「脳の渦理論」誕生のコンテクスト セリンデピティーAmazonで詳しく見る by G-Tools |
全身麻酔をヒントにした野心的な説
手術を受けるときにあたりまえのように施される全身麻酔は、考えてみればすごい技術である。本書の著者によれば、それは「大脳皮質の情報処理機能すべてが抑制される」ことによる「不感覚」であり、「『意識』そのものを抑えこむ作用」なのだという。
したがって、「特定部位の神経伝達をブロックする」局所麻酔とは、現象としても、使われる薬剤においてもまったく別物である。しかも、全身麻酔には、もっと驚くべき事実がある。全身麻酔がどうして効くのか、その仕組みはよくわかっていないというのだ。
むろん、一応の説明はある。全身麻酔薬は、脂肪に溶けやすいせいで脳に入りやすいから効くというもの。ただしこの「定説」は、具体的な仕組みについては何も説明していない。
かつて、この定説に敢然と挑んだ科学界の巨人がいた。タンパク質の立体構造の研究でノーベル化学賞、核実験反対運動の功績でノーベル平和賞を受賞したライナス・ポーリングである。彼は、全身麻酔効果のある薬品に共通する性質から、水の結晶化をうながすことが全身麻酔効果をもたらすという仮説を発表したのだ。しかしこの説は、異説として拒絶され無視された。
医学生時代にその異説と出合い、以後、「脳とこころ」の謎への挑戦に邁進してきたのが、著者である。水分子(正確には水素原子核)の挙動を検知することで脳の働きを画像化するファンクショナルMRIの世界的権威である著者は、麻酔薬が脳の中の水を結晶化させることで意識をとるのだとしたら、人間の意識すなわち「こころ」を生み出しているのは「脳の中の水分子のふるまい」なのではないかと思い至る。そしてそのアイデアを突破口に、脳の機能を説明する「脳の渦理論」を打ち立てた。
本書では、この理論に到達するまでの軌跡と思いの丈が熱く語られている。物理化学から神話までと話題は多彩なのに一気に読み通せるのは、科学論文のように筋立てが一貫しているからだろう。巨星ポーリングへの賛歌としても楽しめる。【評 渡辺政隆(サイエンスライター)】
| 道州制ハンドブック | |
![]() | 地方自治制度研究会 ぎょうせい 2006-09 売り上げランキング : 1982 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
あるべき地方分権を考える必携書
安倍総理が「3年以内に道筋を付ける」と明言し、注目を浴びる道州制。ここに紹介する『道州制ハンドブック』は、地方制度調査会が小泉内閣から諮問を受けて作成した答申と、そこに至る50回近い会議における議論の経過や資料を網羅したものである。
道州制に関するマスメディアの報道は「どの県がどの道州に入るのか」という区域割りにばかり焦点があたるが、本書を通して、道州制の本質は国と道州、道州と市町村の役割分担にあり、「中央集権型政治行政システム」を「地方分権型政治行政システム」に再構築する大改革であることが明らかになる。
権力が殺(そ)がれることになるため、中央省庁の抵抗も大きく、道州の権限や組織について国民が目を光らせていないと形ばかりの「官製道州制」に終わってしまう。道州制の本質を的確に把握した本書は、今後の日本の姿を考える必携書といえよう。
道州制で重要な問題となるのが、財政的に豊かな自治体と貧しい自治体の間の財政調整機能である。『地方分権と財政調整制度』は、そうした調整を各国がどう行っているのかの仕組みを紹介し、そこで生じた事態を実証的に明らかにしている。
例えば、オーストラリアは日本と同様に中央政府の差配による「垂直的財政調整」を採用している。ただし、政府から独立した委員会が各州政府に対する交付金の配分割合(額ではない)を算定して連邦政府に勧告し、連邦政府と州政府の協議機関で配分額を検討する。こうすることで、交付金と財源の間に日本のような大きな赤字が発生しないようにしている。
他方、自治体同士の「水平的財政調整」を採用するドイツでは、1人あたり経費負担に3・5倍もの格差が生じており、スウェーデンでは調整金の大部分を拠出させられる首都ストックホルム県・市の住民が強い不満と反発を見せているという。
今後、日本がいかなる財政調整制度に転換するかで、実現する地方分権の姿も大きく変わってくる。広く読んでいただきたい書である。【評 小林良彰(慶応大学教授)】
| 昼の学校 夜の学校 | |
![]() | 森山 大道 平凡社 2006-08-26 売り上げランキング : 2628 おすすめ平均 ![]() 含蓄に富む言葉Amazonで詳しく見る by G-Tools |
森山大道が正面切って写真を語った本である。
