メイン > 朝日新聞日曜版『書評』 > 2006年4月2日~4月9日
| 自分自身への審問 | |
![]() | 辺見 庸 毎日新聞社 2006-02-25 売り上げランキング : Amazonで詳しく見る by G-Tools |
辺見さん、お久しぶりです。のべ十時間ものインタビューに答えてくださったのは、名著『もの食う人びと』が刊行された直後でしたから、もう十二年も前になるのですね。共通の友人や知人たちから、おからだの具合を仄聞(そくぶん)し、陰ながら案じておりました。
けれども、本書を読みはじめてすぐ、ほっとしました。鮮やかなイメージを読者の眼前に立ち上がらせる力量は、いささかも衰えていない。見渡すかぎりの焼け野原に、一匹の金魚が「一筋の紅い実線を曳(ひ)いて」中空を移動してゆくシーンなど見事なものです。
この本は病中の随想集ですが、表題ともなっている「自分自身への審問」は、ことさらに苛烈(かれつ)な文章です。脳出血で半身が麻痺(まひ)してしまった肉体に、追い討ちをかけるがごとく、がんが襲いかかってくる。その只中(ただなか)で、病室にパソコンを持ち込みながら、存在を賭けた自問自答が、手術中の空白の時間をはさんで、延々と続けられます。
「これからの終わりの時をお前は何を考え、どう過ごそうというのか」
審問官である、もう一人の辺見さんは尋ねます。追及は果てもなく続きますが、辺見さんは、術後の全身に管をつながれた姿で、「いま、たったいま、自分を問われ、答えることが、私にとってはとても大事なのだ」と、切迫した調子で答えています。
よく似ていると思いました。辺見さんと私とが、です。抑えがたい怒りを抱え込んでいること、慈しみたい人々をかえって傷つけてきたこと、不眠のつらさ……。日本を覆う冷笑主義(シニシズム)への唾棄(だき)もそっくりです。ただし、辺見さんのそれらが“原液”とするなら、私のは何倍にも希釈されている。そこに物書きとしての差が如実に現れているのでしょうが、おかげで私は辺見さんほどにはのたうち回らずに生きてこられた。その代わり、中途半端さで生き恥を晒(さら)してきたと言ってもいい。
辺見さんはたぶん、『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」を意識しているのでしょう。とするなら、本書の審問官があげつらうように、「死ぬまで衒(てら)いつくす気か」と言いたくなるところが、あえて酷薄を承知で申し上げれば、私にもあります。自身を剔抉(てっけつ)する文章からですら、あの“辺見節”が聞こえてきてしまう。文章が巧緻(こうち)にすぎるのです。もっと底の底までえぐり出す力が、辺見さんには充分に残っているのではないか。
審問官は最後に、「もう二度と語るな」と、「残りの生涯にわたる沈黙」を罰として科します。決して皮肉ではなく、意気軒昂(いきけんこう)だなと思いました。辺見さんは、まだまだ語りつづけるつもりですね。文末に「未完」とあるのは、その証左でしょう。
辺見さんは五年近くを過ごした東京・山谷で、大勢の「野宿者」と出会い、「四つん這(ば)いになって酔っぱらいの吐瀉物(としゃぶつ)をズルズルと音立てて啜(すす)りあげている男」も見たと記している。そのような人物のかたわらに寄り添いつつ書いた辺見さんの文章が、私は読みたい。それこそ辺見庸にしか書けぬ、凄絶(せいぜつ)な文章にちがいないからです。【野村進(ジャーナリスト・拓殖大学教授)】
| テレビは政治を動かすか NTT出版ライブラリーレゾナント022 | |
![]() | 草野 厚 NTT出版 2006-02-15 売り上げランキング : Amazonで詳しく見る by G-Tools |
ドキュメンタリー番組の格付けをするNPO団体を設立するなど、専門である政治学の枠を超えて活躍する著者。最近の論壇での発言に「この人は保守?リベラル?」と判断に迷うことも多いのだが、いまだにこの二分法にとらわれている古い人間は、著者がリアルタイムで目撃している「テレビと政治のビミョーな関係」を感じ取ることなど到底、できないであろう。
