メイン > 朝日新聞日曜版『書評』 > 2006年4月16日~4月23日

花はさくら木
花はさくら木辻原 登

朝日新聞社 2006-04
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現在のところ、日本最後の女性天皇である後桜町(ごさくらまち)天皇には、まだ智子(さとこ)内親王と呼ばれていた若き日の隠れたロマンスがあった。

作者が久々の長編時代小説として世に問う『花はさくら木』は、こんな意表外の構想で書き出される。舞台は宝暦十一年(一七六一)の春、桃の節句にはなやぐ京都御所である。恋というほど露骨な感情ではない。しかし九重の雲にくるまれる内親王が親愛の情を抱いてしまったとあっては穏やかではない。その相手は、人もあろうに田沼意次(おきつぐ)。後に汚職役人の代名詞にまでなるこの人物も、政治の理想に燃える男盛りの少壮官僚として作中に登場してくる。

時代小説は、歴史の羽目を外してよいジャンルである。多少はタガが外れても構わない。作者は司馬遼太郎風の歴史リライトではなく、あえて吉川英治風の伝奇ロマンにさかのぼる。従来の江戸物では、地平線の彼方(かなた)に《勤王》の虹を架けて世界を構成するのが常だったが、本作の田沼は、将来の日本を信用経済国家にすることを考え、「中央銀行」を作るために大坂の豪商鴻池に出資させようと企(たくら)む辣腕(らつわん)政治家である。朝廷に接近したのも、もう一人の豪商北風の不審な献金ルートを断つためであった。

北風は、伏見港を根拠にする密貿易商であり、ひそかに朝鮮国王と接触し、対馬から拉致して自分の養女にした菊姫(淀君の末裔<まつえい>!)を朝鮮王子に嫁がせて、反幕府勢力を形成しようとしている黒幕である。

時代小説のだいじな骨組みである男女の色模様は、内親王と田沼の分身として、この菊姫と田沼の部下で公儀御庭番の青年武士との間で展開される。濡(ぬ)れ場もあるし、チャンバラもある。池大雅・与謝蕪村・円山応挙・上田秋成といった豪華な顔ぶれがもったいないくらいのチョイ役で出演するなど読者サービスもよい。もっと大活躍させて欲しかったし、また「すてきに」という江戸の流行語が出てくるのは四十年ほど早いのではと若干異論もなくはないが、本作がそんな細瑾(さいきん)を越えて読者を引きずってゆく妙味は、作者が現代日本のアクチュアルな事件をきわどく掠(かす)め取ってちりばめる手腕にある。

物語は、内親王が菊姫と間違われて誘拐されるという破天荒な筋立てでスタートするのだが、その内親王が初めて見る外界に自由を満喫し、「わたし、いま置かれている立場をたのしんでもいいはずだわ。あとは一生、何もないのですもの」と洩(も)らす言葉は哀切だ。

今上(桃園)天皇の御不例を知った田沼は「女帝の儀、くるしかるまじき」と幕府の方針を決める。田沼と内親王がお忍びで大坂の繁華街を歩く場面は映画の『ローマの休日』を思わせ、菊姫と御庭番が協力して北風の密輸基地をつぶした後、二人で大陸中国へ亡命するのは、今も昔も変わらぬ海峡の狭さを感じさせる。

翌宝暦十二年(一七六二)、後桜町天皇は即位して「聖なる場所」に身を隠し、江戸に戻った田沼は「政治の泥」にまみれる。だからこそ、この幻の一期一会はやるせない。【評者 野口武彦(文芸評論家)】

■2006/04/23, 朝日新聞 朝刊, 13ページ

めぐりあいし人びと―築地書館の50年
めぐりあいし人びと―築地書館の50年土井 庄一郎

築地書館 2006-04
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愛蔵本や趣味的な本を手がけて定評があった父の印刷業を補佐したのち、著者は1953年、生地・築地の名を冠した出版社を創立した。初仕事は、核廃絶を世界に訴える英文の医学書『ATOMIC BOMB INJURIES(原爆症)』。以来、自然科学書を中心に出版を続けてきた人が、ふりかえって来し方を記した自分史が本書である。家族の肖像がある。学友や筆者ほか装丁家など本づくりにかかわる人々との豊かな出会いがある。出版人の志の成立過程を知る。

■2006/04/23, 朝日新聞 朝刊, 14ページ

「芸能ビジネス」を創った男 ナベプロとその時代
「芸能ビジネス」を創った男 ナベプロとその時代野地 秩嘉

新潮社 2006-03-16
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戦後の芸能界に君臨した渡辺プロダクション。「ナベプロ」の歴史は、原盤制作や楽曲管理をプロダクションが主導するなど、芸能ビジネスのあり方を根本から変革することだった。創設者、渡辺晋の生涯をたどりながら、栄華を極めた成功物語をつづる。最盛期からの失速など負の記述は乏しいが、植木等から堤清二まで関係者の貴重な証言は盛りだくさん。夜行列車での上京から、「作られたタレント」としての成功までを語る、ザ・ピーナッツの2人は特に印象に残る。

