メイン > 朝日新聞日曜版『書評』 > 2006年12月17日
| 親と離れて「ひと」となる | |
![]() | 足立 倫行 日本放送出版協会 2006-10 売り上げランキング : 529 おすすめ平均 ![]() 若者自立支援施設のことはよくわかるが・・・・Amazonで詳しく見る by G-Tools |
本書は「現場」からの報告である。なにより、そのことを最大限に強調しておきたい。
不登校やひきこもりなど「現代の生きづらい青少年」を対象とする、合宿型――すなわち共同生活を営む民間の自立支援組織が、本書ではいくつか紹介されている。足立倫行さんは共同生活の場に赴き、組織を運営するおとなから話を聞き、若者の姿をリポートする。ただ、それだけ――だからこそ、僕たちに多くのことを教えてくれる一冊だった。
もしかしたら、現実のきれいな絵解きやすっきりと腑に落ちる処方箋を求めるひとには、本書は少し不親切に感じられてしまうかもしれない。「なぜ(若者たちは/ニッポンは)こうなってしまったのか」という原因も、「では(若者たちは/ニッポンは)どうすればいいのか」という解決策も、ここには示されていないのだから。いわばトンネルの入り口も出口も見えない状態である。
ならば――僕自身をも含めて、トンネルの入り口や出口のありかを性急に求めてしまうひとに問おう。いま、我々が立ちすくんでいる暗闇の深さはどれくらいなのか、トンネルの中のどの位置にいるのか、手を伸ばせば壁に届くのか届かないのか、足元はぬかるんでいるのかいないのか……まずはそこをしっかりと確かめなければ、出口へ進むことも入り口へ立ち戻ることもできないのではないか?
長年、自立支援組織を運営してきた一人は言う。〈我々現場の実践者は、生きて変化する人間を毎日相手にしてる。理論通りに行かないことなんてしょっちゅうなんだ。それでも言えることは何か。我々の言葉が大ざっぱだったり矛盾したりするのは、ある意味で仕方ないんだよ〉
別の一人はこんなふうにも言う。〈俺の仕事は、言葉で分析したり究明したりすることじゃなくて、立往生している彼らを、彼ら自身の力で再び歩き出させることですよ。そのために共同生活をやってるわけだからね〉
本書で紹介される自立支援組織の数々は、決して楽園でもなければ万能の力を持っているわけでもない。カネの問題もある。地域との関係もある。若者の自立にしても〈うまくいく保証なんてありませんからね〉と「現場」は率直に認め、自立を支援するスタンスでさえ、組織によって異なっている。環境を整えるか自覚に任せるか、外から規律をつくるか自己規律に任せるか……。
足立さんはそれぞれの「現場」を敬意と共感のにじむ筆致でリポートしながら、なにが正しいのかを安易には決めつけない。「現場」のおとなが、若者に自立を押しつけてはいないように、である。
なんとフェアなリポートなのだろう。いじめの問題から教育基本法改正問題に至るまで、教育をめぐる論議が声高な入り口論と出口論に終始している状況だからこそ、ある意味では愚直なまでに色眼鏡なしに「現場」の現状を伝える本書の静かなたたずまいは貴重だし、と同時に、そのたたずまいじたいが、「矯正」でも「治療」でもない「支援」の本質をも示しているのではないか。【評 重松清(作家)】
| アナーキスト人類学のための断章 | |
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「国家と資本に対抗」も人間の本性
著者は人類学者であり、アナキストの活動家である。人類学とアナキズムの結びつきは唐突ではない。「未開社会」を対象としてきた人類学者モース、クラストル、サーリンズらは、そこに国家と資本主義に対抗する社会を見た、広義のアナキストであった。しかし、今日の人類学者はそのことに注目しないし、アナキストも人類学に注目しない。これらの結合の意味を確かめながら考え且つ行動して来たのは、おそらく著者だけであろう。