写真家志望の若い学生を相手にした質疑応答の記録だから、言葉は分かりやすく、ストレートだ。森山は〈写真〉という生き方の本質を留保なく差しだす。そこには、四十数年写真だけに生きてきた男の、稀有(けう)の世界把握がある。大げさでなく、表現者として生きていく勇気を与えられる本だ。
使うのは主にコンパクトカメラのリコーGR21で、ジーパンの尻ポケットに入れて街に出て撮る。写したはしから忘れて、フィルムを二千本撮るとカメラが壊れる。その二千本で写真集を一冊作るとなると、朝の九時から夜中の三時まで、一カ月以上暗室にこもって初めてプリントを焼く。そんな恐るべき量から、ある質をもった写真が生まれてくる。
そこまでして何を撮りたいのか。キーワードは〈欲望〉である。街はあらゆる欲望が渾然(こんぜん)一体となって交差する巨大なスタジアムだ。カメラを手にそこを歩く森山も撮る欲望体になる。欲望のバッテリー、欲望のレーダー。そして、街と人間の欲望の交差点である写真は光と時間の化石になるという。写真とは、卑近と遠大を一気につなぐ奇跡の仕掛けなのだろう。【評 中条省平(学習院大教授)】
| 9人の児童性虐待者 | |
![]() | パメラ・D. シュルツ Pamela D. Schultz 颯田 あきら 牧野出版 2006-08 売り上げランキング : 11059 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
幼女がわいせつな行為をされ、その上殺される事件を私たちは幾度も見聞きした。そのつど怒り悲しみ、子どもを守るためにあれこれ手を打つけれど、根本的な解決にはほど遠い。
本書では、被虐待経験を持つアメリカ人の女性研究者が、児童性虐待者に刑務所内で個別インタビューを行う。序章で「児童性虐待と効果的に闘うには、加害者を理解しなければいけない。どうか、偏見のない心で読んでいただきたい」と読者にも覚悟を迫る。
露出狂から攻撃的なレイプ犯まで、9人の男性は実に率直に語る。トニーは実父から吃音(きつおん)を種にいじめられ、レッドは10歳の時に40代の男性からレイプされた。継父から鼻を折られるほど暴力を受けたビリー。ベンの場合、一族の中で性虐待が行われていた。
著者は、それが犯罪の言い訳にはならないとしながらも、彼らがどんな教訓を学んで大人になったのかと訴える。「加害者たちをひとまとめに処罰するのでなく、救済の望みがある者には治療の道を見つけるべきだ」と強調する。「執筆に全人生をかけてきた」著者にとって、本書の完成は何よりの癒やしになったと信じたい。【評 多賀幹子(フリージャーナリスト)】
| 自由訳 イマジン | |
![]() | ジョン レノン オノ ヨーコ John Lennon 朝日新聞社 2006-08 売り上げランキング : 3503 おすすめ平均 ![]() 勇気に拍手!!Amazonで詳しく見る by G-Tools |
名曲の行間に想像力を駆使
レノンとオノのなれそめは有名だ。当時、この日本人女性前衛芸術家は、「鑑賞者自身の想像力」を得て完成させるインストラクション・アートを発表し、その関連で六四年には作品集『グレープフルーツ』も刊行していたが、代表作「釘(くぎ)を打つ絵」を六六年のロンドンでの個展に陳列したところ、レノンと出会う。このとき、釘の代金五シリングがないので、彼は「それでは、想像で打たせてもらいます」と答えている。六〇年代という文脈を得てロックンロールとダダイズムが最も接近した瞬間である。レノン自身も名曲「イマジン」がオノの作品に多くを負うことを公言した。
だからこそ、本書が「イマジン」を両者の共作と記したばかりか、訳者の想像力を駆使して「宇宙飛行士」まで飛び出す「平和のための物語」に仕上がったのは画期的だ。なにしろ「イマジン」一語だけでも「イメージすること/心の中で思い描いてみること/そして/現実の向こう側に隠れている/真実の姿を/見きわめること」と、巧みに言い換えられていくのだから。
巻末の新井満とオノの対話も、レノン本人がいかに「東と西の融合」を意識していたかを裏書きして、説得力にあふれる。【評 巽孝之(慶応大教授)】
>
| ジェンダーで読む“韓流”文化の現在 | |
![]() | 城西国際大学ジェンダー女性学研究所 現代書館 2006-07 売り上げランキング : 989 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
城西国際大学ジェンダー・女性学研究所編 マジメで硬派な「冬ソナ」本
『ジェンダーで読む〈韓流〉文化の現在』。色気のない小むずかしげな書名だが、何を隠そう、これは「冬ソナ」本なのだ。
日本では2004年に火がついた韓流ドラマ「冬のソナタ」。このメロドラマ、そして主演のペ・ヨンジュンがなぜそれほど人気なのかについては私も何人もの人と雑談をしたけれども、まさかそれをテーマにシンポジウムを開いてしまうとは!
