メイン > 朝日新聞日曜版『書評』 > 2006年8月27日~9月3日
| アメリカ憲法の呪縛 | |
![]() | シェルドン・S. ウォリン Sheldon S. Wolin 千葉 眞 みすず書房 2006-07 売り上げランキング : 10446 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
人民の名のもとに国家権力を拡張
本書の表題は、直訳すれば「過去の現存」である。それはどのような「過去」か。たとえば、フランスの思想家トクヴィルは「アメリカには封建制の過去がない」と述べたが、そのような見方は、今でも強い。そのため、ヨーロッパでなら革新的と見えるような自由主義が、アメリカでは保守的なイデオロギーであるといわれる。しかし、本書において、著者はそのような見方に異議を唱えている。アメリカには、封建制という「過去」があったというのである。
といっても、著者が封建制というとき、それは土地所有や貴族的特権というような通常の意味においてではなく、封建制を中央集権的国家に対抗するもう一つの選択肢として意味づけたモンテスキューの理解にもとづいている。その場合、封建制は、求心的な画一化に対する多元的な分権主義を意味する。それは民主主義を、たんなる議会制度ではなく、さまざまな「中間団体」の連合に見いだすものである。著者は、この意味で、アメリカには「封建制」の伝統があったし、一七七六年の独立革命はむしろ、イギリスの行政の求心的合理化に対抗する、封建制的な対抗革命であったというのである。
しかし、一七八八年に憲法が成立した時点で、多様な分権的体制から統一をめざす集権的国家への転回が生じた。この憲法は、国家権力を制限する機能を果たすのではなく、逆に、人民という名の下に、国家主権の無制約な拡張をもたらすものである。この憲法にふくまれた画一的な集権化の意図は、南北戦争を経て実現された。さらに、国家権力が極大化したのは、一九三〇年代の「ニュー・ディール」、つまり、国家による強力な経済介入の時期である。これは、大衆の喝采を浴びる民主主義的政治として実現されたのである。
本書が書かれたのは、一九八〇年代、このような福祉国家主義を否定し、国家の公的な仕事を市場に任せるというレーガン主義が隆盛をきわめた時期である。それは、国家の介入を斥(しりぞ)ける、アメリカの「自由主義」的伝統の名のもとに推進された。しかし、こうした民営化は、国家を希薄化するものではまったくない。それは国家機構をより合理的に強化するだけだ、と著者はいう。地方分権を強調する新自由主義は、実際には、国家的統治を強化することを目指している。それは、国家と資本、政治と経済の結合を強化しながら、しかもそのことを隠蔽(いんぺい)するものである。
かくして、「合衆国に生まれつつあるのは、新しい形態の権力の全体化である」。著者の意見では、これに対抗するためにはやはり「民主主義」によるほかないが、真の民主主義は、新自由主義にも福祉国家主義にもない。それらは、人民の名のもとに国家権力を無制限に拡張する憲法の呪縛の中にあるからだ。アメリカの「草の根民主主義」は、政府や議会という代表制の形式にではなく、憲法以前のいわば「封建制的な」志向にこそある。ある過去の呪縛を脱するためには、選択肢としてもう一つの「過去」を見いだす必要があるのだ。【評 柄谷行人〈評論家〉】
| 八月の路上に捨てる | |
![]() | 伊藤 たかみ 文藝春秋 2006-08-26 売り上げランキング : 541 おすすめ平均 ![]() 何気ない時の流れというものを感じました 重いテーマなのにさらっとした感じ お見事!Amazonで詳しく見る by G-Tools |
詰将棋に「けむりづめ」というものがある。今期の芥川賞を受賞した表題作の中で紹介されている。残暑厳しい八月最後の日、新宿界隈(かいわい)を回るトラックの中で、年上の女性ドライバー・水城さんは、主人公の敦に「けむりづめ」を説明する。
〈駒をどんどん取られながら追いつめて〉〈駒は煙みたいにぽんぽん消えていく。だけど上手(うま)くやったら、最後の最後で玉を追いつめられる〉
敦は「けむりづめ」にしくじってしまった。だから、明日――三十歳の誕生日に離婚届を役所に提出する。八月の終わり、二十代の終わり、結婚生活の終わり、さらには水城さんもドライバーの仕事は今日が最後……いくつもの「終わり」が交わった一点で、物語は過去と現在を行きつ戻りつして紡がれる。
敦と妻の知恵子が過ごした四年間は、「けむりづめ」と同様、盤上の駒を失いつづける日々だった。夢や野心が消え、仕事の疲れが二人から言葉を奪い、やがてもっと大切なものも失われて、盤上からは、攻める駒はもとより守る駒まですべて、いっさいが消えうせてしまう。
八月の路上のうだるような暑さが立ちこめるなか、結婚生活のエピソードの一つひとつもまた、風ひとつ吹くことなく重い。だが、若い夫婦の出口のない日々は、水城さんという魅力的な人物に笑い飛ばされたりはぐらかされたりすることで、ただの「夫婦であることの苦悩」から脱し得た。重さがなくなったのではない。それをさせないところが、伊藤たかみさんの人間を見る目の覚悟だろう。敦を包む現実の重さは変わらない。けれど、水城さんが重心の位置を前方に移してくれた。そのおかげで「終わり」の交点で紡がれる物語は、次の「始まり」への推力を得たのだ。
一方、併録された『貝から見る風景』では、「始まり」でも「終わり」でもない夫婦の日常が、かすかな不穏をはらんだ幸福感にくるんで描きだされている。優れた青春小説の書き手である新・芥川賞作家は、いま、「夫婦」という新たな鉱脈をも見いだしたのではないか。
