メイン > 朝日新聞日曜版『書評』 > 2006年6月25日~7月2日
| アメリカ南部に生きる―ある黒人農民の世界 | |
![]() | セオドア ローゼンガーテン Theodore Rosengarten 上杉 忍 彩流社 2006-05 売り上げランキング : 2024 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
恐るべき記憶力、観察力、行動力!
正直に言うと、この本、途中で投げ出そうかと思った。奴隷解放後のアメリカ南部に生きた黒人の長老の一人語りなのだが、日常の些事(さじ)に話が及びすぎているように思えたのである。綿花畑で働くのがどんなに大変な作業かは実感として伝わってくるのだけれど、四百字詰め原稿用紙にして千七百枚以上にのぼろうかという大著の半ば過ぎまで、ドラマティックな展開に欠けるのである。
ところが、このネイト・ショウという老人の叙述のスタイルに馴染(なじ)むにつれ、彼の言葉が深海に降り積もるマリン・スノーのごとく心の底に沈殿してゆき、ある堆積(たいせき)を超えたあたりで“化学変化”が起こる。まるで海底の機雷が次から次へと炸裂(さくれつ)するかのように、驚愕(きょうがく)が広がってゆくのである。とにかく、この異常な記憶力は何だ(!)。
たとえば、綿花にたかる害虫を「つまみあげてよーく見てやった」ら、「やつは口先を花芽や実の莢(さや)につきたて、今度は自分の尻尾(しっぽ)をそのまわりに撃ちこんで卵を産み付ける」と、ショウは回想する。このファーブル顔負けの観察眼を、彼は自分たち黒人の世界と、それにのしかかってくる白人の世界に向け、しかもドキュメンタリー・フィルムみたいに克明に再現しえたのである。
かくして成立した本書は、私の中の図式化されたディープ・サウスの黒人世界を大きく塗り替えた。白人地主のように振る舞う黒人地主がいる。小作人のショウに雇われて綿つみをする貧しい白人たちもいれば、おのれの卑劣な仕打ちの数々を、死ぬ前に黒人たちに詫(わ)びてまわる白人商人もいる。とはいえ、黒人は白人の圧倒的な支配下にあり、あの手この手の巧妙な手口で、しぼりとられるままに一生を終える者が大半なのだった。
かつての黒人奴隷の子として生まれたショウは、読み書きがまったくできなかった。が、恐るべき観察力と記憶力に加え、用心深さと粘着質の行動力によって、白人地主らからの迫害をひとつひとつ退け、やがて自動車まで所持する成功者となる。ショウの背骨を貫いていたのは、「自分を大切にし、誇りを失わない」気概であった。
その彼も、だが、白人たちからの銃撃にやむをえず応戦したあげく、不当な懲役十二年の獄中生活を強いられる。それでも辛抱強く耐えに耐え、五十九歳で釈放されるや、「わしの一生の中で一番激しく働いた」と言うくらい、再び野良仕事に没頭するのだ。最近かくも鼓舞された自伝を、私は知らない。
ショウは、よき家父長として懸命に生きた。しかし、自ら耕し広げた綿花畑から子供らは次々に去ってゆき、最愛の妻にも先立たれ、孤独な老人となった彼の前に、若い白人の大学院生、つまり本書の著者が現れる。合計百二十時間ものインタビューをまとめた作品は、アメリカで1974年に発表され、大きな反響を呼んだ。その邦訳の出版が今日にまで至ったのは、南部農村の“黒人英語”や、英文法からはずれた独特の表現が頻出したためである。幾度もの挫折を乗り越え、全訳に成功した訳者父子に敬意を表したい。【評 野村進(ジャーナリスト・拓殖大学教授)】
| ルー・ザロメ回想録 | |
![]() | ルー・アンドレーアス ザロメ Lou Andreas Salom´e 山本 尤 ミネルヴァ書房 2006-06-01 売り上げランキング : 16078 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
ニーチェ、フロイト、リルケらをとりこにした女性ルー・ザロメ。本書は、ロシア貴族の血を引き、19世紀末のヨーロッパを彩ったファム・ファタール(宿命の女)の自叙伝だ。内省的な記述が多く、波乱に満ちた体験談を期待すると肩すかしを食うが、彼女と親交を持った男性は9カ月後に一冊の本を書く、と言わしめたほどの魅力の秘密は何なのか。年下の恋人リルケに関する章では、深い情愛と冷厳な批評精神の絶妙な混交が見られ、秘密の一端を示す。
| 江戸八百八町に骨が舞う―人骨から解く病気と社会 | |
![]() | 谷畑 美帆 吉川弘文館 2006-05 売り上げランキング : 630 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
魅力的なタイトルだ。『江戸八百八町に骨が舞う』。もう、これだけだって買い。