パネリストは水田宗子氏をはじめとする女性学の第一線の研究者。物語論や女性論の視点で「冬ソナ」がマジメに分析される一方、黒一点(?)の姜尚中氏が物語の背景をなす韓半島の同時代史をおずおず語って花を添えたりしている。
結局あれでしょ、先生方も「冬ソナ」にハマっちゃったのよね。という想像はたぶん当たっている。しかし、語り合うに足る要素を韓流ブームが備えているのもまた事実。
中高年女性が中心のこのブームは「オバサン=オバカサン」という揶揄(やゆ)の図式で報じられてきた。が、これは大衆的な広がりを持つ「女たちによるアジアの発見」であり、彼女らの学習熱と行動力を見くびるでないぞとの指摘にはドキッ。
後半は家族論や観光論などの論文集。硬派な「冬ソナ」本なのだ。【評 斎藤美奈子(文芸評論家)】
| 「歌」の精神史 | |
![]() | 山折 哲雄 中央公論新社 2006-08 売り上げランキング : 1787 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
日本の風土には、七五調の音律と結びついた宿命的な無常感覚が深く沁(し)み込み、一木一草までが「諸行無常」の響きを発している。
著者は学生の頃、『平家物語』を「ただの美文ではないか」と軽んじていたのを反省し、自分を毒したのは小林秀雄の古典批評だったといっている。『無常といふ事』所収の同名のエッセイで、「『平家』のあの冒頭の今様(いまよう)風の哀調が、多くの人々を誤らせた」という一文である。
この告白は、半面また、辛辣(しんらつ)な小林寸評にもなっていて面白い。有名な「祇園精舎の鐘の声」で始まる名文を耳で聴いていないという批判である。小林はこれを視覚的なテキストとして読んだだけだから、無常感覚はただ「ありきたりの哀調、ステロタイプ化された観念」と見なされてしまった。その基調は戦後の日本で歴史家の石母田正、哲学者の唐木順三にも引き継がれたという議論になる。
その結果、何が起きたか。 今様の節回しは、平曲にも親鸞の和讃(わさん)にも浄瑠璃にも取り入れられ、音楽の古層として日本人の内耳に定住し、近代では演歌と浪花節に持ち伝えられている。その旋律に漂う悲哀や感傷は、社会通念では低級品扱いされるような風潮ができあがった。
それと呼応して、七五調の「短歌的抒情(じょじょう)」は否定と破壊の対象になった。全共闘のアジ演説は五五調であり、その退潮の後に颯爽(さっそう)と出現した俵万智の短歌は五七調だった。和歌の定型はいまだに新聞歌壇で健在だが、たんに悲哀を三十一文字に押し込めるパックになっているのではないかと著者は懐疑的である。
それでも五七五七七のリズムは、「われわれの毛細血管をひそかに流れつづけてやまないウィルス」である。思いがけない瞬間に感情的な不意打ちを仕掛けてくる。
昔あるマチネ・ポエティク系の作家から「浪花節を聞くと胸が悪くなる」といわれたが、「ぼくは時々ホロリとするんです」とはつい言いそびれた。本書は隠れ浪花節・演歌ファンの福音である。できれば、この気恥ずかしさの由来も察してほしかった。【評 野口武彦(文芸評論家)】
| 文化とは何か | |
![]() | テリー イーグルトン Terry Eagleton 大橋 洋一 松柏社 2006-07 売り上げランキング : 1057 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
本書は、広く読まれた『文学とは何か』の著者による文化概念のコンパクトなパノラマである。
文化という言葉は、今日きわめて多義的に用いられる。本書のひとつの軸は、その多義性の混乱を整理する際の補助線として、普遍的価値を志向する文化と、個別的価値を志向する文化との区別を導入することである。乱暴に言えば、美術館や禅寺の文化と、コンビニやカラオケボックスの文化というわけだ。前者ではひとは自己を超えて高次の価値に接近しようとし、後者ではひとは自己のあり様を肯定する(逆の人もいるだろうが)。本書は、文明概念との相関関係の歴史的変容を跡付けること(類義語から対義語へ劇的な展開を示すのだが)で、文化概念に、この普遍/個別の緊張関係が持ち込まれる過程を鮮やかに描き出す。