■2006/04/23, 朝日新聞 朝刊, 14ページ

僕はマゼランと旅した
僕はマゼランと旅したスチュアート・ダイベック 柴田 元幸

白水社 2006-02-28
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シカゴの街を舞台にした、十一篇(ぺん)からなる連作小説集だ。時代は、五〇年代から六〇年代にかけて。「僕」ペリーを中心に、その家族や級友、朝鮮戦争から生還した叔父さん、第二次大戦で右腕をなくした飲み屋の店主など、忘れ難い面々が登場する。皆、裕福とは言えない暮らしの中で、体をはって生きる人々だ。

繊細にして重厚な語りは、「タフな台車」を思わせる。地面を行く、ごろごろという音が、文の底から響いてくるようだ。細部がみっしり書き込まれているので、最初は、読みにくいと感じる読者もいるだろう。しかしそうした緊密さが、あるとき、ある一行で、突然はじけ、作品の地平がいきなり開かれることもある。ダイベックは、詩も書く。思わず傍線を引いてしまうような、一行の力技を知るひとである。そういう箇所(かしょ)にぶつかると、まるで戸口に「どさっ」と荷物が降ろされたみたいに、渋い感動の重みが広がる。そのようにして、私は「胸」におののき、「ブルー・ボーイ」に泣いた。

「胸」は、ならず者のジョーが、一人の男を殺すまでの話。殺された男の魅力的な妻とジョーとの関係が緊迫感をもって暗示的に描かれる。非情な殺人描写と抒情(じょじょう)的な甘美さが、不思議に同居する作品だ。

「ブルー・ボーイ」のほうは、病気で死んだ少年をめぐる話。弟思いの残された兄の哀(かな)しみ、追悼創作を書く優等生少女の挫折。こうしてダイベックは、汚れ者から穢(けが)れ無き者たちまでを、同じ瑞々(みずみず)しさで同じ線上に並べて描く。

読者はまず冒頭から、シカゴのとある飲み屋にいきなり放り込まれ、やや不親切なやりかたで、次々と人々に引き合わされるわけだが、店のカウンターには固ゆで卵の入ったボウルがあり、皆、そこから卵を勝手にもっていく。儲(もう)かりそうもない飲み屋なのにいいのかしら? 読んでいると、そんなことまでが妙に気になる。気になって手を伸ばせば、本当に卵をこの手で掴(つか)めそうな気がして、いつのまにか私も常連客だ。

人間の生きる確かな空間が、この本の中には、丸ごとある。懐の深い小説である。【評者 小池昌代(詩人)】

■2006/04/23, 朝日新聞 朝刊, 14ページ

世俗の形成―キリスト教、イスラム、近代
世俗の形成―キリスト教、イスラム、近代タラル アサド Talal Asado 中村 圭志

みすず書房 2006-03
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慎重な本、というのが、第一印象である。単純化、平易化によって生じる誤解を避け、丁寧に論を進める、著者の真摯(しんし)な姿勢がうかがえる。

それは、サウジアラビア生まれのムスリムで米国在住の学者、という著者の出自と無関係ではない。9・11以降蔓延(まんえん)するイスラムや宗教一般を巡る議論が、いかに短絡的に過ぎることか。序章での「西洋・非西洋を問わず、……無差別な残虐行為を正当化するために聖典の権威に訴える必要があったことはない」との謂(い)いは、けだし名言である。

だが本書は、ムスリム社会の代弁ではない。近代一般に関(かか)わる哲学的課題であり、普遍とみなされる近代・世俗概念への批判的考察である。

本書の核には、「なぜ『近代』が政治的目標として支配的なものとなったか」という疑問がある。そしてヨーロッパ近代の中心的概念とみなされる「世俗」を取り上げ、それが宗教と固定的に切り離されるものではないこと、聖性と相互関連しあうことを指摘する。著者の前作「宗教の系譜」と対になる議論である。

ここでの鍵概念は、「権力」と「近代国民国家」だ。「イスラム主義が国家権力に傾倒しているのは……正当的な社会的アイデンティティーと活動の場を形成せよと、近代国民国家に強要されているから」だ、との指摘は興味深い。「近代国民国家は、個人の生のあらゆる側面を……規制しようとしている」がゆえに、彼らも「世俗的世界における国家権力に無関心なままではいられない」。イスラム主義もまた、近代の中にある。

だが、近代ヨーロッパのアイデンティティー形成の中で、イスラムは鏡像的位置に置かれてきた。最も近い他者であるがゆえに、常に否定と矮小(わいしょう)化の対象となる。

ヨーロッパがイスラムを疑似文明視、脱本質化し、ヨーロッパ内のムスリムを同化させてきた、その背景に、著者は近代国家の多数派/少数派概念の問題性を見る。多数の中の少数としてではなく、世俗ヨーロッパにおける「さまざまな少数者と並ぶひとつの少数者」としての共存可能性への問いは、示唆に富む。【評者 酒井啓子(東京外国語大学教授)】

■2006/04/23, 朝日新聞 朝刊, 14ページ

そのたびごとにただ一つ、世界の終焉〈1〉
そのたびごとにただ一つ、世界の終焉〈1〉ジャック・デリダ 土田 知則 岩野 卓司

岩波書店 2006-01
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そのたびごとにただ一つ、世界の終焉〈2〉
そのたびごとにただ一つ、世界の終焉〈2〉ジャック・デリダ 土田 知則 岩野 卓司