もっとも骨は実際には舞わずに土中に埋まっている。墓地に遺跡に、もしかしたら、ほら、そこの工事現場にも。特に東京なんかはあやしいです。都市史研究家の鈴木理生氏が『江戸の町は骨だらけ』(ちくま学芸文庫)で述べているように、寺院の移転が頻繁に行われていた江戸では、墓地の下は放ったらかして上物だけお引っ越し、なんていう例がいくらでもあったのだ。
本書にも再開発に伴う発掘現場から出土した数々の古人骨の話が登場する。高層ビル街に姿を変えた汐留シオサイトの下から出てきたほれぼれするほど美しい女性の骨(溺死<できし>?)。荒川区の刑場跡から出土した不気味な頭蓋骨(ずがいこつ)の山(獄門さらし首?)。高級マンションが立ち並ぶ港区でよく出る貴族顔の人骨集団(寺院跡)。これから夏に向けてピッタリの話題である。
とはいえ、もちろん本書はオカルト目的の本ではない。遺跡や遺物は考古学、人骨は人類学という従来の枠組みを超え、考古学と人類学と医学の境界にある「古病理学」の可能性を説くマニフェストの書というべきだろう。
調査の対象は、主として18世紀の江戸とロンドンだ。ともに100万の人口を抱える世界有数の大都市でありながら、人骨に残る痕跡から両都市の特徴が浮かび上がる。
江戸は人口の約6割を男性が占める町だった。そのため遊郭も多く、町人層の人骨にはかなりの率で性感染症(梅毒)の痕跡が残る。ロンドンの人骨に多いのは、ビタミンD不足によるくる病だ。霧のロンドンの「霧」の正体はスモッグで、大気汚染で日照時間を確保できない人々が多数いたのではないかという。
新しい分野だけに、ここで大きな研究成果が語られているわけではなく、コレラやペストなどの感染症、江戸に多かった脚気など、骨に痕跡を残さぬ病気も少なくない。その点ではやや肩すかしだが、今回は研究の骨組みまで。血肉の部分は「骨を見るとわくわくする」という著者の今後の骨折りに期待ってことで。【評 斎藤美奈子(文芸評論家)】
| 日本海海戦とメディア―秋山真之神話批判 | |
![]() | 木村 勲 講談社 2006-05-11 売り上げランキング : 1420 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
失点を隠し完全勝利の神話を創出
長らく闇に埋もれていた『極秘明治三十七八年海戦史』の存在が発表されたのは昭和五十二年(一九七七)である。それ以後、日本海海戦の実像に迫る研究がいくつも書かれた。本書はその流れに沿って、尨大(ぼうだい)な未刊史料と公刊戦史・同時代の新聞雑誌報道を比較検討し、この海戦史に輝く大勝利を飾る伝説の仕組みを解読する。
日本海海戦の勝因といえば「丁字戦法」と「敵前大回頭」。明治三十八年(一九〇五)五月二十七日、連合艦隊が対馬沖でロシアのバルチック艦隊を撃滅した栄光は、司令長官東郷平八郎と参謀秋山真之の名前に結びついた国民神話になって今なお揺るがない。しかし著者によれば、それらは当初、世論への「イメージ効果」を狙って大本営と新聞メディアが流布させたフレーズだったという。
戦況報告を物語に変えた元兇(げんきょう)とされるのは、当時大本営参謀だった小笠原長生(ながなり)という人物である。本書には同年六月十五日の東京朝日新聞に載った「戦闘詳報」が紹介されているが、それには全艦隊が一糸乱れず敵艦隊を迎撃し、午後二時五分の回頭から始まった海戦が二時四十五分には決していたとある。後に秋山が主張した「開戦後三十分決着論」の原形である。
クローズアップされたのはもっぱら秋山の頭脳と東郷の神業である。実際の戦闘では不可避的に発生する齟齬(そご)・見込み違い・戦術ミスといった失点は隠蔽(いんぺい)され、無謬(むびゅう)神話が作り上げられる。(1)ロシア艦隊の針路判断に悩み、一度は津軽海峡に向かいかけた、(2)秋山の「丁字戦法」が机上案として批判を浴びた、(3)繋留(けいりゅう)機雷作戦が「天気晴朗なれども波高し」という気候条件で中止された、(4)いったん取り逃がしかけたロシア艦隊を捕捉殲滅(かいめつ)できたのは第二艦隊長上村(かみむら)彦之丞が命令を無視した「独断専行」の結果だった等々の事項が戦史の表面から消去されたとするのである。
戦史の文学的脚色を実証する文献批評は精密だ。たしかに公刊戦史と『坂の上の雲』の間には、鎖の一環として存在すべき古典的な歴史の書物が欠けている。【評 野口武彦(文芸評論家)】
連帯の新たなる哲学―福祉国家再考
P. ロザンヴァロン (著), Pierre Rosanvallon (原著), 北垣 徹 (翻訳)
不幸が特定の人びとに偏らない社会を
福祉国家が補償の対象とすべき不幸は、従来、偶然的で短期的なものであり、社会に確率的に分布するものと想定されてきた。しかしその前提はもはや失効したというのが、本書の起点である。いまやひとびとの不幸は、固定的で長期的であり、より重要なことに、個々人の人生の条件や軌跡を解析することで、確定的にその分布を同定しうるようなものとなってきている。