この普遍/個別の緊張関係を前提にしたうえで、本書はさらに、卓越としての文化、同一性(アイデンティティ)としての文化、商品としての文化という三つの相が演ずる複雑な合従連衡に、分析を大きく展開させる。文化は、ある場合には伝統や権威と結びつき、別の場合には支配への反抗や承認の欲求と結びつき、さらに別の場合には身も蓋(ふた)も無く利潤の種として扱われる。たとえば、地産地消運動は、伝統を基礎にすることが多いが、地域の同一性の主張と結びつくこともあれば、露骨な商業主義と結びつくこともあり、かならずしも調和しない。そのくせ、どの立場の人間も「文化」を口実にするために、言葉の実質は目減りする一方である。
著者は、この文化概念のインフレの帰結として、この言葉が人間にとっての現実の無限の可塑性と同義に近づいている現状を憂えているようだ。文化からのアプローチによって変えられる現実の規模と射程は、今日の理論家たちがしばしば無自覚に前提としているよりはるかに小さいと、あっさりいってのける。ポストモダンも遠くなりにけり、である。
原著の口吻(こうふん)まで伝える疾走感のある訳文はさすが。憑(つ)き物が落ちるような読後感である。【評 山下範久(北海道大学助教授)】
| 名もなき毒 | |
![]() | 宮部 みゆき 幻冬舎 2006-08 売り上げランキング : 30 おすすめ平均 ![]() 489ページを一気に読んでしまいました 移ろいゆく宮部作品の過程を実感できたかな 普通って何?Amazonで詳しく見る by G-Tools |
〈幸せなんてね、あっけなく壊れちゃうものなのよ〉〈でも、あんたたち、それを知らないでしょ。身に沁(し)みないと、わかんないんでしょ?〉――長い物語の終盤で登場人物の一人が吐いたその言葉が、本を閉じたあともしばらく消えない。
怖い小説だった。物語を通じての疑似的な体験とはいえ、読者は間違いなく、幸せのもろさを身に沁みて思い知らされるはずだ。
物語は、首都圏で発生した連続無差別毒殺事件と、主人公・杉村の会社から解雇された女性アルバイトの巻き起こす騒動が絡み合う形で織りなされる。他者との関係を無化したうえで成り立つ無差別の凶悪犯罪と、ひととひととが接触を持つがゆえに起きる人間関係のトラブル――対照的な二本の縦糸は、しかし、根底に「怒り」があるという点で共通する。自分だけが幸せになれないことへの怒り、自分を受け入れてくれない周囲に対する怒り、勝ち負けの「負け」の側に一方的に組み入れられてしまった怒り、理想と現実とのギャップが生んだ怒り……。
むろん、それらは客観的には理不尽きわまりないもので、身勝手で自己中心な言いぶんだと切り捨てることはたやすそうに見える。だが、この優れた物語は、紋切り型の正義や正論を「上から」安易にふりかざすことを許さない。読者は背筋がゾクッとするなまなましさに包まれる。宮部みゆきさんがこまやかに描き出す登場人物一人ひとりの怒りは、はたして彼らだけの――犯罪者だけのものなのか? 僕たちのすぐそばにも同じ怒りを抱いたひとがいて、その矛先がひそかにこちらへ向けられていることはありえないか? いや、それ以前に、僕たち自身の胸の奥でじっと息をひそめているものの正体は……。
怒りはやがて毒になり、他者を、そして自分自身をも侵す。〈私は、我々の内にある毒の名前を知りたい。誰か私に教えてほしい。我々が内包する毒の名は何というのだ〉――杉村の放つ問いは重く、苦い。おそらくそれは、この一編の小説でのみ答えが導かれるものではない。宮部さんは、いままでもそうだったように、今後も繰り返し同じ問いをはらむ作品を描きつづけてくれるはずである。
だが、その物語は決して、ニヒリズムの隘(あい)路(ろ)に読者を誘いはしないだろう。本作もそうだ。宮部さんは、よろこびも悲しみも噛(か)みしめてきた年長者の姿を、生きることへの確かな「敬意」をもって描く。幼い子どものあどけなさを、生きることへの確かな「信頼」とともに描く。だからこそ、いまという時代をめぐるリアルな負の諸相が手加減なしに描かれた怖い作品なのに、読後には人間や人生や社会に対する前向きな思いが胸に残るのだ。