テレビを論じる専門家であると同時にテレビ出演者でもある著者は、小泉自民党が圧勝した昨年の総選挙を例にあげながら、テレビ報道の特性を「洪水報道化、二項対立、制作者の誘導が容易、映像が命、時間的制約」という五点にまとめ、今回の選挙における自民党メディア戦略はこの点を巧みについていたことを明らかにしていく。
しかし一方で、「マスコミは小泉政権の広報機関と化した」「有権者もマスコミの偏向報道に踊らされた」といった意見は必ずしも正しくない、とも言う。著者は、自民党の圧勝はあくまで改革の評価による「業績投票」によってもたらされたもの、と考えるのだ。
ただ、小泉首相が「テレビはじめメディアを縦横無尽に使い、いや使い尽くし、世論の支持を得」たのは事実であり、それに関しては「やりすぎだ」との批判があることに触れるのも忘れない。このように本書では昨年の「小泉劇場」で何が起きていたのかが、実に客観的にバランスよく語られる。著者は、小泉首相に対する自分の評価が、この四年余で大きく揺れ動いたことまで、率直に吐露している。
問題は、インパクトのある映像や極端なフレーズにならされ、すっかり“テレビ脳”になっているわれわれに、中立的なスタンスからの著者のメッセージがどれだけ届くだろうかということだ。
「テレビは政治を動かすか」というタイトルを見て「で、結局は動かすの?動かさないの?」と答えだけを知りたくなった人にこそ、気持ちを落ち着けて読んでもらいたい本だ。もちろん、テレビ制作者にも政治家にも。【香山リカ(精神科医)】
| 手塚治虫=ストーリーマンガの起源 | |
![]() | 竹内 一郎 講談社 2006-02 売り上げランキング : Amazonで詳しく見る by G-Tools |
作者は『人は見た目が9割』というベストセラーを生みだした著述家で、マンガの原作や戯曲の執筆も手がけている。本書は、その作者が九州大学に提出した学位論文を平易に書き改めたものである。
手塚治虫が生みだした「ストーリーマンガ」という形式を、手塚の個人的資質と日本の文化的土壌が結びついてできた果実と見なし、手塚的ストーリーマンガを形成する様々な要因を検討している。
近世以降の日本文化には、講談という奇想天外な語り物の伝統があり、これが立川文庫という子供向け読み物となり、さらに紙芝居という視覚的物語形式へと流れこむ。紙芝居の作者たちは、エイゼンシュテインらのモンタージュ理論を研究して、紙芝居の構成や場面転換に役立てた。
手塚治虫は映画的手法を活用することでストーリーマンガを確立するのだが、映画的技法の応用には紙芝居という先駆があり、それは子供向け語り物の伝統と深く結びついていた。その意味では、手塚はいきなり出現した革命児ではなく、日本の文化的伝統の継承者でもあった。
だが、手塚が活躍を開始するのは、戦後の激動期である。旧来の日本文化を圧倒する勢いで、ハリウッド映画、ディズニーのアニメ、アメリカンコミックス、SF小説などが海外から流入する。手塚はそれらの影響を貪欲(どんよく)に自作にとりこみ、意識的に利用する。
本書の核心をなすのは、手塚がデビュー以来5年間に描いたほぼ全作品を踏査して、手塚がそうした影響源を消化しつつ編みだした映画的手法と驚異の演出法を分析するくだりである。実際のマンガのコマを引用して、手塚が開発したテクニックの見どころを具体的に紹介するのである。
この実例により、初期の手塚の創造的エネルギーがいかにすさまじいものだったか、リアルに感じとれる。
また、手塚マンガの本質を「動き、変化するもの」への尋常ならざる嗜好(しこう)にあるとし、ここから手塚マンガのスピード感が生まれ、そのスピード感が日本のストーリーマンガの特色となったという指摘にも大きく頷(うなず)かされる。【中条省平(学習院大学教授)】
| 一日 夢の柵 | |
![]() | 黒井 千次 講談社 2006-01 売り上げランキング : Amazonで詳しく見る by G-Tools |