従来的な想定のなかの不幸は、保険の仕組みを通じて、そのリスクを社会的に分散・共有させることができる。その不幸は、同じ社会に属するほかの誰かに起こるのと同じくらいの確率で自分にも起こりうるがゆえに、ひとびとはそれぞれ保険に参加する動機を持つ。しかしグローバル化に伴って社会構成が多様化し、情報技術と生命技術の発展に伴い、リスクの偶然性が低下すると、保険による連帯の根拠は失われる。そこには、隣人の不幸を自分にも起こりえた不幸だと捉(とら)える契機はもうないからだ。結果として、(市場的な)効率追求の場からいったん排除された者は、福祉の領域に隔離され、社会への再参入を半永久的に阻まれることになる。
特定の境遇におかれた個々人を固定的に排除しつづけるような社会が不公正であることは明白だ。必要なのは、物財的な補償の給付以上に、すべてのひとが社会に参入するための条件を用意することである。社会参入のための条件はひとりひとり違う(違うがゆえにこそ保険では連帯できない)。ある場合には職業訓練がその条件かもしれないが、別の場合には地域社会との日常的な関(かか)わりを増やすことがそれにあたるかもしれない。その個別の条件に対応しうる支援を多元的に拡充していくことが、福祉の領域と市場の領域の分断をゆるやかに架橋することにつながるはずだと著者は主張する。
社会への参入のしかたの自由度を高める方向に福祉国家の能動化を求める著者の議論は、アマルティア・センのケイパビリティ(潜在能力)の考え方にも通ずるところがある。グローバルな射程を持つ良書である。【評 山下範久(北海道大学助教授)】
| レーサーの死 | |
![]() | 黒井 尚志 双葉社 2006-04 売り上げランキング : 3374 おすすめ平均 ![]() 読み応えあり→福沢・鈴木誠一・風戸。 Ayrton Forever…Amazonで詳しく見る by G-Tools |
「非業の死」という言葉の似合う職業がレーシング・ドライバーと思われがちである。しかしモータースポーツである以上、国内黎明(れいめい)期の60年代と変わらぬ意識のままでは困るのだ。
アイルトン・セナとローランド・ラッツェンバーガーについてはその死を放送した人々に主眼がおかれているが、このノンフィクション短編集では、福沢幸雄、川合稔、鈴木誠一、風戸裕、高橋徹、小河等ら懐かしいヒーローたちも蘇(よみがえ)る。
享年の平均は29。「速すぎる死」という外ない。
トヨタを激しく追及した「福沢幸雄裁判。」の項で著者は「市販車の技術こそが(特殊車である)レーシングカーに生かされる」と通説とは逆の現実を示し、目から鱗(うろこ)が落ちる。つまり「企業秘密」は、事故車両が欠陥車であっただけという陳腐極まりない真相……。
「必要な死」だったとは決して言いたくない。だが彼らなくして安全性確保のためのレギュレーション(規定)整備は進まなかった、という黒井ならではの鎮魂のかたちが5編からひしひしと伝わってくる。
惨事の発端と帰結を明らかにすることだけにとどまらず、周辺人物の心の襞(ひだ)や裏事情にまで迫った秀作である。【佐山一郎(作家)】
人魚たちのいた時代―失われゆく海女文化
大崎 映晋 (著)
実在と神話がひとつになった文化。と言いたくなるような海女の世界。海女とはもちろん海に潜ってアワビやサザエ、海藻などを採る女性たちのことだ。
能登や志摩、伊豆、安房など今も日本各地にわずかながら息づいている。しかし海洋汚染など海の環境変化の中で、この“人魚”たちの生息もしだいに危うくなってきているという。
水中写真家・水中考古学者として長年この海女を見つめてきた著者にとって、海女は海藻の間を縫うように自在に游(およ)ぎまわる美しい人の形をした魚なのだ。
こんな話が出てくる。『大地』で著名なパール・バックの長崎を舞台にした小説『大津波』が映画化された際、著者は海女の水中撮影の依頼を受けた。しかし登場する海女の表現に実際とはことなる部分がありやむなく依頼を断る。ところが、来日中だったパール・バックは、著者の説明に耳を傾け、やがて海女の海での生活や習慣に深い理解を示して快く書き直しに応じたという。
本書には、このような挿話や各地の海女の日常が、海を糧とする者の眼(め)で細やかに描かれている。
そこには失われつつある文化への愛惜にとどまらず、海女への限りない畏敬(いけい)の念も込められている。【前川佐重郎(歌人)】
| 一極集中報道―過熱するマスコミを検証する | |
![]() | 松本 逸也 現代人文社 2006-06 売り上げランキング : Amazonで詳しく見る by G-Tools |
マスコミ不信の由来たどる
かつて、日本のマスコミがもっていた信頼が失われたのは何故(なぜ)なのか?