| 刺繍―イラン女性が語る恋愛と結婚 | |
![]() | マルジャン・サトラピ 山岸 智子 明石書店 2006-07 売り上げランキング : 2310 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
社会の重圧笑いとばし、たくましく
現代イランの恋愛・結婚事情を、えぐみのある絵と率直な言葉で、痛快に描いた本である。
昼食会が終わった後、いつもどおり昼寝にいく男性陣。残された女たちは後片付けを終えると、サモワールで沸かしたお茶を飲みながら、「心の換気」と称するおしゃべりに花を咲かせる。陰口や愚痴、告白、涙……。でもこれがまったく陰湿じゃない。自らの手痛い経験までも、すべて激烈な喜劇として、あられもなく、笑い飛ばす。
処女性に重要な価値があり、結婚は親の意向が重視されるなど、女性にとっては重圧の多い国。女たちはその現実に、様々な策を弄(ろう)して抵抗してきたのだ。
ある女性は、家事と亭主の世話にあけくれる「妻」より、「愛人」でいるほうが最高と言い、処女を失ったことを悔やむ女性に「これで好きなだけセックスをしても、誰にもわからないわよ。この下にはメーターなんかついていないのよ!」と自分の下腹部を指差しつつ激励する(なるほどねえ、メーターか)。
また、ある女性は、自分の尻の脂肪を胸にまわして豊胸・痩身(そうしん)の整形手術をしたことを告白し、「でも、あのばかは(夫のこと)、私の胸にキスするたびに、実はお尻にキスしているんだってことを知らないのよ」(どひゃー)。
ちなみに、本の題名は処女膜などを縫い直す意味の隠語。部分刺繍(ししゅう)もあれば全面刺繍もあるとか。「案外たくさんのひとがしてるのよ!」
一座の最年長の婦人は言う。「人生っていうのは……馬の上に乗る時もあれば、馬を背負う時もある」。その「馬」の感触、イラン女性ならずとも、身に覚えがあるはず。
現在、核開発やテロ組織支援などで、危険な強気を誇示するイランだが、一方、本書に見る女たちの報復には一神教の閉鎖的な共同体に、風穴を通す陽気さがある。自国の政治をどう思うか、彼女らに本音を聞いてみたい。
筆のタッチで描かれた絵は、人物の目や皺(しわ)の表情に、生々しい魅力が。漆黒の優(まさ)る独特の絵柄に、わたしはアジア的な懐かしさを覚えた。
禿鷹狩り―禿鷹〈4〉
逢坂 剛
ここには外面描写を徹底したダシール・ハメットが、鮮烈なサディズムとエロティシズムを追求したハドリー・チェイスが、ギャングたちの心意気を気高く描いたフィルム・ノワールの記憶がこだましている。しかも逢坂剛らしい鮮やかなキャラクター、卓越した技巧、ダイナミックなアクションとともにだ。
主人公は禿富鷹秋(はげとみたかあき)、通称ハゲタカ。渋谷神宮署の生活安全特捜班の警部補だが、実は暴力団も手玉にとる冷酷非情な悪徳刑事だ。そんなハゲタカの前に、女性刑事岩動寿満子(いするぎすまこ)があらわれる。岩動は女ハゲタカともいうべき悪徳刑事で、署から禿鷹を追い出すべく次々に罠(わな)をしかけてくる。
『禿鷹の夜』『無防備都市』『銀弾の森』に続く禿鷹シリーズ第四作で、いきなりクライマックスだ。時間があれば第一作から読んだほうがいいが、単独でも充分(じゅうぶん)に愉(たの)しめる。禿鷹と岩動との対決という前三作とは関係のない物語がメインで、虚々実々の息詰まる攻防が最後まで続き、読み始めたらやめられなくなるからだ。特に圧倒的なのは、関係者一同が対峙(たいじ)する終盤だろう。互いの生存をかけた戦いが、凄(すさ)まじい迫力とともに活写される。息をのむほどの緊迫感にみちていて、まさにシリーズのハイライトだ。
残念ながら本書で禿鷹は退場するが、シリーズは終わらないだろう。作者の代表作の百舌シリーズ(『百舌の叫ぶ夜』『幻の翼』)が公安シリーズに転化したように、禿鷹シリーズも神宮署シリーズに転化していく気がする。そのための布石があちこちにある。
ともかくシリーズなのに、どこから読んでも面白く、小気味いいひねりをきかせて、驚きの結末へと持っていく。小説の視点が曖昧(あいまい)な小説が幅をきかせているが、逢坂剛は厳格に人物の視点を守り、徹底した外面描写で、禿鷹の心理を一切描写しない(唯一エピローグで彼の真意を知ることになる)。洗練されつくしたスタイルで、凄絶(せいぜつ)な暴力と散華を描ききっている。映画に奪われた“活劇”の面白さと昂奮(こうふん)を、久々に小説に呼び戻した傑作シリーズの白眉(はくび)。これぞ最高の犯罪小説だ。
| 脳が「生きがい」を感じるとき | |
![]() | グレゴリー バーンズ 野中 香方子 Gregory Berns 日本放送出版協会 2006-07 売り上げランキング : 965 おすすめ平均 ![]() 人は新し物好きAmazonで詳しく見る by G-Tools |
ヒトの満足感を科学する
人はどういうときに満足、いや「生きがい」を感じるのか。そのとき心、いや脳の中では何が起きているのか。脳科学者は、ある種の物質、具体的に言うならドーパミンなどが放出されているときだと答える。なるほど、しかしこれではあまりに味気ない。
では質問を変えよう。人はどういう状況で満足を感じるのか。むろん人それぞれだろうが、少なくとも新しいことに挑戦し、それなりに達成したときは、思わず「生きていてよかった」と思うのではないか。