古びた医院に健康診断にいく男、眼科医に老いた母を連れていく息子、ジャケットのポケットから覚えのない電話番号のメモを見つける男。短編の主人公はみな、老いを意識しはじめた男である。彼らの、ごくありきたりな日常が、簡潔な言葉ですぱっと切り取られている。その切り口を眺めるように読み進めていくと、何やらざわざわと胸騒ぎがしてくる。見慣れているはずの日常のひとこまが、ぐにゃりとゆがみ、ゆがんだままもとに戻らない、そんな不穏さを覚える。
九十歳を過ぎた老母を見舞ったあと、知人の息子の写真展に向かう男を描く「一日」という短編が、とりわけ心に残る。著者の言葉は決して難解でもトリッキーでもなく、むしろ淡々と写実的なのだが、何かこちらが落ち着かなくなるような不気味さがあり、間近まで迫られているような凄(すご)みがある。
男の一日は、私たちの「生」の断面でもある。すべての生はそれぞれ異なる速度で進んでいるとこの短編集は気づかせる。読みながら不穏さを覚えるのは、その速度が例外なく死へと向かっていると知らされるからだろう。
「一日」の最後の男のつぶやきが、べたりと耳にはりついていつまでも消えない。【角田光代(作家)】
| プロヴァンス古城物語―南仏の秘められた歴史 | |
![]() | 高草 茂 里文出版 2006-02 売り上げランキング : Amazonで詳しく見る by G-Tools |
南仏の光溢(あふ)れる美しいプロヴァンスは憧(あこが)れの地。だが、この地方には、宗教や民族の対立による血で塗られた重たい歴史がある。
美術が専門の著者が長年、現地の巡礼路を辿(たど)り、見捨てられ、忘れられた古城や教会、遺跡を丹念に踏査し、正史にはない歴史を描いた。本書がこだわる残虐な殺戮(さつりく)が繰り返されたプロヴァンスの歴史と、物悲しくも美しいこの地の風景の描写の対比が印象的だ。
各地にローマ帝国の植民都市が建設され、後のキリスト教の普及も早かった。だが、浸透した異端カタリ派に対する正統派であるローマ教会側からの弾圧が続き、この地方は虐殺の舞台となった。聖地サンチャーゴ・デ・コンポステーラへの巡礼路を異端から守る意味があったし、教皇のアヴィニョン幽囚も、異端弾圧に乗じたフランス王の策略によるという。
近世に入ると今度は、神への純粋な信仰を貫くプロテスタント(ユグノー派)が世俗の王権と対立。国王及びカトリックと激しく衝突し、この地方は再び血塗られた大地と化したのだ。
イタリアともスペインとも異なる南仏固有の風景の秘密を解き明かす歴史紀行として興味が尽きない。【陣内秀信(法政大教授)】
| 藍の空、雪の島 | |
![]() | 謝 孝浩 スイッチパブリッシング 2006-02 売り上げランキング : Amazonで詳しく見る by G-Tools |
ポル・ポト政権下のカンボジアから人びとが逃げ出して、どのくらい経(た)っただろう。
ある日、黒服の男たちが戦車で街にやってくる。それまで送っていた生活があっという間に変わり、先がどうなるかわからない。
子どもにとって、世界は、目の前にある、手で触れることのできるものがほとんどすべてだ。だから「僕」は、ただ目の前にあることに対処する。そこにあるのは生きてゆくことへのつよい意志。そして希望は、未知なる「イープン(日本)」へたどりつくこと。
飛行機から見た、キラキラ輝く白い陸地に胸を高鳴らせ、この国で「難民」として大人になった「僕」。しかし、かつて憧れた国に違和感を抱かずにはいられない。いいものは沢山ある。爆弾はない。でも、自問を抑えられないのだ。「イープンって、そんなにいいところかな……」
スカケウの香り。バナナの葉が茂る小径。川から拾いあげるビニール袋。パイナップルを積む小さな船で感じる水の近さや川の風。過酷な日々のなかに、瑞々(みずみず)しい感覚が見え隠れする。
すっきりとした「僕」の語り口は、あくせくした日々を過ごす私たちにすっとはいってくる、冷たい水のように。【小沼純一(文芸評論家)】
| NGO、常在戦場 | |
![]() | 大西 健丞 スタジオジブリ 2006-02 売り上げランキング : Amazonで詳しく見る by G-Tools |
NGOは政府や企業と距離を置き、地味で小規模な援助活動をやるもの――。