本書は、30年以上にわたり新聞カメラマンを務めた著者が、具体例を挙げてマスコミが犯してきた誤りを指摘したものである。
著者によれば、経済成長に伴う部数や視聴者の拡大がマスコミに経営の論理をもたらし、「何を報道すべきなのか」というジャーナリズムの視点を薄れさせてしまった。そのために表層の状況を垂れ流すだけの似たり寄ったりの集団的報道が蔓延(まんえん)して内容よりも「早さ」という時間を競争するようになってしまった。
そして、関係者のプライバシーを軽視した「脳死移植報道」や「お受験殺人」における思いこみ報道が生じ、結果として声が大きい者の意見を代弁したり、関係者が作ったお膳(ぜん)立てに乗ってしまうことになった。さらに、皮肉にもこうしたマスコミのお粗末さを突いて、メディア規制の動きが出て来ることになる。
もちろん、こうした問題は日本だけでなく、米国でも、出口調査の失敗や「コーラン冒涜(ぼうとく)事件」のような裏付け取材のない誤報として起きている。
マスコミの情報を受け止める側として、一読すべき著書である。【小林良彰(慶応大教授)】
| 澪つくし | |
![]() | 明野 照葉 文藝春秋 2006-05 売り上げランキング : 13462 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
分類すれば、本書はホラー短編小説ということになる。しかし本書を読んでいたときの私は、怖さよりもむしろ、ゆたかさを感じた。
すべての短編の背景に、古来の日本独自の慣習もしくは思想がある。「つむじ風」に登場する夫婦は、そこが元来「辻」と呼ばれた場所だと知らず、友人から借り受けた家へ引っ越してくる。その家で妻は、現実には存在しないはずのものと対峙(たいじ)することになる。
「雨女」には、ト占(ぼくせん)や祭祀(さいし)を生業(なりわい)とする民族の血を受け継いだ女性が登場する。葬式を一手に引き受ける彼らは、千年のあいだ、生まれてくる女の子だけにその能力を伝え続けている。
本書に登場するいくつもの言葉――まれびと、辻、六道、荒魂(あらみたま)、和魂(にぎみたま)――のほとんどを私は知らないが、この短編を読んでいると、ずいぶん昔から知っていたような錯覚を味わう。人がまだ、神を畏(おそ)れ、死を畏れていたときの幾多の習わしが、ひどくなつかしく、ゆたかなものとして感じられる。
おそろしいのは、あの世や霊魂ではなくて、死をも畏れることのなくなった現代の私たち、今の背後に連綿と続く過去をいともたやすく断ち切ってしまう私たちではないか。そんなふうに思わせる小説だった。【角田光代(作家)】
| 性同一性障害の社会学 | |
![]() | 佐倉 智美 現代書館 2006-05 売り上げランキング : 942 おすすめ平均 ![]() 普通とノーマライゼーションの違い 病理現象からはなれ、社会学的にとらえた良著Amazonで詳しく見る by G-Tools |
本の表題や装丁から難しい学術書なのだろう、と思っていたら、仕事場に置いてあった本書を私より先に読み始めた大学の教え子が叫んだ。「センセイ、この論文集を書いた人も男から女になったんだって!」。大学院で「性の多様性」について社会学的に研究した著者自身が、いわゆる性同一性障害の当事者なのだ。
「からだの性と心の性が一致しない病気があるんでしょう。かわいそうにねえ」と理解され同情されるのは、変態扱いされるよりはずっとマシだ。特例法により一定の要件を満たせば、戸籍上の性別を変更することも可能になった。しかし、著者は「待った」をかける。「からだは男だけど心は女、という病気なんだね。手術を受ければ、晴れて〈女〉の戸籍になれますよ」というだけでは問題は解決しない、と言うのだ。
まず、「自分にあらかじめ割り振られた性別とは異なる性別で生活しようとすること」は、本当にそれだけで特殊な病気なのだろうか。そして、「戸籍を変えられる」というのは、逆に言えば、人は必ず〈男〉〈女〉のどちらかでなければならない、という硬直化した性別二元論のあらわれなのではないか。そう、本当に必要なのは、「男か、女か」に無理やり押し込めるのではなくて、性の多様性をもっとおおらかに認め合うことなのではないだろうか。それは、見た目の性別と書類上の性別が一致しない人が、戸籍を変えなくてもあたりまえのように受け入れられる社会を作ることでもある。
精神医療の現場でも、ノーマリゼーションという概念の背後に「病気になどならずバリバリ働くことが善」という価値観を感じる瞬間がある。必要なのは、「差別よりはマシだけど」でとどまらないこと、それぞれがそのままでいられる寛容な社会を目指すこと……とつい硬い口調になってしまったが、この本じたいの語り口は柔らかく論文集らしからぬ読みやすさ。もっと当事者としての経験談を読みたかったが、それは別のエッセイ集で存分に語られているようなので、そちらをあたってみることにしよう。【評 香山リカ(精神科医)】
| ジャングルの子―幻のファユ族と育った日々 | |
![]() | ザビーネ キューグラー Sabine Kuegler 松永 美穂 早川書房 2006-05 売り上げランキング : 422 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
熱帯の故郷・家族との力強いきずな
弱いなあ、この手の話は。
言語学者の父母と共に、西パプアのジャングルで少女期を過ごしたドイツ人女性が、愛と冒険に溢(あふ)れて暮らした後、西欧でカルチャーショックに悩む。自殺まで図りながら立ち直る、その体験記だ。
弱いのは、ハラハラドキドキの冒険譚(たん)にではない。確かに、虫が混ざった小麦粉を平気で食べたり(二十代に中東の砂漠を旅した時、私も「たんぱく質入り」と言って正当化した)、虫が入っていないか毎朝靴の中身をはたいたり(私はベッドから逆さにぶら下げた)、サトウキビの皮を歯で食いちぎったり(歯茎が血だらけになる)、著者の腕白(わんぱく)にはいちいち膝(ひざ)を叩(たた)く。
だが何が胸を打つといって、著者がドイツに帰り、便利だが機械的な生活に居場所を見いだせず、手首を切るまで苦しんだときに、ジャングルの故郷、ファユ族の「家族」が夢で現れ、その存在によって自分を取り戻すくだりだ。
ファユ族の人々から届けられた、「ザビーネの心は幸せか」との思いやりの言葉。こんな殺し文句、私たちの世界のどこで日常茶飯に聞かれる? 心を直撃する言葉を、先進世界は何故(なぜ)失った?