人の感覚や感情をどのように測るかについては、長らく困難があった。ところが最近は、MRI(磁気共鳴映像法)という魔法の装置が開発されたことで、脳の血流を即時的に測れるようになった。つまり、脳のどこがいちばん興奮しているのかが、手に取るようにわかるのだ。
本書の著者は、MRIを駆使して脳の中の「満足中枢」とでもいうべきものを探ってきた。しかしそれだけではあきたらず、人が満足を感じる瞬間を求めて、自ら場末のSMクラブからアイスランドくんだりまで旅をする。科学の人間的側面を追体験させてくれる上に、北欧神話などの蘊蓄(うんちく)もたっぷりの好著である。【評 渡辺政隆(サイエンスライター)】
| 柘榴のスープ | |
![]() | マーシャ メヘラーン Marsha Mehran 渡辺 佐智江 白水社 2006-06 売り上げランキング : 4192 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
イラン革命の混乱を逃れてアイルランドの片田舎に移住したイラン人三姉妹が、人情味豊かなイタリア夫人から店を借りて、横柄な町のドンの嫌がらせや、スキャンダル好きの婆(ばあ)さんに囲まれるなか、イラン料理店を開くお話。三姉妹のなかでも一番美人の末娘と、町のドンの美形の息子が一目惚(ぼ)れ(会うなり互いの目に星、背に花が飛ばんばかりの描写が、いかにも中東風)、最後はハッピーエンドの、売れっ子イラン女性によるほのぼの小説だ。
と思いきや、各所に深刻な政治情勢が反映されている。長女は、左派系インテリの彼氏に協力したことで、革命前の王政下で逮捕された経験を持つ。次女は反対に右派宗教政党にかぶれ、その関係で結婚した夫が暴力亭主。革命という動乱に振り回された彼女たちの、波瀾(はらん)万丈の人生が浮き彫りになる。
だが、内容は重くならない。大家や神父、膨大な哲学的知識を持つブルガリア出身のホームレス。本書に登場する多様な国(特に南国)の出身者の心の豊かさが、三人を包む。
それと、料理。イラン料理の芳しい匂(にお)いが全編に漂い、たまらない。レシピも書いてあるし、今日はイラン料理を作ろうっと。【評 酒井啓子(東京外国語大学教授)】
| 近代東アジアのグローバリゼーション | |
![]() | マーク カプリオ Mark E. Caprio 中西 恭子 明石書店 2006-07 売り上げランキング : 9064 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
日本との関わりに正負両面
グローバリゼーションは冷戦の終焉(しゅうえん)やIT革命などとももちろん無縁ではないが、本質的には秩序概念そのものの変化であり、したがってそれは深層でゆっくりと進行しつつ、あとから振り返るといくつかの断層が刻まれているような構造的な歴史的変化である。
東アジアにとってこの意味でのグローバリゼーションは、近世的な華夷秩序から、近代的な国際秩序へ、そしてポスト国民国家的な秩序へという三つの局面のシフトとして捉(とら)えられる。本書は、この三つの局面を見通す理論的なパースペクティブを示しつつ、東アジアにおいては、近代化の正負両面が、しばしば〈帝国としての日本〉との関(かか)わりの中で経験されるという論点が、多様な角度から論じられている。また当時発達した通信技術が、行政の集権化、市場統合を可能にしたことなどを検証した第三部の議論は、一見地味ではあるが、重要な切り口である。
寄稿者の陣容も贅沢(ぜいたく)で、特に米国の中国史学の現在の水準を代表する理論家のひとりでありながら日本での紹介が遅れていたシカゴ大学のプラセンジット・ドゥアラ教授の論考が収められたことは喜ばしい。ケレン味のない硬派の良書。【評 山下範久(北海道大学助教授)】
| 私の沖縄戦記―前田高地・六十年目の証言 | |
![]() | 外間 守善 角川学芸出版 2006-06 売り上げランキング : 5651 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
二十歳の青年の絶望的戦い
昭和十九年七月、サイパンが玉砕。沖縄師範の生徒だった著者は二十年三月、現地入隊となる。四月には米軍が上陸。訓練の時間がなかった初年兵は、三八式や九九式銃の弾込めすらできなかったという。
首里の北方約三キロにある前田高地は、東西南北に展望のきく首里防衛の第一線であり、日米両軍にとって天王山の地であった。入隊早々の著者は、その高地の死闘に投ぜられた。
米軍戦車と火炎砲と小銃の息をつがせない集中攻撃、それに対して、あらゆる弾を撃ちつくした日本軍は拳大の石塊を投げ、敵の手榴弾(しゅりゅうだん)を投げ返すなど素手同然で向かう。戦友の死体が積み重なった中の、二十歳の青年の絶望的な戦い。
次第に、物量豊かな米軍に圧倒され、仲間も次々と斃(たお)れてゆく。外間二等兵も右手右足に小銃弾、手榴弾の破片をうける。そのあと、敗戦も知らず、負傷したまま壕(ごう)にひそみ、山中をさまよい、結局、八月後半に捕虜として収容された。
手榴弾自決の兄、米潜水艦の魚雷により沈没した対馬丸で死んだ妹をもつ沖縄学の第一人者が、関係者の聞き取り調査とともに、苛酷(かこく)きわまりないみずからの戦場を振り返り、鎮魂の思いをこめて記したドキュメント。【評 小高賢(歌人)】
| 乞胸 江戸の辻芸人 | |
![]() | 塩見 鮮一郎 河出書房新社 2006-07-15 売り上げランキング : 5389 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