そんな常識を覆して、全方面巻き込み型の民間海外援助システムをぶち上げたのが、著者の大西氏だ。氏のNGO「ジャパン・プラットフォーム」に対して、政府や企業の下請けに成り下がっている、と見るか、NGOの活性化と機能拡大に効果大と評価するかで、従来のNGOの間では議論百出だろうが、弱冠20歳代で自前のNGOを設立し、30歳代前半でそれを統括する組織を作り上げる才覚は、刮目(かつもく)に値する。
なんといってもこの風雲児が名を上げたのは、アフガニスタン支援会議へのNGO参加を巡る鈴木宗男議員、そして外務省との攻防だろう。湾岸戦争後のイラク・クルド地域で地雷を踏み(幸いにも不発)、東ティモールで雨で体を洗っていた青年が、国会に参考人招致される。その生々しいやりとりが、本書で綴(つづ)られる。
NGO活動は、やさしい気持ちだけではない、営業も政治もできないとダメなんだなと、冷徹な現実を知らされる。タフさが要求される仕事。けど、百戦錬磨を売りに紛争経験自慢のオヤジになったら、あかんで、大西はん。【酒井啓子(東京外国語大学教授)】
| ポピュラーサイエンスの時代―20世紀の暮らしと科学 | |
![]() | 原 克 柏書房 2006-03 売り上げランキング : Amazonで詳しく見る by G-Tools |
真新しい電気冷蔵庫の中を覗(のぞ)き込んで「おおーっ」と感嘆し、茶の間に運び込まれたテレビを拍手で迎える――大ヒットした映画『ALWAYS 三丁目の夕日』は、「家電の映画」と呼んでもいいのではないか。
わが家に電化製品が増えることの喜び、それは、便利さや快適さという直接的な効能を超えて、「冷蔵庫のある暮らし」や「テレビのある暮らし」を手に入れた喜びに他ならない。だからこそ、高度経済成長期、家電の買い物は家族総出のイベントとなりえたのだ。
本書は「20世紀の暮らしと科学」の副題どおり、前世紀に登場したテクノロジーがひとびとの生活や考え方に与えた影響を探る。
ハリウッドスターの白い歯が嫌いだった谷崎潤一郎、アドバルーンで逃げ去る怪人二十面相など、著者はさまざまなエピソードをちりばめた軽快な筆致で、二十世紀の〈日常的身振り(ハビトウス)〉に組み込まれたテクノロジーを語るのだが……しかし、科学と暮らしはダイレクトに結びついているわけではない。そこに介在するのが情報。「ポピュラーサイエンス」を「大衆化した科学情報」と定義づける本書のキモは、アメリカ・ドイツ・日本の大衆的な科学雑誌をひもとくことで、一般大衆にわかりやすく情報化された科学のイメージが社会に広がっていくさまを描くところにある。
たとえば、コンタクトレンズの普及には、視力矯正の効能以上に「メガネをかけないほうが美しい」という言説の果たした役割が大きかった。家事労働の軽減という実用性のアピールだけでは売れなかった食器洗い機も、「自由な時間が獲得できる」と宣伝戦略を変更――〈食器洗い機を購入することが、新しい生き方を手に入れることに繋(つな)がる〉と提唱したことで、一気に普及のペースを速めたのだという。高度経済成長期のニッポンで冷蔵庫やテレビが憧(あこが)れだったのも、アメリカ製のホームドラマが描く「幸福で豊かな家族」のイメージと無縁ではなかったはずだし、そのアメリカでも、「幸福で豊かな家族」は、朝食のテーブルに置かれたトースターがイコンとして具現化されていたのだった。
そう考えると、合計二十七のテクノロジーをコラム集ふうに綴(つづ)った本書は、科学読み物の枠にとどまるものではなく、メディア、広告、大衆、そして戦争をも視野におさめた二十世紀論としても読めるだろう。
いや、〈科学情報とのかかわりにおいて、われわれが無意識のうちに絡め取られているさまざまな価値の枠組み、言説の枠組み〉は、舞台を二十一世紀に移しても変わらないはずだ。
パソコン、ケータイ、テレビゲーム、原子力……それらはいま、どうポピュラーサイエンス化され、どんな価値や言説をまとっているのか。著者によると、ポピュラーサイエンスとは〈ときに誤謬(ごびゅう)をふくんだ〉もので、〈必ずしも正確ではない〉。前世紀を振り返るときには苦笑いのネタになる誤謬の数々も、リアルタイムに置き換えてみると……優れた読み物の愉(たの)しさを満喫しながら、一読後には、微妙な苦みが胸に湧(わ)いてくるのである。【重松清(作家)】