他者を疑うよりも信じるほうを選ぶと「お人好(よ)し」と呼ばれてしまう時代――まさに胸を張って「お人好しのパパ」と紹介したい杉村とは、シリーズ前作の『誰か』(カッパ・ノベルス)と本作だけでお別れしたくはない。生きることへの敬意と信頼に満ちた物語は、いま、なによりも求められているのだと思うから。【評 重松清(作家)】
| インドの時代 豊かさと苦悩の幕開け | |
![]() | 中島 岳志 新潮社 2006-07-22 売り上げランキング : 759 おすすめ平均 ![]() 航空会社の機内誌記事にふさわしい。 オヤジ週刊誌のインド特集 ひと味違うインドものAmazonで詳しく見る by G-Tools |
目を見張る都市中間層の生活
ちょっとした「インド・ブーム」である。経済面ではITを中心とした目覚ましい経済成長に注目が集まり、政治面では何かと摩擦が絶えない中国に対するカウンターバランスとしての期待が高まる。最大の魅力は、十一億人口の半分が二十五歳以下という、若い大国である点だろう。
私も話には聞いていたが、本書で描かれるインドの都市中間層の暮らしぶりには目を見張った。欧米風ニュータウンでの夫婦と子供二人の核家族、家事も育児もこなす優しい夫と自立した妻、子供たちは高学歴を目指して受験勉強に勤(いそ)しむ。これが理想のライフスタイルで、家父長的な大家族制は崩壊寸前にある。
エステ、ダイエット、“癒(いや)し”ブーム。半面、人間関係の希薄化が進み、都市部では自殺が急増している。まったくどこの国の話かわからない。
著者によると、人口の約二割がこうした中間・富裕層に属するが、一方で約四億人が極貧に喘(あえ)いでいる。カップルが街頭でキスを交わすデリーから、クルマで一時間ほどの農村に行くと、女たちは家に隠れ、外に出ても顔を覆ったままだ。あまりにも極端な二分化が生まれている。
著者はこうした状況とインド現代史を手際よく紹介しながら、焦点を、年来の関心事である「ヒンドゥー・ナショナリズム」に絞り込んでゆく。ヒンドゥー的なるものを称揚するこの動きは、かたやヒンドゥー過激派によるイスラム教徒虐殺、かたや孤独な都市住民の心の拠(よ)り所(どころ)という硬軟両面で広がり、政治を左右する一大勢力にまでなってきた。問題は、イスラムやパキスタンといった外部の敵を措定する排外志向で、著者から厳しく批判されている。ヒンドゥー・ナショナリストが歴史教科書の書き換えに執心する所も、既視感がある。
激変を遂げつつあるインドの現状を知るには、格好の一冊と言ってよい。ただ、巻末の「多一論的宗教哲学」とマザー・テレサにまつわる記述には、違和感が残る。せっかく積み重ねてきたフィールドワークの重みを、減じてはいまいか。“若書き”の勢い余ったということだろうか。【評・野村進(ジャーナリスト)】
ヴィジュアル・アナロジー―つなぐ技術としての人間意識
バーバラ・マリア スタフォード (著)
デジタルの牙城へ、アナログの逆襲
日本人は「あいうえお」で考え、欧米人は「ABC」で考える。あたりまえのことで、そこにさしたるちがいはないように見える。戦後、西欧文化の影響にどっぷり浸(つ)かってきた我が国では、なおさらだろう。
しかし「あいうえお」の裏には文字そのものを「絵(イメージ)」とみなす漢字文化があり、「ABC」の奥には文字の起源をそもそも神の声を代理する「記号(サイン)」と捉(とら)える宗教文化がひそむ。そしてこの対比は今日ひろく親しまれている「アナログ」と「デジタル」の対比に通じるのではないか、と喝破するところから始まるのが、一九九九年原書刊行になるこの最先端芸術批評のおもしろさだ。
まず第一章、わたしたちはいきなり著者が「(にこ)」「(わーい/ばんざい)」といった、インターネット文化特有の絵文字を引き合いに出すところで度肝を抜かれる。彼女によれば、こうした絵文字こそは日本人特有のかたちで「言葉」を「複雑かつ、曖昧(あいまい)でさえある感情」と巧みに結びつける「精巧な顔造作の聖刻文字(ヒエログリフィクス)」だという。
顔文字文化から漢字文化圏の本質に迫るという奇襲。だが、それはまさしくアナログとデジタルの対比の深みから、ちがうもののなかに似ているところを積極的に見いだす「アナロジー」(類比)の考え方と、やや斜にかまえた角度から差異や断片化を称揚する「アレゴリー」(寓喩<ぐうゆ>)の考え方という、根源的な対比を浮上させる。ギリシャ哲学以来、目に見えるものと見えないもののあいだを架橋して文明を建設した「アナロジー」の精神は、十九世紀ロマン派以降に危機を迎え、二十世紀末ポストモダンの時代までには「アレゴリー」の精神に取って代わられた。