今でも神社の境内で興行される見世物(みせもの)の「蛇食い」や「火吹き」のどぎつい絵看板には、たんなる好奇心を超えて、何か魂の粘膜的な部分に触れてくるものがある。
奇妙に胸をどきどきさせるこの不思議な感覚のルーツには、近代市民社会から遠ざけられた芸能と貧困と差別の隠れた血縁関係が潜伏しているのではなかろうか。
かねて『浅草弾左衛門』や『車善七』で江戸の被差別民の世界を描いてきた著者が、本書でテーマに取り上げるのは、やはり社会の底辺に生きて「乞胸(ごうむね)」と呼ばれた芸能集団の歴史である。名の由来は「先方の胸中の志を乞(こ)う」ところからきたとする語源説が有力だそうだ。
乞胸の研究史にはすでに多くの積み重ねがある。今回、石井良助・高柳金芳の業績がほぼ動かしがたいこの領域に筆を下ろすのは、著者に新しい切り口があるからだ。浪人という江戸時代の構造的失業問題を機軸に据えて定石とされる史料の『乞胸頭家伝』を読み直すのである。
家伝によれば、幕府ができて間もない江戸には、戦争が終わり、大名家が取り潰(つぶ)されて職を失った大量の浪人が溢(あふ)れていた。長嶋磯右衛門という男が窮状を見かね、食うに困った浪人仲間を集めて寺社の境内や空き地で草芝居を興行して生計を立てた。
ところが幕府に上演を禁止されたため、綱渡り・手品・万歳・物真似(ものまね)といった大道芸に転じる。家業のうちには何の芸もできず、施しを求める「辻勧進」もあった。今度は非人頭車善七から手下の生業が邪魔されると苦情が持ち込まれ、慶安年中(一六五〇年頃〈ころ〉)、身分を町人に落とした上、十二種の家業に限っては車善七の支配下に入る取り決めがなされたという。
本書はその「特異な芸人集団」の軌跡を話題豊かにたどり、明治四年(一八七一)の解放令で乞胸の名称が廃止され、大道芸がハレの場から追放されるまでを語る。
乞胸が歴史の暗がりに消え去り、差別が格差と名を変えた現代日本でも、哀切な起源から伸びてきた芸能の根茎は長く絶えることがない。【評 野口武彦(文芸評論家)】
| 「知識人」の誕生 1880‐1900 | |
![]() | クリストフ シャルル Christophe Charle 藤原書店 2006-06 売り上げランキング : 17037 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
イスラエル軍のレバノン空爆が激化するさなか、パレスチナ出身の故エドワード・サイードが一九九四年に刊行した『知識人とは何か』を読みなおした。そこで彼は、今日あるべき知識人を亡命者にしてアウトサイダー、権力に屈せず専門領域に閉じこもらないアマチュアと再定義している。メディア戦略にも敏感だったサイードは、東と西、少数派と多数派のみならず、現実と虚構の境界線を問い直す代表的な知識人だった。
本書の著者シャルルは、そんな「知識人」概念が、一八九四年に第三共和制のフランスで起こった「ドレフュス事件」をきっかけに生まれたいきさつを比較社会史的に説き起こす。それは、ユダヤ系の将校ドレフュス大尉が軍の機密を記した「明細書」をドイツへ流したというスパイ容疑で逮捕され、えんえんと裁判が行われるも、肝心の文書が偽造のためドレフュスが冤罪と決まり、名誉回復がなされるまで八年もの歳月を要した事件である。普仏戦争に付随する反ドイツ感情ゆえにドレフュスがスケープゴートにされたのだとする説もあれば、ハンナ・アーレントのように、それはじつは、パナマ運河疑獄にユダヤ人がからんでいたことの余波なのだとする説も力強い。
かくして、ドレフュス派が民主主義に基づき真実を明らかにするという大義名分を掲げるいっぽう、反ドレフュス派はそれ以上に国家を中心にした秩序の維持を優先させるという対立が露呈した。前者に与(くみ)する自然主義作家エミール・ゾラは一八九八年にドレフュス再審を求める宣言「われ弾劾す」を発表、その賛同者の署名運動が後者の陣営より「知識人の抗議文」と呼ばれたところから、今日でいう「知識人」が成立する。
人種をめぐる論争は、先行する「文人」の役割を発展させながら、ときに「エリート」とも対立しつつ「真のエリート」を自負するような新しい階級を浮上させた。
ゾラが当時最先端の科学を意識した文学者だったことを考え合わせるなら、本書の知識人像は、いまなお啓発的に映る。【評 巽孝之(慶応大学教授)】
| 現代韓国と女性 | |
![]() | 春木 育美 新幹社 2006-08 売り上げランキング : 3426 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
| 子育ての変貌と次世代育成支援―兵庫レポートにみる子育て現場と子ども虐待予防 | |
![]() | 原田 正文 名古屋大学出版会 2006-07 売り上げランキング : 5082 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
少子化対策を韓国と母親から考える
日本の少子化が社会問題になっているが、それ以上に急速な少子化現象が見られるのが韓国である。同国の統計によれば、60年に6・0であった合計特殊出生率が最近では1・1を下回り、世界最低の数値を示している。