昔を懐かしみ、豊かな心の交流を失った都会生活を批判するのは、往年のヒット曲、木綿のハンカチーフを引くまでもない。だが本書はただの懐古趣味ではない。「私はジャングルに属している」と、自らのアイデンティティーに高らかに誇りを抱く。
ジャングル育ちを矯正し、文明社会に適合させようとした「狼(おおかみ)に育てられた少女」や、「文明的」ではない娘を上流社会に躾(しつ)けることを美徳とする「マイ・フェア・レディー」の世界から比べると、著者の結論はいかに画期的か! 彼女にとって、ジャングルで学んだことこそが生の証しだ。
そして、相手に押し付けない、優れた西洋がジャングルを導くなどという優越意識を持たない、しかしジャングルを「楽園」視しない、死と背中合わせの世界を放置しないという、他者と真摯(しんし)に付き合う姿勢が浮き彫りにされる。
彼女の決然とした面立ちがまた、超かっこいい。【評 酒井啓子(東京外国語大学教授)】
| 現代経済学の誕生―ケンブリッジ学派の系譜 | |
![]() | 伊藤 宣広 中央公論新社 2006-04 売り上げランキング : 390 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
マーシャルの名は知らなくても彼がケンブリッジ大学教授就任の講演で語った「冷静な頭脳と温かい心情(cool head but warm heart)」を知る人は多いはずだ。ロンドンの貧民街で暮らす人々の悲惨な姿に心を打たれ、数学者から経済学者に転じたマーシャルは、20世紀の経済学に革命を起こすケインズを生んだケンブリッジ学派の始祖でもある。
主著『経済学原理』は、1925~26年にかけ大塚金之助による邦訳が出版されたが、10年ほどで絶版になったという。それが40年近く経て新訳・出版された際、その意義について日本における近代経済学の導入に貢献した中山伊知郎は同書(馬場啓之助訳、東洋経済新報社)のはしがきで次のように語っている。最初の訳書はケインズの『一般理論』(36年刊)が出る前に出版され、「マーシャルにさかのぼってケインズの革命の意義をさぐることの必要が痛感されたときに、すでに手にはいらなかった」。ケインズは「マーシャルからでている」「マーシャルを理解することなしに、ケインズは理解できない」。
それから40余年を経た今日、新訳書も絶版になっている。折しも、今年は『一般理論』創刊後70年、ケインズ没後60年、ケインズに対する関心の高まりが予想される中でマーシャル知らずのケインズ理解(最近は批判も多い)がますます増える恐れもある。そんな評者の不安を払拭(ふっしょく)してくれたのが本書である。体裁は新書だが、内容は歯ごたえがある。マーシャルからケインズに至るケンブリッジ学派の系譜を、ピグーや、ロバートソンおよびホートレーの学説にも触れながら丁寧に展望し、同派の源流がマーシャルにあることを著者は示そうと試みる。
実際、ピグーは名目と実質利子率の乖離(かいり)を「マーシャルと同様の仕方で説明し」、ロバートソンの経済学も「マーシャル的である」ほか、ホートレーの貨幣理論も発想はマーシャルの「延長線上にある」と指摘する。さらに、デフレを支持したマーシャルと、インフレを支持したケインズの間にも「見かけほどの相違があるわけではない」と述べ、労働者にとってどちらの状況が望ましいかを基準に判断した2人の「同質性」を強調するのである。
読まれる機会が少なくなったマーシャル経済学の重要性を再認識させる点で、本書は現代経済学説の優れた解説書であり、研究書であることは間違いない。ただ、マーシャルに光を当て、ケインズをケンブリッジ学派の「一人の登場人物として」相対化しようとするあまり、不確実な未来と変えることのできない過去との狭間(はざま)(現在)で新しい経済学を創出したケインズの革新的な業績が、本書では軽視されているように思われる。著者は、「部品としては既知であったばらばらのピースを、より洗練された形で有機的な理論体系に統合したところにケインズ経済学の真骨頂がある」というが、ケインズの価値はマーシャルより出(い)で、マーシャルを超えた点にあるのではないか。30歳前の若い著者には評者への反論も含め、より深い学説の解明に向けて弛(ゆる)みない研究を期待したい。【評 高橋伸彰(立命館大学教授・日本経済論)】
権三郎月夜
大竹 伸朗 (著)
瓔蔵(ようぞう)じいと漁師町に暮らす黒犬ゴンザブローはある夜、散歩に出た。主人の元を離れて単独、九つの石橋がかかる川辺をつき進む。道中、彼の五感がとらえた色や光、音や気配、夢に現れた生まれ故郷との出会いを描いた幻想譚(たん)が本書だ。ほかに「覗(のぞき)岩テクノ」を収録。語り手“オレ”の独白は初めは意味不明の雑音だが、やがてなじんで底知れぬエロスを表現した舞踊家土方巽の、あの破天荒なパワーを想起させる。著者は現代美術界の精鋭。奇才の頭の中をのぞく思いがする。
| 世界の貧困をなくすための50の質問―途上国債務と私たち | |