岩波書店 2006-02
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本書との出合いは忘れられない。二〇〇一年に米国はシカゴ大学出版局より企画刊行された英語版原著『喪の仕事』(The Work of Mourning)を初めて読んだのは二〇〇四年の八月。西欧形而上学の伝統に対して巧妙かつ執拗(しつよう)に挑戦し続け、結果的に米ソ冷戦解消の預言者となった脱構築哲学の巨匠が、ロラン・バルトやミシェル・フーコー、ジル・ドゥルーズ、エマニュエル・レヴィナスなど十四名への切々たる追悼文を綴(つづ)った一冊は、深い友愛にみちた追想としても、弔いという作業自体をめぐる瞑想(めいそう)としても、読みごたえじゅうぶんだった。したがって、その強烈な印象も冷めやらぬまま、同年十月九日に著者の訃報(ふほう)を聞いた瞬間は、衝撃というしかない。

追い打ちをかけるように、ジョナサン・カンデルの「ニューヨーク・タイムズ」同年十月十日付への寄稿は、アルジェリア出身のユダヤ系であったデリダと、ベルギー出身で戦時中には反ユダヤ主義文書を残しアメリカへ移住したポール・ド・マンの交友を嘲笑(ちょうしょう)するかのような、死者に鞭打(むちう)つ文章であり、それに猛反発した北米知識人たちがインターネット上で巨大な署名運動を展開、デリダ再評価への道を拓(ひら)く。反フランス主義とも共振する反知性主義的身ぶりはアメリカ的ポピュリズムのお家芸だが、そんなアメリカを象徴するブッシュ再選も同じころの出来事であった。

今回の邦訳は、最初の英語版に加えて、デリダ評価の起源であるジェラール・グラネル、現代文学を代表するモーリス・ブランショへの追悼文を採録し、二〇〇三年に刊行成ったフランス語版の全訳。存在論的な現前よりも不在に惹(ひ)かれ、死者の肉体(corps)とその著作(corpus)の逆説的な関係を思索し、マルクスらの亡霊たちと語り続けたデリダの体系において、追悼という形式はもともと相性がよかったことが再認識できる。死が単純な終わりではなく終わりなきものの開示であることを多角的なスタイルで説く本書は、追悼の達人デリダ自身の全著作を未来に向かって押し開くだろう。【評者 巽孝之(慶応大学教授)】

■2006/04/23, 朝日新聞 朝刊, 14ページ

ラジオ記者、走る
ラジオ記者、走る清水 克彦

新潮社 2006-03
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小学生の時、父に買ってもらったトランジスタ・ラジオは、自慢の宝物だった。音声だけで広がるラジオの独特な表現空間の肌触りが好きだった。

ところが、このところラジオの評価は芳しくない。以前のような爆発的人気の深夜DJは姿を消し、若者のラジオ離れが目立つという。一昨年、マスコミ4媒体の1つでもあるラジオの広告費が、インターネットに抜かれたことは広告業界にとっての衝撃的ニュースだった。

そんな今のラジオがどうなっているのかを、ラジオ記者の立場から綴(つづ)ったのが本書である。何かと話題となるテレビ局とは違い、ラジオ局の現場の様子は、意外と知られていない。著者の担当したラジオ・ニュースは、テレビのそれと違って、記者一人でどこへでも出かけ、現場の息づかいをマイクで拾ってくる。永田町での政治取材も、湾岸戦争下の現地からの報告も、そして、雲仙普賢岳の火砕流レポートも、マイクだけで勝負しているラジオ記者の姿は、ラジオの新たな魅力を感じさせる。

著者が勤務する教会風のラジオ局は、昔の東京の風情を残す場所に立つ。そんな街の匂(にお)いも伝わってきそうなラジオ局の物語だ。【評者 音好宏(上智大助教授)】

■2006/04/23, 朝日新聞 朝刊, 15ページ

曼荼羅都市―ヒンドゥー都市の空間理念とその変容
曼荼羅都市―ヒンドゥー都市の空間理念とその変容布野 修司

京都大学学術出版会 2006-03
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都市史はまだ新しい学問分野だ。西欧に始まり、江戸東京など日本の都市、そしてイスラム圏の都市が注目され、今アジアに光が当たる。本書はそのアジア理解に不可欠なヒンドゥー都市を本格的に論じた労作。

登場する都市の姿は、中央に市民の広場をもつ西欧都市や、地形に合った有機的な形態を示す日本の都市とは異質だ。インドの曼荼羅(まんだら)的な宇宙観がそのまま都市の空間構造となって現れる。極めて明快な秩序をもつ都市形態には目を奪われる。

基本は、世界のどこにもあるグリッド(格子状)都市。だがヒンドゥー都市では、空間のヒエラルキーが強烈だ。中央に巨大な寺院、そして王宮を配し、その外側に、階級や機能に応じ何重にも空間を仕切り、入れ子構造の都市を築き上げる。宗教的な宇宙観がかくも見事に象徴的な都市造形を生む例は、世界に他にない。