『現代韓国と女性』は、こうした現状が生じた原因と韓国政府の対応、そして問題点について豊富な資料を基にまとめたものである。同書によれば、まず70年代までの朴正熙大統領下における強力な人口増加抑制政策により出生率が減り始めると、少ない子どもに教育費をかけるようになり、大学進学率が男女ともに8割を超えるようになった。このため大卒がエリートではなくなり、4年制大卒女性の40%しか正規職に就けない厳しい「買い手市場」となる。また、せっかく希望通りの仕事に就いたとしても、いったん職場を離れた女性がホワイトカラー職に戻ることは困難であり、再就職で就く仕事の9割が販売サービス・単純労働職となっている。その結果、出産より現在の仕事の継続を望む女性が増えていることが少子化の一因になっている。
これに対する政府の施策は産休制度や育児制度であるが、それを遵守(じゅんしゅ)しない職場が多いのが実情である。しかしその一方で、様々に事情は異なるものの、大胆かつ積極的な対応策を即座に実行に移す、日本には見られない政治全体のダイナミズムには学ぶべきものがある。たとえば、大統領制によるトップダウン方式のおかげで、3年前には「両性平等採用目標制」を設けて公務員採用に際して女性にアドバンテージを与えたり、男女共同参画を保証するための制度的枠組みとして選挙に際して一定割合の候補者を女性にする「クオーター制」を導入したりした結果、女性の政官への進出が進んで女性が首相になるなど変化の兆しもみられる。
こうした公共政策を論じた前述書に対し、母親の側を基点に日本の問題解決を探るのが『子育ての変貌(へんぼう)と次世代育成支援』だ。著者は、ある自治体で3度にわたって行った調査結果を、著者自身が80年に別の市で行った調査結果と比較しながら、論を進めている。
著者によれば、出産前に自分の子どもではない他の子どもとの接触(おむつを替え、食事を食べさせるなど)が減少したために「子どもとどうかかわってよいのかがわからない」母親が増えている。また、今の世代は男女ともに「いかに自分のしたいことを実現するか、自分の夢をかなえるか」という自己実現を目指すように育ってきたが、実際の子育てでは自己実現ではなく自己犠牲の色彩が強いために、1歳半の子どもをもつ母親で「育児でいらいらすることが多い」と感じる割合が80年に比して3倍程度に増えているという。
こうした現状に対して、著者は「次世代を担う子供の養育は社会全体の責任である」という立場から、グループ子育てに参加できる機会として「市民主体の子育てネットワーク」を増やし、困難な事態が生じた際には専門家がかかわる体制を作るべきだなどと提言している。「母親の内面のストレス」にまで踏み込んだ少子化対策を考えさせる一冊である。【評 小林良彰(慶応大学教授・政治学)】
| 国債の歴史―金利に凝縮された過去と未来 | |
![]() | 富田 俊基 東洋経済新報社 2006-06 売り上げランキング : 5994 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
日本の国債残高は06年度末で542兆円に達する見込みだ。対国内総生産(GDP)比では第2次大戦中の水準に並び、G7諸国の中でも最悪の借金国だ。なのに、国債金利(10年物新発債)はこの7月のゼロ金利解除後も2%を下回っている。膨大な財政赤字を抱えながら歴史的な低金利を維持している日本国債の信用力(償還の確実性)は、一見すると高く見えるが、実態は違うと著者は言う。冷戦が終焉(しゅうえん)した90年代以降、いずれの主要国でも国債金利は大幅に低下しているからだ。
そこで「同一の貨幣で元利金が支払われる」各国の国債金利を比較すると、円建てイタリア国債のほうが日本国債よりも低く、イギリス国債よりもポンド建て日本政府保証債のほうが高い。こうした金利差を見れば、日本の信用力が欧米の主要国より劣っているのは一目瞭然(りょうぜん)である。
本書によれば、国の借金である「国債の歴史はきわめて新しい」。なぜなら、どの国でも国債の信用力を支えているのは、「議会が決めた」税収を担保とする償還財源だからだ。国債の誕生には寿命のある国王に代わり、イギリスの名誉革命を嚆矢(こうし)とする恒久的な議会の創設が必要だったのだ。そこに、国債は「国の政治を体現し」、金利は「国の未来」に対する市場の評価だと言われる理由がある。
その典型が、過去の戦争と国債金利の関係に示されている。国債と言えば第2次大戦までは戦費の調達手段であり、時々の金利には市場による勝敗の予想が反映されていた。市場は常に正しかったわけではないが、市場の声を無視した多くの国は戦いに敗れ、国債もデフォルト(債務不履行)したという。
誕生以来、「国の歴史を映してきた」国債の教訓は、戦争を財政赤字に置き換えれば現在でも通用する。実際、5年半に及ぶ小泉政権の間に国債残高は150兆円近くも増え、新たな償還財源の手当てを怠ってきた日本の「未来」に対する、国際金融市場の評価はきわめて厳しい。その意味で財政再建は待ったなしの政策課題だ。それが本書を貫くメッセージである。【評 高橋伸彰(立命館大学教授)】
| 野蛮(バーバリズム)の世紀 | |
![]() | テレーズ デルペシュ Th´er`ese Delpech 中谷 和男 PHP研究所 2006-06 売り上げランキング : 69642 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
かつて自由と民主主義を求めて専制と戦ってきたヨーロッパはもう存在しない。現在のヨーロッパは、世界のあちこちに巣くう独裁や恐怖の体制に目をつむり、歴史から隠居して、内向きの平和主義に耽(ふけ)っている――。これがイラク開戦を前に「古いヨーロッパ」を批判したラムズフェルド米国防長官や、『ネオコンの論理』の著者R・ケーガンの言葉なら驚きはない。しかし、フランスの核問題専門家の言葉だったとしたら?