| 魂の重さの量り方 | |
![]() | レン・フィッシャー 林 一 新潮社 2005-01-28 売り上げランキング : Amazonで詳しく見る by G-Tools |
魂の存在を証明するにはどうすればよいか。一つの方法は魂に重さがあるかどうかを確認することだろう。重さが確認できたなら、それは魂が存在することの傍証となる。
では、魂の重さを量るにはどうすればよいか。米国のさる医師は、一九〇一年に一つの実験を試みた。臨終の床にある患者をベッドごと秤(はかり)に載せたのだ。その結果、死亡直後の重量減は、およそ二一グラムと計測された。これが魂の重さなのか。
その医師は、たぶんそうだと考えた。それでも彼は、科学的な検証作業を続行した。魂の重さを量ったという自分の観察が間違っている可能性を否定すべく、実験を重ねたのである(機会は少なかったが)。しかし、実験結果はまちまちだった。しかも、犬を用いた実験では、死後における重量変化はいっさい認められなかったという。犬には魂がないということなのか。
その後、精度を高めた動物実験が何度か試みられたこともあったが、結局、魂に重さがある可能性(仮説)は、否定も肯定もされなかった。そもそも、死後の重量変化があったとしても、それが即、魂の重さとは限らない。あるいは、魂には重さがあるという仮説が否定されたとしても、魂の存在を否定したことにはならない。科学とはそうしたもので、仮説を検証する方法は提供するが、その仮説が否定されたからといって、魂は存在するという信念体系を覆すことにはならないのだ。
というわけで、書名にひかれて本書を手に取った人の何割かは、期待を裏切られることになる。本書は、魂の存在を証明した本ではなく、科学的な方法とは何か、科学はどのようにして進むかを説いた大まじめな(ただしエスプリとユーモアも加味された)本だからである。
科学もまた、仮説検証という方法論に立脚した一つの信念体系である。なればこそ、別個の信念体系に属する宗教との両立も可能なのだ。もう一度言おう。光、雷、生命の謎などを追求した科学者たちの迷走ぶりが紹介されている本書は、読んで損はない、いたって真っ当な本である。【渡辺政隆(サイエンスライター)】
| へんな子じゃないもん | |
![]() | ノーマ フィールド Norma Field 大島 かおり みすず書房 2006-03 売り上げランキング : Amazonで詳しく見る by G-Tools |
年表式にいえば、95年は阪神淡路大震災とオウム真理教事件の年、である。でも、そうか、それだけではなかったのだと思った。
95年6月、著者は成田空港に降り立つ。脳出血で倒れて3年、2度目の発作を起こした祖母に会うための1年ぶりの帰郷だった。冒頭に石垣りんの詩の一節が引かれる。「久しぶりで逢(あ)った老女は病み/言葉を失い/静かに横たわっていた」
本書はその夏の思索の記録だ。語られていることの半分は、祖母や母との日々であり、幼い頃の記憶である。庭中を植物でいっぱいにし、孫娘を自分の布団に入れて寝かせた祖母。娘時代を戦争ですごし、短い結婚生活の後に占領軍の軍人だった父と別れた母。同じ映画スターに熱をあげ、同じ野球チームを応援し、同じ社会主義政党を支持し、喜びと心配を分かち合ってきた2人は今、介護される人とする人として、そこにいる。
もう半分は、戦後50周年の日本への問いである。8月15日の記者会見で侵略と植民地支配にいたる「国策」の「誤り」を認めながらも、与党社会党の首相はもうひとつの虚構をくつがえせなかった。もし彼がその日、人々が見守るなかで、亡き天皇に戦争責任があった、そう述べていたらどうだったろう。せめて「国民的な嘘(うそ)の延命」に加担している認識の表明として、言葉につまりながら話したのだったら、日本は少し変わったかもしれない。
「愛着の記録を残したかった」と著者は述べる。「個々人の生涯を織りなす愛着とそれが生み出す葛藤(かっとう)と、社会と歴史の大きな流れとの関係を追ってみたかった」と。