本書は、古代から伝わる文献の記述から理念としての都市の形態を復元する一方、インド及びインドネシアの都市を現地で徹底的に踏査し、実際の都市の姿をリアルに描き出す。研究室の学生達(たち)と汗水流した調査の成果が端々に感じられるのも魅力的。アジア研究の到達点を示す貴重な書だ。【評者 陣内秀信(法政大学教授)】

■2006/04/23, 朝日新聞 朝刊, 15ページ

問題少女―生と死のボーダーラインで揺れた
問題少女―生と死のボーダーラインで揺れた長田 美穂

PHP研究所 2006-03
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リストカット、摂食障害、薬物・セックス依存、境界性人格障害、と帯にある。二十歳で自死した少女を説明するありふれたキャッチコピーだ。でも、読まずにはいられなかった。書き手が「揺すられる」対象に会った瞬間、ノンフィクションは生まれる。

抗うつ剤の取材で知り合ったレイカは大江健三郎を読破し、ビョークを聴く感度の鋭い十六歳。二人はときに取材を逸脱し、友だちのようにつき合う。でもレイカは著者の取材者としての計算を見透かしていた。著者があるライブに誘った直後に連絡を断(た)つのだ。結局なにもわかってないね、とでもいうように。

著者は告白する。彼女の才能に嫉妬(しっと)し、肝心のところで踏み込めなかった。だからこそ死の理由を見極めたいと。そしてなんと、レイカを追い込んだ「悪者」探しの旅に出るのだ。それは、普通に自分を好きになりたいだけと語った彼女の真意から隔たる旅なのだが、支離滅裂に見える著者自身が晒(さら)されることで二人の間の不協和音がいっそう際立ち、私は最後まで目を離せなかった。

取材者の地軸が狂う。個と個が鈍く捻(ねじ)れる。狂いと捻れが逆説的に生々しくレイカの残像を結ばせ、消し去った。【評者 最相葉月(ノンフィクションライター)】

■2006/04/23, 朝日新聞 朝刊, 15ページ

Op.ローズダスト(上)
Op.ローズダスト(上)福井 晴敏

文藝春秋 2006-03-14
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Op.ローズダスト(下)
Op.ローズダスト(下)福井 晴敏

文藝春秋 2006-03-14
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福井晴敏の三年半ぶりの新作。上下巻で一一〇〇ページを軽くこえる超大作だ。

そのスケールの大きさにおいて、また、国際的なテロによる日本の危機というアクチュアルな主題において、さらには、戦争をめぐって日本人ひとりひとりの生き方を問う真摯(しんし)な倫理性において、村上龍の『半島を出よ』に匹敵するパワーをもった小説である。だが、村上龍のクールな描写性に比して、福井晴敏の語りは焼き切れそうに熱い。

インターネット分野に集中して投資を行い、国防産業にまで進出した「ネット財閥」の重役がたて続けに三人爆殺される。それは恐るべき正確さで計画された大規模テロの始まりだった。実行者は、防衛庁を追われた情報員・入江を中心とする「ローズダスト」と名乗る五人。その背後には北朝鮮の影が見え隠れする。

事件の解明に、防衛庁の非公開情報機関「ダイス」の丹原が乗りだす。丹原と入江のあいだには、悲劇的な過去の因縁があった……。

この物語の枠組みそのものにさほどの新味はない。だが、テロリストの非情な行動を描く精密機械のような叙述に、読者はあっというまに呑(の)みこまれていく。それを追う捜査側の反応や警察および防衛庁の内情も息づまるリアリティーで活写される。

そして、ついに両者が激突する、お台場を舞台にしたカーチェイスから総合ショッピングセンターでの銃撃戦に至る最初のクライマックス! 世界的なレベルで見ても掛け値なしにベストクラスと断言できる密度と迫力だ。しかし、これは小説全体にとってまだ序盤戦にすぎない。ラストの戦闘場面の激烈さには誰もが唖然(あぜん)とすることだろう。

だがさらに重要なことは、アメリカ製の映画や冒険小説のように、テロリストが単なる悪人ではないことだ。それどころか、彼らは、平和主義だといいながら一朝有事となれば主権だ国家だと逆上し、昨日までの自分を簡単に捨てる日本人の心性と、それを利用しようとする支配層の策謀への本質的な批判者なのである。ここに、本書の深く苦い読みどころがある。【評者 中条省平(学習院大学教授)】

■2006/04/23, 朝日新聞 朝刊, 15ページ

ヒストリアン・I
ヒストリアン・Iエリザベス・コストヴァ 高瀬 素子

日本放送出版協会 2006-02-22
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ヒストリアン・II
ヒストリアン・IIエリザベス・コストヴァ 高瀬 素子

日本放送出版協会 2006-02-22
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世に殺人を扱った本は数多い。だが、もしもあなたが、たまたま一冊の本を手に入れてしまったばかりに、命を付け狙われる羽目に陥ったとしたら?