しかし、じっさいのところ「アナロジー」はヘラクレイトスからライプニッツを経て、今日の電脳文化の形成に一役買っている。そのいきさつを膨大な図版で例証する本書は、まさにアナログの逆襲によってデジタルの牙城(がじょう)へ挑み、ネオ・マニエリスム美学を確立せんとする、今日最も知的な力業といえよう。【評・巽孝之(慶応大学教授)】
| ザ・パージァン・パズル 上 アメリカを挑発し続けるイランの謎 | |
![]() | ケネス ポラック 佐藤 陸雄 小学館 2006-07-13 売り上げランキング : 106706 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
| ザ・パージァン・パズル 下 アメリカを挑発し続けるイランの謎 | |
![]() | ケネス ポラック 佐藤 陸雄 小学館 2006-07-13 売り上げランキング : 91272 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
「悪の枢軸」視せず対話・取引を説く
本書はイランについての本ではない。米国のイラン認識についての本である。事実と認識が違うことが、米国の対イラン政策の問題点だ。
冒頭に指摘されるように、「米国人の多くは、イラン人が米国人に抱く不満の根源について何も知らない」。一方イラン人は「あまりにも多くを知りすぎている」。親米王政のシャー時代、いかに米中央情報局(CIA)がイラン内政に関与し、イランを支配してきたか。著者は、イラン人の認識の多くが事実と違うと反論しつつも、米国がそう疑われてもしかたのないことをしてきたのだと認めなければならない、と指摘する。
この反省は、従来の米政権の問答無用のイラン非難と比較すると、画期的だ。元CIA分析官の著者が政策に携わったクリントン政権期、いかに対話路線を模索したかの経験談は興味深く、その分、ブッシュ政権が軽い気持ち(ただの数合わせ!)でイランを「悪の枢軸」に入れたことへの憤懣(ふんまん)やるかたなさが伝わる。
特に、イランとは取引可能、抑止可能だから政権転覆を強いるな、との著者の主張は重要だ。米国が口を出すたび内政干渉と見なされて逆効果を生むとの認識は、イランだけでなく広く中東全体で米政権が銘ずべきことだろう。
その一方、著者は米国主導の「飴(あめ)と鞭(むち)」方式を主張するが、そこで対イラン制裁の有効性について日本と西欧の非協力を非難している。しかし、外交ルートを持たず力任せに脅すしか方法のない米に対し、対話の道をつないできたのは日・欧だ。日本の外交担当者には、反論があろう。
イランに関して、米国の情報収集能力が不十分であることも忘れてはならない。CIAが活動できないのが問題なのではない。現地経験のなさ、言葉を知らないことのマイナス面は、著者も認めている。知ればイランはさほど「パズル(なぞ)」ではないのだが。
原書の出版後、イランで急進派ポピュリスト政権が誕生、状況が一変している。著者は最近の論文で新大統領を「核開発の確信犯」と評しているが、本書にも現状に触れた解説を加えて欲しかった。【評・酒井啓子(東京外国語大学教授)】
| デッドライン | |
![]() | 建倉 圭介 角川書店 2006-08 売り上げランキング : 14236 おすすめ平均 ![]() 冒険小説というべきか,スパイ小説というべきかAmazonで詳しく見る by G-Tools |
何とも力強くダイナミックだ。読み始めたらやめられない。まさに正統派の冒険小説である。つまり、過酷な時代状況のなかで、崇高な目的のために、苦悩する精神と酷使される肉体が描かれる。様々な障害や敵と戦い(その多くは内なる弱さとの戦いだ)、それらを乗り越えていく。