日常は細部の積み重ねである。そして歴史も、ほんとは細部の積み重ねなのだ。
まだ少し意思の疎通がはかれた頃、自分は半分日本人ではない「へんな子」だったと感じていた孫娘の質問に答え、長い沈黙の後に祖母はいった。「へんな子じゃないもん。自慢の子だもん」
これはうちのおばあちゃんのことだ、と感じる読者は多いだろう。そして、少し気持ちが晴れるはずである。【斎藤美奈子(文芸評論家)】
| 翻訳教室 | |
![]() | 柴田 元幸 新書館 2006-02 売り上げランキング : Amazonで詳しく見る by G-Tools |
二〇〇四年から〇五年にかけて、東大文学部で三、四年生を対象にして行われた「翻訳演習」の授業の筆記録である。
課題となる原文は、ヘミングウェイからレイモンド・カーヴァーを経てレベッカ・ブラウンに至る現代アメリカ小説。これに村上春樹とカルヴィーノの英訳を加えた全九編だ。
各原文の長さは教科書のほぼ一ページ程度で、長いものでも二ページ強。計十数ページの原文を日本語に翻訳することがこの授業の課題である。その作業に、教師と学生たちは本書三三〇ページの対話を費やしている。どれほど細密な共同作業か、それだけでもよく分かるだろう。
その結果、普通は翻訳者の頭のなかで起こる解釈と訳語の定着という些事(さじ)の連続が、教師と学生の会話をとおして、具体的な取捨選択のプロセスとして明瞭(めいりょう)に浮かびあがってくる。
そして、ここに現れる翻訳とは、大学受験の英文解釈のように定式化される作業ではなく、ああでもないこうでもないと絶えず頭脳と感性を酷使し、最良の訳文を求める一回一回命がけの日本語との格闘なのだ。
その厳しさが和らぎ、楽しい読み物に仕上がっているのは、教師の絶妙のユーモア感覚のおかげである。【中条省平(学習院大教授)】
| 作曲家・武満徹との日々を語る | |
![]() | 武満 浅香 小学館 2006-02 売り上げランキング : Amazonで詳しく見る by G-Tools |
「谷川俊太郎さんと浅香さんに出会ったことで、武満はちょっとつまらなくなった」。瀧口修造のもとに集った芸術家集団「実験工房」の仲間、秋山邦晴は浅香によくそういったという。常識をわきまえてちゃんと生活する友人や妻の出現で武満の野放図さが失われたという意味だ。でも、と浅香はいう。「もし私がいなかったら、徹さんは死んでいたかもしれないんだから」。加えれば、浅香がいなければこんなすてきな夫婦の物語を読むことはできなかった。
朝食のメニューから猫の世話、友人たちとの交流まで、音楽と家族を愛した作曲家の日々を秘蔵写真や編集者の取材で明らかになった新事実と共に回想する。
作曲はハッピーじゃないとできないといって、喧嘩(けんか)してもすぐに自分からごめんね、とあやまる人だったという家庭での素顔。映画「乱」をめぐり、黒澤明に宛(あ)てた手紙に記された静かな怒り。万博に協力する武満を批判した高橋悠治との不思議な関係。浅香の語り口は穏やかなのに、どきりとさせられる逸話がいくつもあって胸がざわざわした。武満本人が降りてきた瞬間だったのか。その人ひとりのものではない人生、ということを考えた。【最相葉月(ノンフィクションライター)】
| 夕光の中でダンス―認知症の母と娘の物語 | |
![]() | エレノア クーニー Eleanor Cooney 船越 隆子 オープンナレッジ 2006-01 売り上げランキング : Amazonで詳しく見る by G-Tools |
アメリカ人の女性作家が、アルツハイマーを病む母親を介護する凄絶(せいぜつ)な日々を克明に綴(つづ)った。実話の持つ迫力で、アメリカでベストセラーになっている。
母は、夫の死後、短期記憶に空白ができ、ちょっとした判断ができなくなるなど、最初の徴候(ちょうこう)があらわれた。1人にしておけないと、兄や夫の理解も得て、著者は自分の住まい近くに呼び寄せた。
母は、かつて雑誌記者でモデルも務め、美人コンテストでは優勝している。著者にとっては自慢の母で、物書きという同じ道を選んでもいる。