本書の議論は、スターリニズム、ナチズムを筆頭に、毛沢東、ポル・ポト、金日成、サダム・フセインといった専制のリストで始まる。そのリストは、1905年――著者によればこの年こそヨーロッパが「歴史から隠居」しはじめた象徴的な年である――を起点とした政治的暴力の20世紀史を描き出し、返す刀で今後20年間にわたるいくつもの専制の危険に激越な警鐘が鳴らされている。曰(いわ)く、ロシアはKGBの亡霊とマフィアに牛耳られた暴政国家だ。曰く、中国は毛沢東の負の遺産を全く反省しない人命軽視国家だ。北朝鮮やイランは言うに及ばず、パキスタンも油断ならない。これら現にある専制にヨーロッパが立ち向かうか否かが、「野蛮化」から世界が救われるか否かの決定的な岐路なのである……。
本書を核問題専門家の率直な軍事的リアリズムと読むか、ステレオタイプでイデオロギー的な世界観に基づく好戦的アジテーションと読むかは、読者によって大いに評価の分かれるところであろう。しかし留意しておきたいのは、本書のような議論が、「古いヨーロッパ」の内部でも決して泡沫(ほうまつ)的な少数派ではないということである。そして日本においてもまた、同種の言説は、決して極論ではなくなってきている。
時事性の高い本書を、鮮度の失われぬうちに日本の読者に届けようとされた訳者の努力には敬意を忘れたくない。それだけに、年号の誤記や固有名詞の表記のゆれ、訳注の妥当性の吟味など、もう少し慎重に編集が行われていれば除きえた不体裁が散見されたことが惜しまれる。【評 山下範久(北海道大学助教授)】
| アーニー・パイルが見た「戦争」 | |
![]() | ジェームズ トービン James Tobin 吉村 弘 芙蓉書房出版 2006-06 売り上げランキング : 1750 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
「軍服を着た市民」描いた従軍記者
戦争中、僕の妻の父が出征していたとき、義母はたびたびニュース映画を見に行ったものだと聞いたことがある。それは映像のどこかに、自分の夫の姿が写っていやしないかと思ったからである。
アーニー・パイルは第2次世界大戦期のアメリカで、兵士とその家族に最も人気のあるコラムを書く従軍記者だった。その人気は、誰からも注目されない平凡な兵士である夫や息子について、彼が報道してくれるのではないかという期待と結びついていた。その彼自身も、目立たない風貌(ふうぼう)の人だったという。
多くの従軍記者が戦況報道を追いかけて、司令部の広報担当官の発表に群がっていたのに対し、彼はあくまで現場で兵士たちの姿を報道することにこだわっていた。彼が訪れた現場には、銃火を交える前線だけでなく、目につかない後方の兵器の修理部門もあった。彼は米軍兵士たちを、「軍服を着た市民」として描いたといわれている。戦争前に彼は、移動記者としてアメリカの全土を回り、数千人の市民と出会いコラムに書いたが、この経験が兵士たちのコラムにつながったのである。
ベトナム戦争を経た後の視点からすると、アーニー・パイルが描いた「戦争」は、彼が実際に見た、凄惨(せいさん)な戦場のすべてを報道していたわけではなかったことが分かってくる。彼は死者を「静かに眠る」ものとして描写し、ちぎれた肉片や酷(むご)い傷を書こうとしなかった。そこで兵士は、困難な状況の中で生き抜く、希望を感じさせる姿で描かれており、それは軍当局にも大いに受け入れられるものだった。彼の記事は、アメリカ人にとって「よい戦争」と記憶される第2次世界大戦観を形作るものであった。
ただ、アーニー・パイルの記事には、兵士たちの孤独や恐怖や疲労も描かれていた。その彼は、45年4月に従軍死した。本書は、戦争の重圧に押しつぶされそうになりながら、たえず現場に戻っていこうとした彼の姿を伝えている。兵士の「友」であろうとした戦争ジャーナリストの持つ意味と問題性は、今も問われ続けているといえよう。【評 赤澤史朗(立命館大学教授)】
| テレビ政治―国会報道からTVタックルまで | |
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小泉政権が間もなく終わろうとしている。5年前に小泉政権が誕生した当時、小泉首相の党内基盤は決して盤石だったわけではない。首相を支え続けたのは、支持率の高さであった。その源泉は、小泉首相独特のメディア・パフォーマンス、別名「小泉劇場」だとされる。特にその舞台を提供したテレビは、小泉政治のお先棒を担いだと非難を浴びることとなった。
では、小泉政権に見られる政治とメディアの関係性とは、どのようなものか。テレビ出演も多い朝日新聞の編集委員と東大の若手政治学者が、テレビが発する政治情報の今日的意味を検証したのが本書である。