研究に専念していた著者は、一九九九年シアトルでの反グローバリゼーションの闘争を見て、初めて活動に参加したという。だが、そのとき彼が気づいたのは、ニューヨークの「直接行動ネットワーク(DAN)」の会合のやり方が、かつてフィールドワークのために二年過ごしたマダガスカル高地の共同体における評議会とよく似たものだということであった。
これを読んで私は、ハンナ・アーレントが一九六八年に、世界各地の新左翼運動で同時的に広がった「評議会」(日本では全共闘に代表される)について述べたことを想起する。一般に、評議会(ロシア語でソヴィエト、ドイツ語でレーテと呼ばれる)は、マルクス主義と結びついているようにみえるが、もともとアナキストが考えたものだ。しかし、ハンナ・アーレントは、評議会は「政治的行為の経験そのもの」に存するもので、「まったく自発的に、そのたびごとにそれまでまったくなかったものであるかのようにして出現」するのだ、という。
つまり、それは誰かが考案したものではない。むしろ、現にある、反集権的な自然発生的運動の形態を肯定するところにこそ、アナキズムがある。著者のアナキズムも、そのようなものである。著者は「未開人」から学べ、といっているのではない。われわれはそうと知らずに、彼らと同じことをやっている。国家と資本が人間の本性に根ざすとすれば、それに対抗することも人間の本性のようなものだ。人類学が教えるのは、そのことである。【評 柄谷行人(評論家)】
| あなたが平等主義者なら、どうしてそんなにお金持ちなのですか | |
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マルクス主義の検討から政治哲学へ
著者は分析的マルクス主義の旗手の一人。分析的マルクス主義とは、壮大な歴史・哲学理論を礎とする伝統的なマルクス主義と袂を分かち、数理的な手法等を援用して搾取、唯物史観といったマルクス主義のモチーフを現代的に再検討・再構成しようとする知的潮流のこと。コーエンは、ジョン・ローマーらと並ぶこの潮流の中心的人物であり、唯物史観を現代的な形で捉え返した『カール・マルクスの歴史理論』や、リバタリアニズム(自由至上主義)との対決を通して自由と平等との微妙な関係を検討した『自己所有権・自由・平等』などで知られる。
本書はそんな分析的マルクス主義者コーエンによるコーエン入門である。本書の内容は大きく三部に分けることができる。第一に、カナダ共産党の活動的メンバーだった母親と、ユダヤ人民同盟に所属していた父親のもとで育ったコーエンの自叙伝的部分。彼がどのようにユダヤ文化とマルクス主義的思想を経験してきたかが詳しく語られる。続いて、伝統的マルクス主義のいくつかのコンセプト、史的唯物論にもとづく科学的社会主義、「宗教は民衆の阿片(アヘン)である」という宗教観などが、明快なロジックにもとづいて検討される。そうした作業を通じて、伝統的なマルクス主義者たちが、なぜ「分配の正しい方法とは何か」といった問いを扱う「規範的な政治哲学」を回避してきたのか、ということが問題化され、政治哲学的な問いへと向かうコーエンの立場が明らかにされる。そして最後に、現代正義論の泰斗ジョン・ロールズの議論をたたき台として、平等(主義)という理念が政治哲学的に位置づけられていく。本書の表題にある問い――裕福な平等主義者という立場の道徳性をめぐる問い――は、第十講で詳細に検討されている。
マルクス主義をめぐる追想から、その批判的検討を経て、平等をめぐる政治哲学へ――講義録ということもあり、コーエンの他の本と比べて読みやすい。マルクス好きにもマルクス嫌いにも読んで欲しい一冊である。【評 北田暁大(東京大学助教授)】
| シニフィアンのかたち―一九六七年から歴史の終わりまで | |
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旧来の歴史観すべてに揺さぶり