アメリカの新進女性作家エリザベス・コストヴァが二〇〇五年に発表するやいなや全米ベストセラー第一位となり、百万部以上を売り尽くし、ハリウッド映画化も決まった第一長編小説『ヒストリアン』は、そのタイトルどおり、「歴史」と一体となった「書物」の魅力と恐怖を、じっくり味わわせてくれる。序文でも明らかなように、ここでの「歴史」は必ずしも現代人の手で解析されるがままの客観的対象ではなく、ときに自ら猛然と「情け容赦もなく暗い鉤爪(かぎづめ)」をむきだして歴史学者自身へ襲いかかってくるような、意識をもつ「怪物」なのだ。

物語は一九七二年のアムステルダムから始まる。ヒロインは好奇心にあふれる十六歳の少女。彼女はある日、元歴史学者でいまは外交官を務める父ポールの書斎より、竜の絵の入った本を抜き出し、それとともに「不運なる後継者へ」と書かれた謎の手紙を発見、父に事情を問いただす。かくして父は愛娘(まなむすめ)に、彼自身もかつてその本を図書館で見つけ指導教授だったバルトロメオ・ロッシに問いただしたことを、そしてその本をきっかけに吸血鬼「ドラキュラ」すなわち「竜(Dracul)の息子」が現代まで生きている証左をつかめるかもしれないことを、劇的に語る。そして、ドラキュラ探索の果てに、少なからぬ人々が危難に遭い、誰よりロッシ教授自身が消息を絶ってしまったことも。

だが、やがて師匠を慕うポール自身も姿を消す。はたしてヒロインは、自分が赤ん坊のころに死んだとばかり聞かされていた聡明(そうめい)なる母ヘレンと再会し、自らの家族にひそむ謎を知ることになる。ダン・ブラウンの『ダ・ヴィンチ・コード』がイエス・キリストの遺伝子のゆくえを明かすとしたら、本書はそれに勝るとも劣らぬ迫力で、ドラキュラの遺伝子のありかを示すだろう。

もちろん、ゴシック・ロマンスやゴスロリ文化全盛の昨今、新しい歴史学やポストコロニアリズムからする人種論的視点に立ったドラキュラ再評価も相当の進展を示しているので、正直なところ、読み出したときには類型に終わるのではないかという懸念があった。だが本書は、多くの亜流を生んだブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』(一八九七年)とは異なり、トランシルヴァニアとワラキアで暴虐の限りを尽くし、オスマン帝国の侵略をできる限り長く阻止することに貢献した十五世紀の専制君主、「串刺し公」と呼ばれたヴラド・ツェペシュの正体へ迫ろうとする。とりわけクライマックスで、すべての愛書家を魅了するだろうドラキュラの図書室が生き生きと描かれるところは圧巻だ。

そう、本書では、誰よりドラキュラ自身が最大の愛書家であり最も理想的な歴史家なのである。手に汗握る吸血鬼ドラマと高度に思索的な歴史学ドラマとを巧みにからませるという離れ業に、わたしは心から感嘆した。[評・巽孝之(慶応大学教授・アメリカ文学)]

■2006/04/16, 朝日新聞 朝刊, 11ページ

京都愛宕山と火伏せの祈り
京都愛宕山と火伏せの祈り八木 透

昭和堂 2006-03
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京都の店ではよく、「阿多古祀符 火の要慎」と書かれたお札を柱などに張ってあるのを見かける。市の北西に位置する標高924メートルの愛宕山は近世以降、「火伏せ(火災予防)」の神として民衆の信仰を集めているが、古くは山岳修験の山として開かれ、戦国期には「軍神」と崇拝されたという。落語でもおなじみの愛宕山とその周辺の、信仰と民俗を概観し、「火」への民衆の思いを振り返る。「あたごさん」と親しまれる山の歴史的奥行きは深く、文化的すそ野も広いのだ。

■2006/04/16, 朝日新聞 朝刊, 12ページ

名女形・雀右衛門
名女形・雀右衛門渡辺 保

新潮社 2006-02-23
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85歳の今も舞台に立つ中村雀右衛門は、梨園(りえん)に生まれながら、映画スターや従軍の経験もあり、20代後半から歌舞伎の女形の道を歩み始めた。著名な劇評家の筆者は、雀右衛門が演じた「金閣寺」の雪姫、「本朝廿四孝」の八重垣姫など当たり芸27種の魅力を、驚きと尊敬の念を交えて活写。身体鍛錬などを続けて美しさを保つことで、約半世紀かけ、ついに形の美とリアルさの双方を奇跡的に獲得した、と論考する。他の名女形と比べ、雀右衛門の現代性をあぶり出す点も示唆に富む。

■2006/04/16, 朝日新聞 朝刊, 12ページ

もう一度読みたかった本
もう一度読みたかった本柳田 邦男

平凡社 2006-03-18
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「本棚を見れば、そのひとのことがわかる」というおなじみの言葉が、本書の読了後はしみじみと胸に染みる。そうか、本棚に並んでいるのは「いま読んでいる本」ではなく「かつて読んだ本」なんだな、とあらためて気づく。

たとえば、古稀(こき)を迎えたひとが、自分はどうやっていまの自分になったのかという〈自己形成史〉を探るとき、かつて愛読した本を本棚から抜き取ってみることは、大きな意味を持つはずだ。