母を楽しませ喜ばせたいと面倒を見始めるが、たちまち自分たちの生活が成り立たなくなってしまった。騙(だま)して介護付き施設などに預けたものの薬漬けになり暴力を振るい追い出される始末だった。やがて紹介された生活介助施設では受け入れられ、著者は少しずつ日常を取り戻すが、「自分を信じきっている母を捨ててしまった」との罪悪感に襲われる。
名の知られた母の壊れ方をさらけ出し、娘としての引き裂かれる思いを赤裸々に吐露した勇気に脱帽する。日本でも、同じ境遇に置かれた人は少なくない。熱い共感を呼ぶだろう。【多賀幹子(フリージャーナリスト)】
| 孫が読む漱石 | |
![]() | 夏目 房之介 実業之日本社 2006-01-19 売り上げランキング : Amazonで詳しく見る by G-Tools |
冒頭、「吾輩(わがはい)は孫である」と嘯(うそぶ)く。そして、あの『吾輩は猫である』に登場する漱石の分身ともいえる苦沙弥(くしゃみ)先生の猫の目線で『坊っちゃん』『三四郎』など漱石の作品の数々を軽妙な文体で読み解いてゆく。
著者は漱石の長男の子、マンガ評論を中心に活動領域が広い。親の七光りどころか漱石ともなれば、孫にも余光が降り注ぐ。
オレはオレだという自意識もある。それをひとまず措(お)いて祖父と向き合った。いまさら漱石を持ち上げても始まらない。といって突き放すわけにもゆかない。距離感のとりかたがむずかしいのだ。
たとえば『坊っちゃん』について「表層的には痛快かもしれないが、何か、じつは暗い話の気がするなぁ」という。あの策士の赤シャツ、そのとりまきの野だいこらの姑息(こそく)な計略に対し、ぶん殴ってせいせいとする。「坊ちゃんも山嵐も、所詮(しょせん)負ける側の人間で、官軍、維新政府に目のかたきにされ」と、じつに明快に論を進める。
だからこそ「痛快」は漱石のうっぷん晴らしなのだろうと解釈する。
あたかも漱石の猫が孫に憑依(ひょうい)したように、いま再び漱石の作品を観察し分析しているような気分になる。それが面白いのである。【前川佐重郎(歌人)】
太鼓歌に耳をかせ―カリブの港町の「黒人」文化運動とベネズエラ民主政治
石橋 純 (著)
海外でのフィールドワークに基づいた報告として、数年に一冊、出るか出ないかの作品である。
舞台は、われわれの大半とは縁もゆかりもない南米の石油国ベネズエラ――。大手家電メーカーの駐在員として赴任した著者は、およそ八年をこの地で過ごすうちに、一人のミュージシャンと出会い、やがて会社を辞めラテンアメリカ文化研究にのめりこむほど、人生を一変させられてしまう。
彼、ヘルマン・ビジャヌエバは、生まれ育ったスラムで、長らく野卑な芸能と蔑(さげす)まれ、近代化とともに消滅の危機に瀕(ひん)していた、「タンボール」という太鼓主体の歌と踊りを復活させ、いわば“町おこし”の著名なリーダーになってゆく。たとえて言うと、日本の小さな町の住民が、一人の指導者を中心に地元のサッカーチームをもり立て、Jリーグに昇格させる感覚に近いだろうか。
ビジャヌエバたちの実践は、南米から連想しがちな放埓(ほうらつ)や即興性とは正反対の、規律正しく戦略的なもので、それを記す著者の明快な筆致にも、カオスが置き忘れられていやしまいかと言いたくなるほどだ。
ところが、中盤から物語が大きく動き出す。あらすじは興趣を削(そ)ぐので記さないが、ベネズエラの歴史や文化についての、やや煩雑にも思えた記述が、あとになってずばりずばりとパズルの空隙(くうげき)にはまってゆく。
そのたびに、ベネズエラの聞いたこともない町の路地裏に、こつこつと穴を掘っていったら、地球の裏側の、われわれの足元にぽっかりと空いた空洞につながっていたかのような感慨にとらわれる。いずこも変わらぬ人の心の移ろいやすさに、ため息が出る。
アカデミズムの最新の知見を採り入れつつ、ビジャヌエバの行動から現代文化の潮流までを読み解く手際は鮮やかなものだ。本作りにも、すみずみにまで神経が行き届いている。
人は地域の中で、いかに生きてゆくか。このことに関心のある読者なら、深い充足を得られるにちがいない。【野村進(ジャーナリスト)】