現代アメリカを代表する批評家は誰か? こう訊(たず)ねられたら、わたしは迷わずマイケルズの名を挙げる。新歴史主義批評の金字塔『金本位制と自然主義の論理』(一九八七年)からモダニズム文学史の再解釈『我々のアメリカ』(一九九五年)へ、そして今世紀のネオ・リベラリズムを意識した二〇〇四年刊行の本書へと歩み続け、危機のアメリカにおける壮大な理論的転換をしたたかに生き延びてきた、彼は文字どおりの批評家であるからだ。
本書は三部構成。
著者はまず、一九六七年にマイケル・フリードが名論文「芸術と客体性」を発表して「モダニズムの死」を追悼した意義とともに、八九年に米ソ冷戦が解消しフランシス・フクヤマらによって「歴史の終わり」が叫ばれ始めた意義を重視して、第一章を「ポスト歴史主義」と呼ぶ。
続いて彼は、美術などにおける「対象」すなわち「記号表現(シニフィアン)」とそれを読む「主体(サブジェクト)」とに同じだけの重みを与え、ディープ・エコロジーまでを射程に入れた第二章を「プレ歴史主義」と命名。
そして、まさに冷戦解消へなだれこむ八八年に、新歴史主義批評の先達グリーンブラットが「死者と対話をしたい願望」から出発する『シェークスピアにおける交渉』を出版し、黒人女性作家トニ・モリスンが奴隷制の亡霊を描いた歴史小説『ビラヴド』(八七年)でピューリッツァー賞を受けたという奇遇が起こったがゆえに、第三章を「歴史主義」と題する。
かくして本書は新歴史主義や歴史の終焉論など旧来の歴史観すべてに揺さぶりをかける。だからこそ終章は、ハート&ネグリの『〈帝国〉』が「何を信じるか」というイデオロギーの政治学ではなく「いかに存在しうるか」という生政治学(バイオポリティクス)的闘争を浮上させた現在、パンク作家キャシー・アッカーの登場人物がインクならぬ血でテクストを書いたことを再評価する。
政治も文学もテロリズムの言説と無縁ではなくなった世紀に新たな批評的戦略はいかに可能か、そのためのヒントを満載した一冊だ。【評 巽孝之(慶応大学教授)】
| さんずいあそび | |
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漢字の偏の中で「さんずい」は、稲作民族の日本人にとってなじみ深い字が多い。例えば「淋(さび)しい」「涼しい」「海」「酒」などである。
本書はその「さんずい」のつくありふれた形容詞や名詞、六十語を引っぱり出して、その言葉が使われる時と場合によって意味やニュアンスを変幻自在にかえる不条理の条理を機知とユーモアを交えつつ語りついでゆく。
この中で「淋しさ」評論家という風流人が登場する。その高説によると、季節で秋に淋しさを感じるのはごく平凡。初夏に淋しさを感じるのは青壮年の中にいて老齢のわが身を思う類の淋しさであり、秋に思う淋しさよりは複雑で高度。生きとし生けるものが姿を消す冬の荒野、いわば「厳冬の淋しさ」を感じとる心は、初夏の淋しさを感じとる精神と同じ程度の感受性。最上級は、セミが鳴き立て、高校野球の熱狂を伝える盛夏に淋しさを感じとる心だという。いわば淋しさ感受性の「アガリ」というわけだ。
淋しさという言葉が季節ごとに役者のように振る舞うのである。もちろん劇作家である著者も「淋しさ」評論家であるにちがいない。不条理劇の第一人者らしい「さんずい」の演技の見定めのようでもある。【評 前川佐重郎(歌人)】
| ぼくたちの砦 | |
![]() | エリザベス レアード Elizabeth Laird 石谷 尚子 評論社 2006-10 売り上げランキング : 38814 おすすめ平均 ![]() パレスチナの民衆が生き生きと描かれた本Amazonで詳しく見る by G-Tools |
中東で戦争やテロが発生すると、そこで生きている人間は過激で残酷で同じ人間と思えない、という印象を持たれがちだろう。そもそも私たちと違う人々だから殺し合いが平気なのだ的な捉えられ方が、蔓延している。
そうではなくて、暴力と圧制の対象となっているのは、普通に家族を心配し恋愛し喧嘩する、サッカー大好きな人たちなのだ。
この小説は、それを伝えるために、思いっきり普通の少年の生活を描く。イスラエルに占領されるパレスチナで、イスラエルによる外出禁止令や検問や抑えつけのなかで、いかにパレスチナ人たちがタフに「暮らし」を維持しているか。