著者らは、政治情報は、55年体制下では政官の玄人・業界向け情報であったが、80年代以降は、素人・平場向けの説明・説得力が求められるようになったと分析。この変化の過程で政治的影響力を強めていったのがテレビであり、特に小泉首相は、圧倒的なテレビ露出により、イメージ戦略を徹底した。いま、「政治」を扱うメディア間の関係性も揺らいでいると分析する。実力以上の影響力を持ったテレビの政治報道に対し、中身の充実、討論性・国際性の重視などを説く。これは、他のメディアに共通する課題でもある。【評 音好宏(上智大助教授)】
| プロ野球・燃焼の瞬間―宮田征典・大友工・藤尾茂 | |
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胸襟開く「八時半の男」たち
短い栄光の時を持つ巨人軍のエース(宮田征典、大友工)と捕手(藤尾茂)を描く連作ノンフィクション。
インタビューと史料を交錯させる作品スタイルだが、サラリーマンとの二足の草鞋(わらじ)を履く昭和39年生まれの著者の立ち位置がプラスに作用している。
この本が出た後、病没した宮田は、インタビューの最後に差し出される色紙に「八時半の男」と書いて照れくさそうに笑い、著者は「四〇年前の思い出が今もこの人の中に生きており、その後の指導者としての人生を支えてくれているという思いが改めてした」と記す。
昭和30年に年間30勝を挙げた大友は、大正14年生まれ。野球人の一番大切な言葉として「努力」を挙げ、それを色紙に書いた。今のプロ野球に対する感想を求められて「ほとんど見ていない。おもしろくないですネ」と呟(つぶや)く。
最も多くのページを割いた最終章では、藤尾とV9捕手森昌彦とのレギュラー争いの真相が検証されていく。斬(き)り捨て御免の非情な組織であることが明らかにされながらも、伝説の捕手は色紙に「読売巨人軍 藤尾茂」と大書する。
戦後日本人の光と影を重ねようとする著者に、胸襟を開く老雄たちの姿が麗しい。【評 佐山一郎(作家)】
| 神話の心理学 | |
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創造の起爆力としての「悪」
神話とは一体何なのだろう。どんな力がそこにあるのか。そして私たちの生き方や人生に、それはどのような働きを及ぼすのか。神話離れの時代に危機感を覚える著者が、「神話」という無尽蔵の井戸にしまわれた意味を、凝縮されたヒントの形で語る。そこから何をどのように汲(く)み上げるか。読者それぞれに挑戦を促す一冊である。
「人間存在のもっとも根源的なことにかかわることが、神話に語られている」と著者は言う。だからそれを読むほうにも、「人間全体の力が要(い)る」と。
紹介されている各国の神話には、荒唐無稽(こうとうむけい)で野性味をもった話が多い。例えばインドネシアには、花の上に生まれた女の子・ハイヌヴェレが、地面に掘られた穴に落とされて死に、その死体を切断して別々の場所に埋めたところ、各部分が様々な芋類(いもるい)になったという神話があるそうだ。ここから著者が導くのは「何か新しいものが生み出されるために死(殺人)が存在しなくてはならない」という生と死の逆説。
子捨て、子殺し、親殺し、密通、姦計(かんけい)、盗みなど、神話には悪の行為が満載だが、その悪が創造の起爆力として働くことも。神話に描かれた象徴的行為には、深遠な智恵が隠されている。【評 小池昌代(詩人)】 評・小池昌代(詩人)
| 本朝金瓶梅 | |
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中国で何度も発禁になった恋愛古典「金瓶梅」に着想をえた時代小説だが、作者は江戸を舞台に自由に物語を紡いでいる。
主人公は、札差業を営む無類の女好きの西門屋慶左衛門。寄ってくる女だけでなく、あちこちの女の噂(うわさ)をきいてはものにすべく奔走する。そんな慶左衛門に見初められたのが、人妻おきん。彼女は亭主を殺して、慶左衛門の妾(めかけ)となるものの、愛人はほかにも沢山(たくさん)いて、冷戦が繰り返される――。
「金瓶梅」だから性描写が多い。慶左衛門の頭の中には女と寝ることしかなく、愛人たちはいかに他の女たちよりも多くの寵愛(ちょうあい)をうけるか策をめぐらし、ときに罠(わな)を仕掛け、ときに殺人も辞さない。どこまでも淫(みだ)らで、放恣(ほうし)で、意地が悪く、とことん欲が深い。それなのに決して不快な印象はなく、むしろ微苦笑を覚えつつ読んでしまうのは、作者が、惑い多き凡夫たちの願望を包容力たっぷりに描いているからだろう。つまり“思う存分に色ごとにふける”ことの愉(たの)しさと卑しさと苦しさを冷静かつ悠々と捉(とら)えているからである。