舞台は第二次大戦末期のアメリカ。日系人部隊で欧州戦線に参加した日系二世のミノルは、世界初のコンピューター開発計画に参加し、日本への原爆投下が不可避であることを知る。ミノルは偶然知り合った日系のダンサーのエリイと共に日本への密航を決意する。日本にはミノルの両親と妹が、そして広島にはエリイの息子の透がいたのだ。
北米大陸を横断し、アラスカを経由し、アリューシャン列島から樺太へ、そして北海道から東京へ、さらに広島へと向かう。願いはただひとつ、原爆投下の阻止。日本に降伏を勧めて、爆弾投下を回避するしかない。そうしなければ家族が、日本人の多くが死んでしまう……。
ミノルとエリイの激しい愛、ミノルを追う米軍側の日系人たちとの息詰まる攻防、そしてサスペンス漲(みなぎ)る終盤の対話と奔走。気高く生きた日系人たちの、命をかけた戦争を描く秀作。【池上冬樹(文芸評論家)】
| 国際NGOが世界を変える―地球市民社会の黎明 | |
![]() | 功刀 達朗 毛利 勝彦 東信堂 2006-08 売り上げランキング : 38995 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
「地球市民」への展望を実感
貧困や人権、民族対立、環境などの問題に立ち向かう国際NGOの現状と課題に取り組んだ、第一線の活動家たちと研究者による最新リポートだ。対テロ戦争の対症療法が世界をますます混迷させる中で、国連の「ミレニアム開発目標」などへの息の長い取り組みこそが「地球市民社会」への展望を開いてくれることを実感させる好著である。
「ピースウィンズ・ジャパン」の大西健丞氏、「オルタモンド」の田中徹二氏ら実践者たちの論考は課題も突きつけて生々しいが、対人地雷禁止や、債務帳消しキャンペーン(ジュビリー2000)などで顕著な存在感を築いてきた国際NGOが、政策提言力を高めて、世界政治のアクターになりつつある現状がよくわかる。
日本での活動基盤は弱いとの指摘が共通する。世界中で昨年展開された「ホワイトバンド」は日本でも450万本も売れる盛り上がりをみせたが、単純なチャリティーと誤解されがちで、「貧困を生む政策を変更せよ」との運動の趣旨は十分理解されていなかったようだ。内向きの価値観が大手を振る今のこの国に必要なのは、たとえば仏が先行実施した国際連帯税などの豊かな発想なのだが。【佐柄木俊郎(国際基督教大学客員教授)】
| 薔薇よ永遠に―薔薇族編集長35年の闘い | |
![]() | 伊藤 文学 九天社 2006-07 売り上げランキング : 484 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
ゲイの悩みと人生の幅広さ
著者が「薔薇(ばら)族」を創刊した35年前、同性愛者は異常者扱いされた。その後、ゲイという存在が日本で市民権を得るにあたって、この雑誌が果たした役割は決して小さくない。本書はその35年を回顧した記録であり、異性愛者が読んでも興味は津々として尽きない。
初期の「薔薇族」の大きな主題は、同性愛者の不安、特にゲイの妻帯者の悩みだった。社会的立場のために好きでもない女と結婚するのだから、責められて当然という見方もある。だが、本書のゲイの内心を綴(つづ)った手紙や生々しい事例を読めば、差別の圧力との葛藤(かっとう)に共感を禁じえない。
そうした半面、編集長の「ひとりごと」のコーナーでは、真面目(まじめ)にしたたかに生きるゲイの生活の諸相が紹介されていて、人生って広いなあと改めて深い感慨に誘われる。
なかでも面白いのは、日本一有名な同性愛者、三島由紀夫をめぐってこの雑誌に寄稿されたゲイ的観点からの論述で、ここでは紹介しにくい露骨に下世話な話題も含め、三島の人間性の一面を浮き彫りにしている。先頃完結した決定版全集で三島の真筆と認められた同性愛切腹小説「愛の処刑」も、30年以上前に「薔薇族」に再録され、本書にも全文掲載されている。【中条省平(学習院大教授)】
| 藤田省三対話集成〈1〉 | |
![]() | 藤田 省三 みすず書房 2006-07 売り上げランキング : 29739 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