![]() | ダミアン ミレー エリック トゥーサン Damien Millet 柘植書房新社 2006-05 売り上げランキング : 33296 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
20世紀終盤以降、アフリカを中心に多くの国が増大する債務に苦しんでいる。05年には、最貧国の債務570億ドルが帳消しにされることになったが、この本は簡潔な質問を重ねて「貧困」の根源に迫っていく。「救世主」のはずの国際通貨基金(IMF)や世銀が融資先に求める改革で、かえって貧困国の経済が悪化して融資拡大が必要になり、公共サービスは低下する、などの指摘も。貧困国は、画一的な(グローバリズム)“成果主義”に振り回され、息も絶え絶えに見える。
| STOP!自殺―世界と日本の取り組み | |
![]() | 本橋 豊 中山 健夫 金子 善博 海鳴社 2006-04 売り上げランキング : 1024 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
日本は「自殺大国」だ。警察庁が先ごろ発表したまとめでは、昨年1年間に全国で自殺した人は前年よりも増え、8年連続で3万人を超えたことがわかった。世界保健機関が04年に発表した自殺率の国際比較では、日本は10位と先進国のなかで最悪だ。
にもかかわらず、国のレベルでの自殺予防対策は遅れがちで、本格的に始まったのは00年になってから。私たちの意識のどこかに、自殺について表だって語ることへのためらいや「自殺は個人の問題」という思いがあったのだろう。
しかし、「社会的問題」と考えて予防対策を講じることで防げる自殺も、確実にある。世界各国の自殺予防対策を調査研究してまとめた本書は、論文集とはいえ一般の人にも関心が高いタイムリーな一冊といえる。
たとえばフィンランドでは、研究に基づいて「自殺の最大の原因はうつ病」(病気ならば治療的対応ができる)という新しい考え方が生まれ、そしてさらに一歩、その先を進む「相互影響モデル」に基づく対策が採用されている。行政が学校、職場、地域、マスコミなどあらゆる場を巻き込み、働きかけて、ネットワークを形成しながら自殺予防を行っていこう、というダイナミックなものだ。
そして実際に、フィンランドの自殺率は6年間で14%減少している。
また、「イギリス版いのちの電話」と言われるサマリタン協会は、「自殺の成功/失敗といった用語は使わない」などのマスコミ用のガイドラインを細かく定めており、一定の評価を得ている。
報告者たちは「外国は進んでいる。それに比べてわが国は……」と自虐的になることなく、各国の取り組みを客観的に紹介していく。欲を言えばそれらを踏まえた上で、現在、考えうるもっとも理想的な自殺予防対策を提示してほしかったが、日本はそれ以前の段階なのかもしれない。まずは、「自殺の背後にひそむうつ病は、治療すれば治る病気」と知ってもらうこと。そこから始めなければならない。【評 香山リカ(精神科医)】
| のりたまと煙突 | |
![]() | 星野 博美 文藝春秋 2006-05 売り上げランキング : 295 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
日常生活で観察されるささやかな出来事を描かせて、星野博美の右に出る書き手はめったにいない。さらにそこから結末までの、間然するところのない展開。 例えばこんな話がある。
「私」はカフェでランチを食べていた。給仕したのは、いつもはルーズソックスを穿(は)いていそうな女の子。そそっかしく、フォークを落としてアイスクリームのグラスを割ったのにも気づかない。最近の若い女性に、こういう体の末端に力が入らない人が多い。そんな状態で、君たちこの過酷な世界を生き延びられるのかい、と「私」は思う。なんだか腹も立った。
その後、別のファミレスで、ウエートレスがスプーンを落としてグラスを割った。客の中年男性はグラスをじっと見つめ、こうつぶやいた。
「俺(おれ)の人生、今日で終わっちゃったりして」
ひきつっていたウエートレスの顔が、明るく溶けた。
同じ瞬間の異なる反応に、中年客と自分の人生が凝縮されている。「私」はどうしようもなく、落ちこんだ……。
ささいな変化を見逃さぬ観察眼が、こまやかな感性に濾過(ろか)され、一瞬、するどい思考に転じる。ここに、現代最良のモラリストがいる。
東京の中央線沿線でなぜ飛びこみ自殺が多いのかという謎を扱った章も興味深い。著者が愛する香港の風景と比べて、東京という都市、いや日本という国の風景の本質をえぐりだす見事なエッセーだ。
そういえば、この本には死を扱った文章が多い。家族の、友人の、愛猫の死。人は死をいたむ。その悲しみ。人は死を忘れる。そのエゴイズム。「すべてを忘れて、私たちは幸せに近づいたのだろうか」
星野博美はつねに物事の隠された一面に目を向ける。そのまなざしの意外さに、読者ははっと胸をつかれる。そして、自分もしゃんと背筋を正したいと思う。そんなスリリングで感動的なショートエッセーが50編もつまっている。