著者もそうだった。『あすなろ物語』『トニオ・クレエゲル』『モオツァルト』『老人と海』『千曲川のスケッチ』『異邦人』『外套(がいとう)』……少年時代や青春時代に愛読していた二十数作の小説や評論、詩歌集を、著者はいとおしそうに読み返す。それは、時の流れに色あせない古典の力の再確認であると同時に、若い頃に心惹(ひ)かれた場面や一節を踏まえつつ、また別の角度から光を当てることで、作品に新たな魅力を発見する試みでもあるだろう。

そんなブックガイドとしての愉(たの)しさを持つ一方で、本書は、〈本をとおして甦(よみがえ)る私自身の青春時代を、今の私が言語化〉する自叙伝でもある。昭和十一年生まれのヤナギダ青年やクニオ少年を振り返る著者のまなざしは、とても優しい。だが、その奥には、社会や個人の歴史を凝視するノンフィクション作家の目が確かにひそんでいる。

若き日々に読みふけった本を再読することは〈普段は忘れている地下に広がる根、人生の幹や枝葉に暴風や日照りにも耐える力を与えてくれる地下の根っこを、もう一度透視画像として映し出して確かめる作業〉である、と著者は言う。青春時代に優れた本に出会う幸福や、再読に価(あたい)する/しないで作品が論じられることのほんとうの意味が、ここにある。一冊の本に、一編の小説に、再会すること二倍――それはもちろん、著者をそっくり真似(まね)て古稀まで待たなければならないというものでもないだろう。むしろ現役の、生きることにちょっと気弱になったオジサンやオバサンにこそ、その効果は大きいかもしれない。[評・重松清(作家)]

■2006/04/16, 朝日新聞 朝刊, 12ページ

沖で待つ
沖で待つ絲山 秋子

文藝春秋 2006-02-23
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文学界新人賞受賞作の「イッツ・オンリー・トーク」を読んだとき、僕はふと開高健が古山高麗雄を称賛したときの言葉を思い出した。つまり“したたかな苦渋を濾過(ろか)した「かるみ」”が、古山ほどではないにしろあると思った。

売れない女の絵描きが、勃起(ぼっき)障害でマザコンの議員や自殺未遂の経験をもつ元ヒモらと付き合う話を、軽妙に描いているのだが、その(変な言い方になるが)年季の入った軽々とした身ぶりがとても印象的だった。

それは芥川賞受賞作の「沖で待つ」にもいえる。住宅設備機器メーカーの福岡支店で働く「私」と同期の太っちゃんは、やがて互いに強い信頼を覚え、どちらかが亡くなったときに、恥ずかしいものが記録されている相手のパソコンを破壊する協約を結ぶ。物語は太っちゃんが亡くなり、「私」が部屋に入ってその協約を実行する場面から始まる。

まず、いきなり太っちゃんの幽霊が出てくるので驚く。人を食った場面だが、絲山秋子なので少しの湿りけも不可解さもない。淡々と回想シーンとなり、女性総合職の出現で男と女が対等に働く職場がいかに愉(たの)しかったかを生き生きと語っていく。そして、恋愛未満友情以上の男女の関係を絲山秋子らしいさばさばしたユーモラスな筆致で捉(とら)えていく。ロマンティックな題名のおバカな内容も笑える。

笑えるという点では、同時収録されている「勤労感謝の日」のほうが上。失業中の三十六歳の恭子が三十八歳の商社の男と見合いする話だが、威勢のいい、あけすけで身も蓋(ふた)もない語りなのに心地よい。ぱきぱきとしたリズミカルな文章、さばけているくせに意外なところにこだわり、それでいて颯爽(さっそう)と前に進んでいくあたりの調子のよさ、さらに癖のある個性的な人物たちの創出という点で、僕はふと古山高麗雄ではなく田中小実昌を想起した。

絲山秋子は芥川賞では、綿矢りさや金原ひとみに先をこされたが、文体と人物造形ではより成熟していて、何より確かな現実認識に貫かれた軽みが抜群。純文学のジャンルに留(とど)まらない得難い才能だ。[評・池上冬樹(文芸評論家)]

■2006/04/16, 朝日新聞 朝刊, 12ページ

アーモリー・ショウ物語
アーモリー・ショウ物語ミルトン・W. ブラウン 木村 要一 Milton W. Brown

美術出版社 2006-02
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一九一三年、ニューヨークの陸軍兵器庫で開催された国際現代美術展、アーモリー・ショウだ。欧米から千二百点の作品が展示・販売され、巡回展も含めた入場者は二十万人。ピカソのキュビズムやマティスのフォビズムに初めて出会ったアメリカ人の間には賛否両論がわき起こり、美術市場に多大な影響を与えた。

最も物議を醸したのがマルセル・デュシャンとピカビアで、独自のアイデンティティを模索していた二十世紀初頭の米国の柔らかな土壌は、ショウを機に渡米した彼らを受け入れ、戦場となるヨーロッパから現代美術の中心地としての看板を奪いとる。

著者は美術史の転換点ともいえるこのショウを主催したアメリカ画家・彫刻家協会の若き芸術家たちの遺品(議事録や書簡、現金出納帳)をひもとき、全出品作や購入先、寄付金の詳細を解明。モダニズムがいかに米国に浸透し、定着したかを描き切った。