子供が爆弾騒ぎに巻き込まれて欲しくない親、イスラエル兵に抵抗できない親を悔しく思う子供、難民キャンプ生活者へのパレスチナ人同士での蔑視。でも占領者の監視をかいくぐって帰還した子供への、近所一体となった称賛、そして手作りサッカー場に寄せる、子供たちの夢。
作者はイギリス人。アンネの日記のように、幅広く共感を得る書がパレスチナにもあって然るべきだ、という執筆動機は、多くの中東関係者が頷くだろう。【評 酒井啓子(東京外国語大学教授)】
| ことばの力 平和の力―近代日本文学と日本国憲法 | |
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作家の言葉で戦争を問い直す
著者は2004年にできた「九条の会」の事務局長だ。もちろん漱石や賢治の研究で知られる日本近代文学研究者でもある。副題が「近代日本文学と日本国憲法」かぁ。小森陽一らしい荒技だなあと、そんな冷やかし半分の気持ちで読みはじめ、しかし読みはじめてすぐ反省した。
日本国憲法をめぐる問題は、突き詰めれば言葉の解釈に行き着く。だが、それだけではない。近代日本が戦争とともにあった以上、文学作品も戦争と無関係ではいられない。
「国権の発動たる戦争」としての日清戦争を背景に社会の変容と性暴力の構造を浮かび上がらせた樋口一葉『たけくらべ』。日露戦争終結の翌年に書かれ、個人と国家の矛盾した関係を考えさせる夏目漱石『草枕』。第1次大戦のパロディーとしての宮澤賢治『烏の北斗七星』。そして大江健三郎『奇妙な仕事』ほかの初期作品が含意する「誰も責任を取らない国」とその背後にある戦争責任の問題。
近代日本が経験した四つの大きな戦争を4人の作家の言葉を通して問い直す。おのずとそれは日本国憲法の思想につながるのだ。牽強付会(けんきょうふかい)な点もなくはないけど刺激的。小森先生、熱っぽく飛ばしてます。【評 斎藤美奈子(文芸評論家)】
| 男たちの帝国―ヴィルヘルム2世からナチスへ | |
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近代ドイツの「性政治学」は
ヴィスコンティの名作『地獄に堕(お)ちた勇者ども』でも描かれているように、ナチは男性の同性愛に対して矛盾した態度を取った集団だった。「排他的で強力な同志愛」で結ばれたナチはそれじたい同性愛的な要素が強く、実際の同性愛者も少なくなかったにもかかわらず、表面的にはそれを激しく嫌悪していたのだ。ナチ内部の同性愛者は粛清対象となり、強制収容所送りとなった一般の同性愛者は1万人以上、ともいわれる。
なぜこんな屈折した事態が生じたのか。「同性愛、イエスかノーか?」といった二者択一の理論では、答えが見えてこない。そこで著者は、「異性愛と同性愛」といった境界を取っ払い、性愛の問題をグラデュエーションでとらえる「クィア理論」で、ナチに至る近代ドイツの“性政治学”の分析を試みる。するとそもそも「同性愛者」そのものが、少数者を異化し排除するために政治的に作られたカテゴリーだという構図が見えてくる。ナチも自らの内にあるその要素を否定したいがために、「同性愛者」のレッテルを貼り、弾圧したのかもしれない。
同性愛者を「彼ら」ではなく「われわれ」と呼ぶ著者のチャレンジングな歴史再解釈は、まだ始まったばかり。今後の発展が楽しみだ。【評 香山リカ(精神科医)】
| 丸山眞男回顧談〈上〉 | |
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| 丸山眞男回顧談〈下〉 | |
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「迷いながら」思想形成の過程明かす
その没後十年を経ても、政治学者丸山眞男は依然として毀誉褒貶(きよほうへん)の最中にある。だが彼の生涯や経験については、これまで意外に明らかにされてこなかったのだということを、本書を読んで改めて知らされた思いがする。