「最後のクリスマス」という話など、近頃ほとんど見ない短編小説の模範のような切れ味だ。一つ一つのタイトルのうまさにも惚(ほ)れ惚れする。【評 中条省平(学習院大学教授)】
| ギフト、再配達―テレビ・テクスト分析入門 | |
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テレビ番組のテクストの分析は、文学などに比べ未発達の部分が多い。それは、再放送やDVD化などがなされない限り、「再読」の可能性が格段に低いためである。テレビ番組のテクスト分析の方法をわかりやすく説くのが、本書である。
表題にもなっている「ギフト」は、1997年にフジテレビ系列で放送された連続ドラマだが、同番組はストーリーよりも、ある少年事件とのかかわりで放送史に名をとどめている。同年、傷害致死事件を起こし、起訴された少年の一人が、凶器としたナイフ購入のきっかけは、「ギフト」で主人公の青年がナイフを携帯する姿だったとして、拘置所から同番組の再放送中止の要望書を放送局に送った。それ以来、「ギフト」は再放送されていない。このような経緯から、著者は「ギフト」が社会的に救出されるべきだとして、本書の分析対象に扱ったのだ。
著者は、物語論、記号論、映像論、メディア論、精神分析学、フェミニズム、カルチュラルスタディーズなどの方法論とテレビ・テクストとの関係を問いつつ、「ギフト」を再読していく。テクストと読み手の相互責任により「ギフト事件」は再考察されるべきとの主張も説得力を持つ。【音好宏(上智大助教授)】
| ざわわ ざわわの沖縄戦―サトウキビ畑の慟哭 | |
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冒頭、沖縄戦の犠牲者を悼む「さとうきび畑」の歌に関する衝撃的な事実を知らされる。昭和42年に発表されてから20年以上もの間、作詞作曲した寺島尚彦のもとに沖縄からの反響は一通も届かず、沖縄戦を生き抜いた人々の中には、誤解を与えかねない歌だという批判もあるというのだ。
戦時下の沖縄で殉職したヤマトンチュウ(本土人)を主人公に数々のルポを発表してきた著者は今回、サトウキビの品種改良に勤(いそ)しんだ兵庫出身の農事試験場長・北村秀一の生涯を中心に、サトウキビ(キビ)と沖縄戦の関(かか)わりを描いた。
「命の糧」であるキビに光が当てられたことで、地上戦の残酷さはいっそう生々しく際立つ。人々の飢えを癒やし、束(つか)の間の休息の場となったキビ畑。だが米軍は畑を次々と焼き払い、沖縄戦末期には「ざわわ」と揺れるキビなどなかった。火だるまで死んだ祖母の無念を語る者。家族が一人ずつ欠けていった、悲劇の「南部落ち」と呼ばれる逃避行の実態も明らかになる。
本土の沖縄搾取の歴史は薩摩の琉球支配に始まり、キビ生産農民から奪った黒糖は明治維新の資金源だったという。「ざわわ」と歌う前に知るべき人生がここにある。【評 最相葉月(ノンフィクションライター)】
魚のつぶやき
高田 浩二 (著)
東海大学出版会は魚類図鑑では権威のある出版元である。それがまー、なんちゅう粋な(アホな)本を出してくれたものではないか。『魚のつぶやき』は、世にもまれなる魚が一人称でしゃべる図鑑なのだ。
私はマダイ。私はタチウオ。拙者は秋の味覚サンマである。俺様(おれさま)はオオクチバスだ。ワシが魚の横綱クエでごんす。――なんだってまたこんな込み入ったレトリックを、と思うけれども、そこはそれ。名前の由来、分類や分布、知られざる生態、季節の味に文化の話題。カラー写真とともに150種もの魚介が次々出てきて自己紹介をするのだから、これは圧巻。
〈エビやカニが大好物だけど、たまにはタコと格闘することもあるわ〉となぜかギャル語で話すハモ。〈沖縄にいるときゃ~♪「グルクン」って呼ばれたの~♪〉と唄(うた)うタカサゴ。〈おっと、お嬢ちゃん、海に遊びに来て浮かれすぎだよ。何にでも、すぐ手を出しちゃ~いけねぇ〉と脅すハオコゼ。
新聞連載をまとめた本だから完璧(かんぺき)な図鑑ではないものの、記述には血が通う。
「魚と語って三十余年」を誇る著者の高田浩二さんは福岡市内の水族館長。水族館見学のお供にもぴったりの親子で楽しめる本だ。【評 斎藤美奈子(文芸評論家)】
| パリ―モダニティの首都 | |
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〈近代〉誕生の激動期を検証
壮麗な近代首都に急成長した19世紀のパリが舞台だ。二月革命からパリ・コンミューンへの激動期。この都市に帰される〈近代〉誕生の神話を本書は徹底検証する。複雑で怪物のようなパリの都市社会の光と闇を空間や場所と絡めて描く試みは実に新鮮だ。
著者は英国生まれの社会経済地理学者。研究でパリに滞在する間に、この街に魅せられたという。マルクスを引用し、階級的な視点から社会変化の構造を鋭く論じつつ、バルザックにあやかり、迷宮的で万華鏡的なパリの街を遊歩者の立場で感性豊かに描く。
最大の論点は、ナポレオン3世の下でのオスマンによるパリ改造事業とその影響に関する評価だ。