きわめてポルノ的であるが、同時に人間への洞察に富む優れた笑劇である。ボリュームアップした長篇(ちょうへん)を読みたいものだ。【評 池上冬樹(文芸評論家)】
| 旅する巨人宮本常一―にっぽんの記憶 | |
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民俗学者が写した昭和の風景の「今」
企画が抜群の本だ。主役は、生涯の4000日を旅に暮らした民俗学者・宮本常一と、彼の写真で切り取られた昭和の懐かしい風景及び人物達(たち)。
「多くが、やがて消えゆくに違いない」との思いから、宮本は民俗調査や農業指導で訪ねた先々で、様々なものにレンズを向けた。本書はそこに記録された風景と人物を追い求め、宮本生誕の地・山口から九州まで彼の足跡を多くの新聞記者が取材したルポだ。
貧しくも、自然の美しさと心の豊かさがどこにもあった。戦後から高度成長期を挟み、激しく変貌(へんぼう)した日本。物質的豊かさを獲得した一方、失ったものは大きい。宮本が撮った写真と、同じ場所の今を取材した記者達の思いのこもった文章は、この30年、50年の間に日本人が何をどう失ったかを強烈に訴えかける。
撮影場所の多くは、離島や辺鄙(へんぴ)な町や村。高度成長から取り残された所だ。宮本の古い写真には、まだ元気だった農業、牧畜業、林業、漁業、製塩業など、日本を支えた第一次産業と結び付く風景が活写されている。今残っていれば、自然と人間の営みが調和した文化的景観の価値を持つものばかりだ。
開発で道路や橋が建設される以前、宮本が訪ねた離島や海辺の古い町や村には、港に船の賑(にぎ)わいがあった。連絡船でだけ他の地域と経済も文化も繋(つな)がっていた。宮本は生活改善のため橋や道路の建設を応援はしたが、地域の自立こそが重要だと説いた。だが現実には、便利になるほど都会に力を奪われ過疎が進んだ。
シャッター通りと化した商店街の賑わいも今は懐かしい。山口県柳井の町での宮本の観察眼は鋭かった。彼に批判された銀座の名前をもつ商店街は今や寂れ、逆に評価を受けた無名の伝統的町並みが観光の切り札となっている。宮本は優れた民俗学者である以上に、地域の生き方に対し慧眼(けいがん)を示し、彼の言葉が地元の人々を勇気づけたのだ。
人口減少化の成熟社会を迎えた日本。小さな町の自立や生活を切り捨て、首都圏や大都市への集中をこのまま続けてよいのか。本書はそう問いかけているようにも見える。【評 陣内秀信(法政大学教授)】
| 女人蛇体―偏愛の江戸怪談史 | |
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女人蛇体という言葉は、原形的にエロティックで危険なイメージに満ちている。
どうも有史以来、この国の女性の一部は、極限の心理的・感情的条件のもとで蛇に変身して男に復讐(ふくしゅう)するらしい。いちばん有名なのは道成寺伝説だが、その他多くの《蛇になる女》の物語は、古代から江戸時代まで繰り返し出現して途切れることがない。
近世怪談の研究者である著者は、オソレという感覚からこの永遠の主題に迫ろうとする。民俗学風の語法に見えるが、実際は著者独得(どくとく)の用語である。大まかな枠組みをいうなら、古代・中世の説話では神仏に対する畏怖(いふ)であったオソレが、近世文学に至って生身の女に対する恐怖に変わったという論旨だ。
いったい何人の蛇婦が仏教の力で救われて成仏したことであろう。それも束(つか)の間(ま)、次の時代にはまた新たな蛇霊・蛇妖・蛇淫(じゃいん)の物語が生まれ出る。女の髪は無数の小蛇になってうごめき、帯が蛇になってするすると辷(すべ)り出し、芝居の舞台にも全身に鱗(うろこ)をまとった幽霊が登場する。著者はありきたりの《共同幻想》などでは安直に説明しない。男女の愛憎にまつわる「家庭生活の底無し沼」が現前した姿と見るのである。
この種類の蛇が棲息(せいそく)するのは、主として「閨(ねや)の薄暗がり」である。紹介される妖怪絵本『今昔百鬼拾遺』の一画面で、屏風(びょうぶ)越しに男女交情の場面を覗(のぞ)き込む女の幽霊の下半身が蛇身になっているのは、不気味だが哀れを誘う。
学者がつらいのはハイライトを自分で創作できず、作品の引用で盛り上げなくてはならないことだ。豊富な例話を取り揃(そろ)えた実証は手がたく、構成も整っているが、惜しむらくはパズルを完成する何か決定的な一片が揃っていない印象が残る。いつか幻の名作が紹介されるに違いない。
ある日突然、女がいきなり脱皮して、鱗の生えた素肌もあらわに巻き付いてくる。男の潜在意識にまどろむこのオソレこそ、男女の間に《恐怖の均衡》を保つ一筋の糸ではないか。碩学(せきがく)の著者が解き明かすのは、怪談が語る江戸の人性観察である。【評 野口武彦(文芸評論家)】



何気ない時の流れというものを感じました


