本書は晩年の丸山への、17回に及ぶ聞き取りをまとめたものである。それまでこうした試みを拒否していた丸山が、聞き取りに応じたのは、「時代の証言として一つの資料になるかもしれないと考えるようになった」ためということだが、そこには他人への評価を含め、包み隠さずに話そうとする姿勢があったといえよう。戦時下の回想の中で、経済史家大塚久雄の理論にはナチスに甘いところがあったなどと説明しているのも、その一例である。
印象に残ったのは、東大法学部という彼が生きてきた場が、丸山の意識の中でとても大きな位置を占めていたということだ。特高警察のブラック・リストに載せられていた丸山を、助手に採用してくれた東大法学部は、日一日と戦争に傾斜していく「時代からかくまってくれた」存在であったと、彼は終生、恩義に感じていたようである。そして彼は戦時下において、大学の自治を守る「反時局派」の大同団結こそが、東大の「人民戦線」の結成だと考えたのである。しかし彼によれば、戦時中に「時局」に抵抗していた東大法学部は、そのため逆に戦後には反省が足らず、保守的になったのだという。
また丸山は戦後に、それまでは肯定的だった重臣リベラリズムに批判的になっていくが、新聞記者の父親が宮中側近の牧野伸顕のもとに親しく出入りしていたことは、本書で初めて知った。戦前の丸山にあった重臣リベラリズムへの親近感は、この生い立ちと無関係ではなかったろう。
時代や権力との緊張の中で、誰にも自分自身の存在が試される時がある。人の思想というものは、そんな試練の場で、その人が真に信頼できる人格であるか否かにかかっていると、彼は考えていたようだ。丸山が迷いながら思想形成していく過程が、伝わってくる書物と思えた。【評 赤澤史朗(立命館大学教授)】
| もうひとつの明治維新―幕末史の再検討 | |
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歴史学界には一種のIT革命が進んでいるようだ。史料の大量デジタル化、情報処理と相互参照のスピードアップは研究環境を様変わりさせただけでなく、既存の歴史像にも変更を迫らずにいない。
本書は、その成果を取り込んで育ってきた若い研究者による幕末政治史論のアンソロジーである。編者の言では、近年の歴史学は「もはやグランド・セオリーの下に安住することは出来なくなった」由だが、一九七〇年代生まれを主力とする執筆陣は、初めから《大文字の歴史》から自由な世代であるのが清新だ。
長い間、幕末維新史をめぐっては《勝者の歴史》に対して《敗者の美学》が異を唱える構図が支配的だった。しかし今や、その対立を乗せた基盤自体を押し流す力が盛り上がってくる印象である。
収録された八本の論文は、どれも一級史料にもとづき、従来の薩長中心史観では《空白域》として取り残されていた部分にうまく狙いを定めている。(1)長州藩俗論派(2)尾張藩佐幕派(3)京都政局と米沢藩(4)孝明天皇腹心グループ(5)鳥取藩京都留守居(6)幕府首席老中板倉勝静(7)将軍空位期と諸侯会議(8)薩摩藩和平派と取り揃えられたメニューは選別が行き届き、ツボを押さえている。専門研究者にとって興味深いばかりでなく、もっと広く、幕末志士物や新選組物で眼を肥やしてきた幕末史ファンの読者も思わず感興をそそられるだろう。
本書がスポットを当てるのは、正史でいつも脇役・引き立て役を振られる「日和見状態にあった中立諸藩」「勝者の中の敗者」といったマイナーな政治勢力だ。だが歴史過程は主勢力の独走だけではありえず、必ず「対立勢力の影響が刻まれている」はずである。この一連の事例研究は、政権の行方を定めがたく、疑心暗鬼が跳梁する幕末史の《一寸先は闇》の中に暗視カメラを差し込み、複眼の内景を切り開いて見せている。
もしかしたら、今まで「幕府や朝敵諸藩側の史料」が未開拓のまま書かれてきた幕末史は、欠落だらけの視野を全視界と錯覚していたのではないかという気がする。【評 野口武彦(文芸評論家)】