病んだ都市に外科的にメスを入れ、直線街路、公園、象徴空間を生むばかりか、首都の社会・経済的な空間の枠組み再編を実現した。労働者階級を都心から追いやり、ブルジョアの優美な商業・文化空間への転換を画したが、古い環境も実は残った。だがやがて、富裕層と労働者が明確に分かれ住む階級的な隔離が顕著に。華麗なパリからは想像できない劣悪な労働条件や女性の低い地位等、社会の暗部も描かれる。今のパリの実像を深く知るうえでも必読の書だ。 【評 陣内秀信(法政大教授)】
| 被爆のマリア | |
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不思議な「原爆小説」である。原爆の悲惨さが直接描かれているわけではない。著者の視線は、むしろ原爆以後の六十年、「平和」という静かに狂った戦場に向けられる。ところが読んでいると文字の裏側に、明るいピンク色をした原子雲のイメージが、絶えずちかちかと明滅する。まるで映画のサブリミナル効果みたいに。読者の潜在意識に働きかけるようなものが、文章のなかにうごめいているようなのだ。田口ランディはこの本のなかで、一体何をしたのだろうか。
四つの短編が収められている。いずれの主人公も、焦点のぼやけた「平和」のなかで、戦争のリアル、生のリアルに触ろうとしてもがいている人々だ。
「イワガミ」には、著者自身を思わせる作家「私」が登場する。その彼女もまた、「平和ってなんだろう、それがわからない」とつぶやきながら、被爆者から原爆の悲惨さを聞き取るばかりの取材に、限界と欺瞞(ぎまん)を感じている。
ところが、資料を返しにいった先で、「磐神(いわがみ)」という奇妙な古書に出会う。そこには世界の始まりから広島が焦土と化し、再びその土地に草木が芽生えるまでが、全身全霊をこめて語られていた。
「私」はこの本に強く感応し、著者・宮野初子が被爆者であることを直感する。それは宮野が「自分と切れてしまった自然に、強い意志を持って触れようと」していることがわかったからだ。原爆投下前の広島には豊かな自然があった。七本の光る川、風、空気、匂(にお)い……。
ここまで読んだとき虚を突かれた。原爆は常にその「瞬間」と「以後」の時間のなかで語られてきた。けれど広島には「それ以前」があった。それ以前のもっと以前には世界の始まりがあった。原爆が、そうした大きな神話的流れのなかに位置づけられたことで、「私」にもそして読者にも、初めて原爆がリアルに見えてきたのである。連綿と続くその流れに、わたしもまた組み込まれている者だ。自分の小さな細胞のひとつが、あの原爆を記憶している。読後、そんな思いに捕らわれた。【評 小池昌代(詩人)】
| 鏡花と怪異 | |
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鏡花論を読む楽しみは、聞きなれた楽曲を新しい演奏で聴くことに似ている。どう弾くかと期待に心が躍る。
たとえば『草迷宮』の亡母が歌っていた手鞠(てまり)歌のライトモチーフは、どんな節回しで奏でられるか。
つとに『百鬼夜行の見える都市』で知られ、オバケの世界の消息に通じる著者は、無類の鏡花愛好者でもあり、専門の中世文学から「学問領域のたこつぼ化」した境界を越えて近代の鏡花研究に参入する。ひっさげてくるのは「鏡花にとって怪異とは何だったのか」という問いかけだ。
『眉かくしの霊』には幽霊が出るし、『天守物語』には妖怪が続々と登場するし、『山海評判記』には女神も示現する。戯曲『山吹』の憑(つ)かれたように老人を折檻(せっかん)する貴婦人も女怪のうちだ。鏡花の小説には一作ごとに違う窓口から《異界》が開顕(かいけん)している。神出鬼没する怪異の群は、いわば心象で組み立てられた多元方程式だから、解は必ずしも一つでなくてよい。世の鏡花ファンは、おおむね自分だけが特別の恩寵(おんちょう)を与えられ、解読のパスワードをそっと教えられているという思い込みがフツーではない。いわんや研究者においてをや。 総論的な《怪異とは何か》といった正攻法ではあまり面白さが出ず、かえって著者自身のキノコへの偏愛にみちびかれた章に切り口がみずみずしい。三人の山伏が踊りながら着物を脱ぐと女で、それを見ていた神主が発狂する『茸(きのこ)の舞姫』に注目するなんてさすがだ。鏡花の「女」を論じても、耳にタコのできている「母恋い」になど洟(はな)も引っかけず、落魄(らくはく)の女(たぶん虚言症)がミミズクと河童(かっぱ)を手下に使って華族夫人に報復する『幻の絵馬』をピックアップする鑑識眼もいい。
鏡花研究者のタコツボは、いつの日か《異界》に行き当たるまで、その底を深く掘り穿(うが)つ試掘孔である。民俗学・深層心理学・構造詩学・伝記考証・出典探索と、思い思いのツールを駆使して孤独な作業を続けている。
中世から掘り進めてきた横穴は、どんな深度でこの縦穴と行き会うであろうか。【評 野口武彦(文芸評論家)】






読み応えあり→福沢・鈴木誠一・風戸。
Ayrton Forever…