下世話な関心だが、あのコレクターがこの絵を買ったのかと線でつながることに興奮した。米国最大のマティス・コレクターで知られるアルバート・バーンズが、当時はなんら関心を示さなかったというのも興味深い。マティスは「八歳の子供の馬鹿騒ぎ」などと批判を浴びていたのだ。

遺品は主催者の人間像も雄弁に物語る。とくに報酬を一銭も得ていなかったことに注目したい。彼らは作品を集めるために渡ったヨーロッパの前衛に打ちのめされ、勉強不足で旧態依然とした米国美術界の現状を打破しようと決意した。歴史的評価よりも自分の目を信じ、大衆に披露した日を「新しい精神の出発点にしたい」と誓った。自分の創作ができなくとも、赤字を覚悟でショウに賭けた。

つまり本書にはアートで世界を変えたいと本気で願い、行動した若き芸術家の志が描かれているのだ。この志こそアートと呼ぶのではないか。

上品な装幀(そうてい)とは不似合いなほどの「熱」が立ち上ってくる本を前にして、これほどの「熱」を現在の私たちは何に対して抱きうるかと考えた。[評・最相葉月(ノンフィクションライター)]

■2006/04/16, 朝日新聞 朝刊, 12ページ

おじさんはなぜ時代小説が好きか
おじさんはなぜ時代小説が好きか関川 夏央

岩波書店 2006-02
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時代小説はなぜ人気があるのか。山本周五郎、吉川英治、司馬遼太郎、藤沢周平、山田風太郎、長谷川伸、村上元三と、森鴎外ほかの代表作をあげて、見事に立証した好評論である。

旧制高校の同人雑誌から生まれた純文学が、自己表現のため私小説に傾きがちなのに対して、かれらの多くは世間を知った苦労人だけに、自己を語るためではなく、読者のために書いた。それが「根も葉もあるおとぎ話」として、広く大衆に支持された。

いわゆる進歩史観にさからって、過去から未来への連続性を信じ、封建的として否定された日本的感情や日本的人間関係を再評価しようとした。それはかつてこの国に存在した、ある種のユートピアふうな世界を想起させ、読者に慰めを与えた。

司馬遼太郎のように、日本の近代文学が不得手とした日本文化論を展開し、『坂の上の雲』で政治と軍事を描いた作家もいる。山田風太郎も藤沢周平も、時代小説の巨匠たちは静かでかつ戦闘的だった――。

鋭い指摘に深くうなずきながら、ひとつだけ疑問が残った。時代小説が好きなのは「おじさん」だけだろうか。現に私の若い女友達ときたら、私以上に熱心な愛読者なので……。[評者]杉山正樹(文芸評論家)

■2006/04/16, 朝日新聞 朝刊, 13ページ

イルカ
イルカよしもと ばなな

文藝春秋 2006-03-20
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小さな本だが、大きくあたたかい。主人公の恋愛小説家・キミコが、ときに悪意や暴力に近寄りながらも、様々な人と出会い、やがて、婚姻外で子を産むまでのいきさつが、自然な流れで描かれていく。

小説だ。だがこれは、能(あと)う限りのシンプルな言葉で書かれた、「生命」についてのひとつの思想の本ともいえる。なぜ、ひとが子を産むのか、そこに至るのか、その解答を、わたしはこの一冊から得たように思った。

かつて、著者の父・吉本隆明氏の本を読んだとき、私は、あ、子を産んでみよう、とふと思ったことがあったのだが、そういうふうに後押しされる何かが、娘である著者へと流れ込んでいるのを感じる。特別な親子だという話をしたいのでなく、本書の主題でもある生命のあり方に、そこでも驚き、感慨を深めるのである。

本書に登場する人々は、他者とともによりよく生きるため、実にあれこれ心を働かせるが、とりわけキミコの「賢(さか)しさ」には、心洗われ、心うたれる。その賢しさが、キミコという個を超えて、生命を慈しむ無名の身体の、中心から発していると感じられるから。「イルカ」というのは、その源に住むものの、象徴なのではないだろうか。[評者]小池昌代(詩人)

■2006/04/16, 朝日新聞 朝刊, 13ページ

ぼくはいつも星空を眺めていた 裏庭の天体観測所
ぼくはいつも星空を眺めていた 裏庭の天体観測所チャールズ・レアード・カリア 北澤 和彦

ソフトバンククリエイティブ 2006-02-18
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「土星が期待を裏切ることはめったにない」。この一文の含蓄の深さが、本書の内容を雄弁に語っている。

古来、星は人を魅了し、惑わしてきた。かのガリレオは、土星は三つの惑星でできていると発表した。しかしその二年後、両脇に控えていたはずの二個の星は消えていた。むろん、土星の環(わ)が角度によって見えにくくなったせいだ。知ってしまえばそれまでだが、かといって科学の知識が星空の魅力を削(そ)ぐことはない。

著者はコネティカット州の森のそばに住む作家にして編集者。かつては天文少年だったが、大学生時代、学資の足しにするために、過去を売り払った。一二歳のときに買ってもらった天体望遠鏡を手放したのだ。以来四半世紀、星空を見上げることなく生きてきた。