戦後思想の正統派として、丸山眞男を取り上げたり批判したりする研究は、続々と出版されている。藤田省三は丸山の弟子の一人だが、本書が扱う60年代前半期には、政治的にも思想的にも丸山と近い位置にあった。それは政治的には市民主義、思想的には近代主義の立場といえる。しかし藤田の唱える市民主義は、市民主義の通常のイメージを突き抜けて、やや強引に時代を超えた原理的な立場として提起されている感じである。彼の論理の特徴は、その構想力の大きさだろう。
本書は藤田省三の、日高六郎・吉本隆明らとの座談会や、鶴見俊輔・谷川雁などとの対談を集めたものである。全3巻のうち第1冊の本書は、60年から65年にかけての社会運動をテーマとしたものだ。ただし彼がここで追究しているのは、政治変革のプランというより、一貫して日本人の「精神」の革命の可能性であり、知識人の使命についてであった。
とはいえその藤田も、60年の安保闘争の頃には、その「精神」の革命が政治変革のプログラムに結びつく可能性を信じ、それを模索していたように見える。彼の唱える市民主義とは、自然権の自覚に立脚したコモンセンスの立場だった。それは多元的な思想の自由を確保しながら、異なる政治的なグループが共存しうるルールを作り上げていくような世界として考えられていた。彼によれば、そうした伝統はこれまでの日本社会にはなかったものである。
しかし藤田は次第に、社会運動の大組織も小集団も、お互いに自己の立場を絶対視して対立しあう状況に、失望するようになる。市民主義の可能性を疑うようになり、その可能性が失われていくことに、日本社会の変質を感じ取るようになる。60年安保から大学紛争までの時代は、一面では大きな変革の可能性がありながら、それがうまく結実しないで終わった時代であった。その点で彼の予見力は、非常に早い時期から発揮されていたという印象である。本書は、60年代の社会運動を内在的に考える手がかりを与えるものといえよう。【評・赤澤史朗(立命館大学教授)】
| 危険学のすすめ | |
![]() | 畑村 洋太郎 講談社 2006-07-26 売り上げランキング : 419 おすすめ平均 ![]() 生活する国民全員が読むべき本Amazonで詳しく見る by G-Tools |
「勝手連」式の事故調で原因を究明
公共住宅のエレベーター、流水プールの吸水口、学校の防火シャッター、ガス湯沸かし器、家庭用シュレッダー。この数カ月間を思い出すだけでも、人工物による重大事故は後を絶たない。そのたびにニュース番組から聞こえてくる言葉は「危険を未然に防ぐことはできなかったのでしょうか」「メーカーはこの責任をどうとるのでしょうか」。
たしかに道義的な責任を問うことは必要だ。しかし、と著者の畑村さんはいう。「原因究明」と「責任追及」を混同してはいけない。そこを明確に分けなければ、真の原因究明もむずかしいのだと。
じゃあどうするのさ、とお思いだろう。そこに大きなヒントを与えるのが本書『危険学のすすめ』である。
発端は2004年3月26日、六本木ヒルズ・森タワーの大型自動回転ドアに6歳の男の子が挟まれて亡くなった事故だった。国は国で対策に動いたが、それとは別に「勝手連的事故調」として発足したのが畑村さんらの「ドアプロジェクト」である。賛同者が好き勝手に集まった期間限定のこのプロジェクトは、大型自動回転ドアは他のドアより圧倒的に挟む力が強い「殺人機械」に近い代物だったことを実験から明らかにした。
本書はその1年間の活動の記録だが、内容は回転ドア問題にとどまらない。
ひとつには電車のドアからサッシまで広く「ドア」全般にひそむ危険を教えてくれること。自動は危険だが手動は安全と私たちは考えがちだ。が、自動車のドアやサッシの引き戸を勢いよく閉めたときの力は予想外に大きい。「手動はすべて危ない」のだ。
もうひとつは組織論としてのおもしろさである。ドアプロジェクトの成功は「自分が何をすべきか」をそれぞれが考えて自律的に動く「自律分散型」だったことによると著者はいう。技術や資材を提供した参加者は個人から大手企業にまで及ぶ。事故を起こした会社も貢献した。
安全マニュアルは不測の事態に対応できない。だから危険学。技術屋さんじゃなくても理解できる平易な記述にも「安全への配慮」あり! 【評・斎藤美奈子(文芸評論家)】





水分子と意識の関わりが見えてきません。

