初恋の相手との再会は、星がきれいという娘の一言だった。いっしょに見上げた星空は、9・11の殺伐たる光景で干からびた心を潤してくれた。昔の情熱をよみがえらせた著者は、裏庭に天体観測所を自作する。本書では、建築を決意してから完成までの一年間が、星座の移ろい、占星術師だった母との思い出、天体観測の逸話などを交えて語られる。静謐(せいひつ)にして秀逸な科学エッセイである。[評者]渡辺政隆(サイエンスライター)

■2006/04/16, 朝日新聞 朝刊, 13ページ

文盲 アゴタ・クリストフ自伝
文盲 アゴタ・クリストフ自伝アゴタ・クリストフ 堀 茂樹

白水社 2006-02-15
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『悪童日記』は衝撃だった。平易な言葉で描かれる素っ気ない文章が、ずしんと心の奥底まで貫通して、そのまま残る。未(いま)だにその貫通痕(こん)は私の内に残っている。本書は、その『悪童日記』の著者が書いた自伝的物語である。

まるで無声映画のような徹底した静けさで語られる。幼少期から思春期を経て続く光景の、隙(すき)をぬって忍び寄るように、時代背景が見え隠れする。一九三〇年代後半から五〇年代までの動乱の時代を、著者は具体的な事件やできごとではなく、「言語」の存在によって描き出す。

故郷の村で家族と住んでいたころは、「言語(ことば)はひとつしかなかった」と著者は書く。九歳で、住民の四分の一が敵語であるドイツ語を話す町に引っ越し、その一年後、国はロシアに占領され、人々はロシア語を話すことを強要される。そうして二十一歳、オーストリアへと亡命した彼女はふたたびドイツ語を話す必要性に迫られ、さらにその後、スイスのフランス語圏に送られ、まったく理解できない言語のなかに投げこまれる。

成長していくに従って私たちは言語を覚え、言葉はゆたかになっていくが、著者の場合は反対である。大人になればなるほど彼女は言語を失っていくのだ。

亡命した仲間たちは、社会的立場、文化的背景、家族と言語から切り離され、禁固刑が待っていることを承知でハンガリーへ戻ったり、死を選んだりする。人を生かすのは物質ではないのだと思い知らされる。言語というものの重要性にも、また。

著者にとって「書く」という行為は、生きることと同義だった。戻らず、死なず、そこでの日々を生き抜くこと。かつて私に衝撃を与えた小説が、そのようにして生まれたのだと知り、驚くとともに深く納得する。心の内まで貫通するあの強さは、言語とともに奪われてきた家族や思い出を奪い返そうとする意志であり、自身を保つ手段でもあったのだと。

書くことは、この著者には終わらない闘いなのだ。やはり心の奥底まで貫通する一冊である。[評者]角田光代(作家)

■2006/04/16, 朝日新聞 朝刊, 13ページ

喧嘩両成敗の誕生
喧嘩両成敗の誕生清水 克行

講談社 2006-02
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自分の身内を殺された被害者側が加害者側に《等価報復》を要求し、かつそれを実行する。中世の日本は、そうした私的制裁の習慣がごく普通に行われる荒々しく殺伐たる社会であった。

喧嘩両成敗(けんかりょうせいばい)という言葉は耳に親しく、高校の歴史教科書も重要事項として扱うそうだ。起源は戦国時代にさかのぼり、「喧嘩をした者は理非を問わず双方を同等に処罰する」と定めた法文である。

自分が蒙(こうむ)った損害を公権力にたよらず私的な争闘で回復することを歴史用語で「自力救済」という。従来の理解では、喧嘩両成敗法はこの状態にピリオドを打ち、「紛争を『喧嘩』(私的な実力行使)によって解決するのを未然に解決することで、紛争解決の権利(裁判権)を大名権力に集中させる役割を担った」と評価されていた。際限もなく続く無秩序状態の闇にさしかけられた法の光と見なすのが定説だったのである。

室町・戦国時代の社会史を専門とする著者は、この一冊ではむしろその闇の部分に眼を向ける。一九八〇年代以後の中世法制史研究を存分に消化吸収し、人に笑われれば血を見るのが当たり前で、路上がいつ殺傷の場になるかわからぬ危険をはらんだ室町人の気風を表情豊かに描き上げ、問題の輪郭をくっきりと切り取って示している。

喧嘩両成敗法は、抽象的な法理でも、円満な揉(も)め事解決法でもなかった。山積するナマの苦情処理の処方箋(しょほうせん)であった。既成の権威が解体した社会には、所領争いとか復讐(ふくしゅう)とかの紛争が後から後から発生してくる。それらをいかに現実的に処理するかという苦しまぎれの具体案の集大成に他ならない。その血みどろの形成過程をたどった上で、何事にも調和を重んじる「柔和で穏やかな日本人」という自己イメージに疑問を提出する著者の若い感受性は、鋭敏に日本の近未来像を察知しているように思われる。

最近よく強調される自己責任論は、もしかしたら再現しつつある自力救済社会の前触れではないだろうか。[評者]野口武彦(文芸評論家)

■2006/04/16, 朝日新聞 朝刊, 13ページ

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